君の犬
小抜一恩
*
君のことが好きだ。
一番窓際の列の前から三番目に座っている君。僕はその隣の列の前から五番目の席で、ちょうど桂馬なら一足で君のもとに飛べる距離。
毎日、毎授業、僕は君を目で追う。君は木曜日の五時間目の数学の授業だけ居眠りをするよね。眠たいとき、君はシャーペンのお尻で顎を抑える癖がある。授業で指されると首をほんの少し傾けて、その首の角度はだいたい左に二十五度だ。全部知っているんだ。僕は君の、カーテン越しの陽に透けるまつ毛と、いつもツンと尖らせている桃色の唇に恋したんだ。
十一月の初めごろ、文化祭が終わって修学旅行や冬休みにはまだ間があって、学生は気怠げな息を吐くあの季節のある日、僕は風邪をひいた。高い熱が出て息も絶え絶え、共働きの親は僕を残し家には一人。ぼーっと天井を眺めていたと思ったらいつの間にか寝ていたようで、ふと目が覚めると知らない匂いがした。いや、知らない匂いではない。これは……君の匂いだった。
濃くて甘い砂糖のような匂いに頭がくらくらして、上手く立ち上がれない。仕方がないから四つん這いで知らないベッドから下りるがあまり苦ではない。見ると手はいつもの何倍も小さくて指も無く、いや、あるのかもしれないがぱっと目に入るのは四本の爪。手も腕も焦げ茶の短い毛に覆われていた。
ベッドの下の姿見に映った自分を見て声をあげてしまった。
僕は犬になっていた。
もちろんあげた声も犬の鳴き声でしかなかった。
「ん…たろくんどしたの…」
寝起きの君の声が降ってくる。普段よりトーンが低くて掠れ気味なその声に僕は欲情した。体の中心が熱くなって、立ち上がった君に陰部を擦りつける。
「こら!もう…朝からだめじゃん」
君は片手で僕を抱き上げると触れられた箇所が発熱して、息が上がって、勃ち上がったものは収まろうとせず、しかし君は目もくれずに隣室へ向かった。
ウィンナーが香ばしく、スクランブルエッグのバターが立ち上り、焼いた食パンがオーブンで待ちわびているのがわかる。僕も空腹を覚える。さっきまでの興奮はいつしか食欲によるそれへと変わっている。
君は面倒臭げに平たい陶器の皿を取り出し、計量カップを手に取って何となく気になっていた袋に手をかけた。好きな香りだ! 袋の中の何かが皿を叩く音がすると僕は興奮が抑えきれない。檻に走って行って大人しく座る。
「いい子ね」
きっとそんなことをそんな声で言われたら、普段の僕なら飛び上がるほど嬉しかっただろう。しかし今の僕はもう反応しない。どんな君にも動じない。目の前の茶色いカリカリした物体が僕の全てだ。
「よし」
その音が響いた瞬間、まだ食べていないのに、僕の全細胞が「美味い!」と叫んでいた。
気づくと君はもういなかった。もう誰もいなかった。僕は檻の中にいた。噛むとプピーと軽薄な音を立てる不気味なぬいぐるみと僕だけが残された。でも僕は幸せだった。君の香りに包まれて、君の生活を想像して、もう一生このままでいい。感情全てがゼロか百しかないのだ。それも一瞬で過ぎ去る。生活の全てが君しかいない。目を閉じるとさっきまでの君の顔が浮かんでくる。そういえば僕の顔を覗き込んで「かわいいね。すぐ帰ってくるからね。」と言って鼻先にキスをしたんだった。何でそんなことを忘れていたのだろう。もしかしたらあまりのショックでしばらく記憶を失っていたのかもしれない。そんなふうに忘れていた記憶を一つ一つ呼び起こし、その度に喜びや興奮を抑えきれず、それらの感情を発散する手段も知らず、一人で腰を振り続けた。気づいたら寝ていた。
薄暗い部屋で鍵の開く音を聞いた。目が覚めると甘い匂いはもうなかった。知っている天井。
「起きてる?」
母親の声。僕はもう君の犬ではなかった。
熱はすっかり下がっていて、翌日には登校できた。
でももう、僕が君を目で追うことはない。
君の犬 小抜一恩 @Nupyoon
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