バーAにて

小抜一恩

 馴染みのバーでピアノ・ジャズに耳を傾けながら、三十年物の響に酔いしれていた。東京出張のたびにCタワー・ホテルを取るのが、ここ十年の習慣であった。おかげでバーのマスターは何も言わずとも良いウイスキーをロックで出してくれる。

 このご時世、どうせビジネスホテルはサービスの割にどこも高い。ホテル内のレストランで会食でもすれば移動の手間も省けるので、もはや瑣末な額を気にする必要のない身分を手に入れてからは、いつもここを選んでいた。もちろん、一層値の張る宿を知らないわけではないのだが、お嬢様客の多いホテルはあまり得意でないのだ。それに、馴染み深い渋谷の夜景はいつ見ても飽きない。

 と、繊細なピアノを乱すことのない心地良いリズムの足音が聞こえた。ちょうど視界の真ん中に映るカウンター席に座っていた男が、軽く手を挙げる。待ち合わせ客のようだ。

 仕事柄、女は見慣れているつもりだったが、やってきた女は並の女とどこか違っていた。決して夜の女の香りがあるわけではないのだが、ふつうの昼の女というには色気がありすぎるのだった。艶のある亜麻色の髪を気楽に一つにまとめ、覗く頸のほくろに目がいく。仕事帰りらしく、サックスブルーの柔らかなスタンダードシャツに膝丈の黒のタイトスカート、色の白い脹脛は肌色のストッキングに包まれている。シャツの襟は広く開き、胸元にはパライバトルマリンだろうか、鮮やかな水色がたった一粒で白い肌を際立たせる。ジュエリー好きのようで、決してしつこくないのに上質な石を上手くあしらっている様が良い。耳元のカルティエのトリニティにはやや閉口してしまうが、仕事を楽しむ妙齢の女らしく変な嫌味はない。女の左薬指にはシンプルなプラチナの指輪が光る。ここだけが、他の箇所のアクセサリーのセンスとはやや異色である。とはいえ、うまく地金の色を揃え、どうにか様になっている。先ほどの軽やかな足音は、昼の仕事の女にしては珍しい、ジミーチュウの黒のエナメルパンプスによって奏でられていたようだった。同じく黒のエナメルバッグは丁寧に手入れされていることが遠目にも窺えた。酒の味を損なわない程度の香水も悪くない。サンダルウッドやジャコウだろうか、ウッディな香りを選ぶセンスも好ましかった。


 待ち合わせ相手の男の方もまた仕事帰りのスーツ姿であった。安い生地ではなさそうだが、カスタムメイドと思われる何の変哲もないシングルの濃紺の無地。30歳になるかどうかとみえる年齢にしてはやや質の良いネクタイとピンをつけているのが印象的だった。頭はいかにもきっちりしている風に整髪料で七三に分けられ、どう見ても官僚か銀行員か、という風情である。こちらは左腕にグランドセイコーのスポーツコレクションのみ身につけ、他は指輪も何もつけていない。いかにも真面目一辺倒な雰囲気である。


「お久しぶり。元気そうで何よりです。」

女の声は赤の他人に掛けるには柔らかいが、しかし馴染みの人間に掛けるには言葉遣いが硬い。

「こちらこそ、お久しぶりです。」

男の声は多分に緊張を含んでいた。しかしその目は真っ直ぐに女の方を向いている。女の方は伏し目がちに男の方を向いているが、声にはささやかな笑みが含まれている。

「お忙しいんじゃないの? 無理して律儀にこの時期を選ばなくても良いのに。」

「今はそんなに忙しくもないですよ。それに、せっかくならやっぱり冬の渋谷で会いたいから。」

「そう? それなら良いんだけど。」女が伏していた目を男に向ける。真っ直ぐに横顔を見れば、案外とまつ毛が長いのだった。「……今年もまた、一年間のことを伺っても?」

「今年は俺からなんだっけ? わかりましたよ。」「でもその前に、何か頼もうか。」

 ひとまず二人はヴーヴで乾杯した。

「何から話そうかな……」


 ここ二年間はあなたと直接会えなかったが、去年チャットで近況報告をしたその数日後に辞令が下り、今年からは国内勤務となった。とはいえ行く当てもないから、とりあえず官舎で慎ましやかに暮らしている。使い途もなければ使う時間もないので、金は貯まる一方だ。

 仕事はまあ順調だと思う。やりたいこともできている。もちろん現状に甘んじるつもりはないが、着実な前進と成長の実感があるし、周囲からの期待も感じるから、その期待に応えられるまではまだここにいるべきだと思っている。将来のこともそれはそれで考えているから、それについては軌道に乗り始めたらまた話すつもりだ。何年後かの十二月に。

 良いひとなんていないよ、忙しくて出会いなんぞに費やす暇がない。忙しさはありがたいことなんだがね。休みも運動と勉強と休養で嵐のように過ぎ去るし、有休消化なんて言ってられない状況だ。働き方改革とはいうが、なかなかそうもいかないよな、やっぱり。


「そっちはどうなの?」

水を向けられた女はひとつ息をついてから、次に頼んだ山崎のロックで舌を湿らした。

「わたしの方は、去年と大差ないのよ。」


 お正月は例の如く夫の実家で過ごして、たらふく食べさせてもらえるからやっぱり例年通り少し太って東京に戻った。帰宅後にはこれもまた毎年の習慣になっている明治神宮での初詣を夫と二人で済ませ、仕事初め。とは言っても昨年末の仕事の続きに着手するだけ。

 仕事面では、去年から新しく大きい案件を任せてもらっているのもあって充実した毎日を送っている。とはいえフルリモートだから、出張以外の時間はずっと家にいるのだが。

 ご存知の通り、彼は優しいの。わたしが家で忙しそうにしていると、甲斐甲斐しくお世話してくれちゃって。この前なんか、わたしが仕事を終えるまでにビシソワーズとカルパッチョとグラタンを用意してくれて。何だか妙な取り合わせだったけど、とってもおいしかった。今じゃわたしより料理名人なんだから。


 くっくっと笑いながら夫のことを語る女は、大層幸福そうだった。薬指の指輪を弄ぶのが癖なのか、目を手元に向けたまま、続ける。


 そう。夫との関係は恋人同士であった学生時代から変わらずずっと良好なのだった。未だ学生気分で財布も持たずふらふらと散歩のようなデートをすることさえある。

 一つ報告しておくことがあるとすれば、流産の話だろうか。とはいっても週数の浅い頃の話だったので、我が事ながらあまり実感がない。自分の中に命が巣くっていたことも、それが天に召されたことも。

 夫の話を聞いている間、男はじっと女の目を見ていた。幸福そうな女に安心しているかのように、目尻を下げて、しかしその目尻の笑い皺が傍目には切ない。しきりにグラスを持ち上げ褐色の液体を喉に注ぎ込む男の右手は、微かに震えていた。


「体の方は、大丈夫なの?」

「うん、ピンピンしているの。言ったでしょう、実感がないって。子供じゃないから心当たりがないとは言わないけれどね、特に妊娠を目掛けていたわけではないから、一層実感が湧かないっていうのが正直なところ。」


 そんな具合だから、仕事も変わらず続けている。軽く処置をしてもらうために病欠は使ったが、その程度のものだった。

 夏には例年通り高原の避暑地で数日間を過ごし、秋には紅葉を眺めに温泉街へ湯治へ。そうして今に至るというわけだ。

 相変わらず趣味の読書やら演劇鑑賞やらは続けているが、そのあたりはSNSを見ているだろうからわかっているはずだ。そうそう、今月の頭にはお茶事にお呼ばれもして、そちらも趣味も充実している。


「……相変わらず楽しそうに日々を過ごしているようで、心底羨ましいよ。」

「そりゃ、お国のために働いていらっしゃる方と比べればホワイトに働かせていただいているから。」

「いや、時間の有無だけでなくってさ。上手く言えないが……。」

 ぽつぽつと物静かに言葉を交わす二人のグラスは幾度か交換され、そして今ももう空になっていた。

「そろそろお暇しますね。もうこんな時間。」

華奢な左腕のアルパイン・イーグルにちらと目をやり、女がふと言った。

「ああ、もうそんな時間なのか。」男は譫言のように女の言葉を繰り返した。そわそわと内ポケットに手をやる。

「お会計はこれで足りるかしら? 足りなければ後ほどご連絡をくださいね。お送りします。あなたはいつも通り、まだ残って飲んでいかれるんでしょう?」

「ああ、いや……」

「ごめんなさいね。夫が待っているから。」早口にそう言い切ると、最後に女は言った。

「これからも、楽しみにしてる。あなたのこと。それじゃ、また一年後。」

 来たときと全く同じ調子の足音を響かせ、女は一人で去っていった。

 女の姿がすっかり見えなくなると、男はやっと内ポケットから何やらカードを取り出す。目をやれば、それはこのホテルのカードキーなのだった。


 男の目尻の皺にもう一度目をやり、そのまま目の前の窓に視線を移せば、いつのまにか音もなく雪が降り始めていた。自分のグラスもちょうど空いたところである。もうそろそろ部屋に戻るかと、私は伸びをした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

バーAにて 小抜一恩 @Nupyoon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る