名前のない夜

ぬいぐるみのしろくま

名前のない夜



2025年の12月13日

公に会う約束をしている最後の日だ。




私には好きな女性がいた。

付き合いそのものの長さは16年にもなる。

これを書いてる今も好きかは定かではない。

というか、好きと思ってはいけない。


なぜなら彼女には、すでに婚約者がいるから。

再来週には、入籍するらしい。



最後の約束は共通の友人や知人を集めての飲み会だった。

女性3人、男は私1人の計4人という実に奇異な構成だ。


うちの1人は仕事で遅くなるらしく、3人で0次会をすることになった。


既に2人は集まっており、私は0次会の会場にやや遅れて到着した。


2人の集まるバーの扉を、静かに引く。


「こんばんは」


店内には見慣れた彼女と、共通の友人の女性がいた。


左から共通の友人女性、彼女の順番で座っており

私はコースターと手拭きが用意されている彼女の右隣に、迷いなく座った。


共通の友人女性は席についた私に向かって驚いた声で問う


「えっ、○○!?」


「そうだよ、○○だよ」


どうやら一目で私と気づけなかったようだ。

それもそうである。

私は共通友人女性と最後に会ってから久しい、その間に大幅に痩せたのだ。


「ねー!痩せてかっこよくなってるよね!ぱっと見○○ってわからないよね!」


なぜか彼女は、それを知ってることを誇らしげに言う。


私は少し照れ笑いをしながらバックバーを見渡す。

ウイスキー専門を謳うバーだけあって好物のスコッチがずらりと並んでいる。


しばらく迷った後


「グレンアラヒーのチンカピンのものを、ハーフで」


このお酒を頼んだ理由は主に2つある。


ポカンとする2人をよそに、マスターは慣れた手つきで酒を注ぐ。


「どうぞ」


私の前に差し出された琥珀色のウイスキーからは実に良い香りが立ち昇る。


バタースコッチやイチジクのジャム、特にココアや糖蜜の香りが濃く、甘い。


やはり美味しい。

頼んだ理由のひとつは、単純にグレンアラヒー蒸溜所の酒が好みであること。

やはり裏切らない。



そして私は鞄から1本のボトルを取り出す

「マスター、持ち込みで開けさせていただきたいお酒があるのですが よろしいですか?」


マスターはもちろん と頷き、グラスを差し出してくれた。


私は取り出したボトルを彼女に見せ、尋ねる


「覚えてる?これ」


彼女はすぐに答えた。


「あ!私が数年前に贈ったのだ!もう飲んだのかと思ってた!」


「2人で飲もうって約束してたからね、1人で飲んだりしないよ」


そう言って、そっと封を開ける


赤褐色のウイスキーをグラスに注いだ瞬間、濃密な黒糖やレーズン、ドライフルーツの香りが強く薫る。


「すごくいい匂い、おいしそう〜」

と、彼女は言う


「先ずは2人で」

と周りの計らいで我々はひと足先に口をつける。

強烈な甘みと、やはり薫り通りの濃密かつ砂糖をまぶしたようなレーズンが顔をのぞかせる、相当美味しい

私はウイスキーを数百本飲んできたが、これはその中でも極上の部類だろう。


「よろしければ是非どうぞ」


遅れて私はマスターと友人にも勧める

待ってました と言うマスター

スカした人だと思っていたが実は剽軽なようだ


マスターも香りを嗅いだ瞬間

「これはすごいですね、相当いい」

と太鼓判を押す


同行者も

「詳しく表せないけど、美味しい!」と言う


私は

「良いお酒を見つけてくれたんだね、ありがと」

と、言いながら


彼女の頭を撫でかけて、手を引っ込める。

ためらいだけが、指先に残った。


バーの灯りと、周囲の気配が、

否応なく、私を現実に引き戻す。


彼女には婚約者がいる。

ここでは、私たちはただの旧知の友人でいなければならない。


そして、何を隠そう、このボトルの中身もグレンアラヒー蒸溜所のものだ。


ふたつの酒を飲み比べしようと考えたのだ。

それが先の選択のふたつ目の理由。


会話は進み、彼女は婚約者の愚痴をこぼし、

私はそれを、肯定も否定もせずに聞いていた。


そんな時、例のお酒の匂いを嗅ぐ すると落ち着くと言った。

どうやら相当気に召したようだ。


そうこうしてるうちに次の店の予約時間が近づいていた。


「今日はどのお酒が1番良かった?」


そんな話題になり、一同で例のボトルを指した。


彼女は

「飲んだお酒全部美味しかったけど、これ凄かった〜!他のお酒の記憶なくなっちゃった」


マスターも

「ほんとにそうですね、そのレベルでした

良いものを飲ませて頂きありがとうございます」

と、頷きながら言った

その会話を最後に、会計して店を出る


雨が降っている。


彼女はどうやら傘を持ってきていないらしく

私は彼女が入れるよう、差した傘を無意識に左に寄せる。

彼女もいつものようにに私の傘の中に入る。

私の右肩は、少し濡れる。


次のお店までは徒歩6分ほど。


今振り返ると、友人女性からすれば「そこの2人で相合傘?」と不自然に映っていたかもしれないが

友人女性も彼女も酔っていたから、そのくらいはいいだろう。


次の店に向かうまでの道のりは自然とウイスキーの会話で盛り上がる。


私は到着した瞬間に驚いた。

彼女たちの前に

"オーチャードハウス"

"モートラック 12年"

"アードベッグ ウーガダール"

が並んでいたのだ



友人女性はオーチャードハウスとモートラック。

彼女はオーチャードハウスとアードベッグ ウーガダールを飲んでいた。


友人女性は

「もう、私のウイスキーの知識は全部あの店のマスターからだから〜」

と話す。


彼女は

「私は○○からだね」

と笑顔で私の顔をみて話す。


私は正直に言った。

「2人とも、こんなにウイスキー好きとして仕上がってると思わなかったよ。

あんなチョイス、ちょっと飲むくらいじゃしないからね」


友人女性の方はおそらくマスターの勧めであろうと推測できる。


だが彼女のチョイスは妙に渋い。


「アードベッグ TENならわかるけど、ウーガダールをわざわざハーフロックで頼むなんて ほんと飲み手として成長したな〜」

と、私は彼女に向かって言うと


「私が『1人で飲みに行ってアードベッグ TENが美味しかった』って○○に話したら『それならウーガダールもおすすめだよ』って教えてくれたんだよ」

と、彼女は言った


私は思い出して

「言ったわ、言った言った」

と、強く相槌を打つ


「だから飲んでみようと思ってて、ちょうどあったから注文したんだよ」

と彼女は続ける


私は心の中で

[にしても、ただのロックじゃなくハーフロック。

渋すぎる。そこまでウイスキー好きになってくれたのが、正直嬉しい]

と思いながら


「美味しかった?」と聞く


「美味しかった〜」と答えた後

「けむい感じと、シェリーの感じが合ってて好きだった」


と、的確な感想を話す


私は思わず

「おぉ〜!!!」

と声を出す。


会話に置いてけぼりになった友人女性は

「私はまだその領域まで行けてないな、もっと飲も!」と意気込む。


そうこうしているうちに店に到着し、

別の知人女性も合流した。

驚いた表情をしている、

どうせ私の変わりように驚いているのだろう。

それもそうだ、会うのは9年ぶりで成人式以来である。

しかし、そんな驚き様もここまでくると慣れたものだ。


傘を仕舞い、店に入る。

カウンターはすでに埋まっており、

2階席は貸切の大学生で盛り上がっていた。

活気のある良い居酒屋だ。



手前の座敷に通される。

彼女は私の向かいを位置取る。


服をかける場所が彼女側にしかないため、ハンガーを取ってもらい コートをかけて渡す。


一同が席につき

「とりあえず飲み物を」と

私と友人女性はビールを頼む。

彼女は日本酒、知人女性は車で来ている上に下戸なのでカルピスを頼んでいた

日本酒も飲みたいので猪口は3つ頂いた。


メニューは季節の海鮮が揃っておりどれも美味しそうだ

私はそれぞれに要望を聞きつつ、最終的に彼女に選ばせた。


私は、彼女が美味しそうに食事をとる姿がとても好きだ。

もりもりと、それでいて品よく食べる。

男である私よりも一度に多くの量を食べられる、健啖家でもある。


そんなところが、やっぱり好きなのだ。



そうしてお酒と料理が続々と届き、遅めの1次会がようやく始まる

彼女が日本酒を自分で注ごうとしたのを見て


手酌なんて味気ないな、注がせてよ。

そう言って私はボトルを取り、

彼女の猪口になみなみと注いだ。


知人女性は、私以外の2人を見て、

「もう、既に結構出来上がってるね」

と笑いながら言った。


友人女性は 1件目で少し飲みすぎてしまったかも と反省の弁を述べる。

彼女も 「外で飲むの久しぶりで、こんなに酔うと思ってなかった 昨晩は自宅で予行練習したのにな〜」と話す。


その話題を皮切りに彼女は語り始める。

昨晩はウイスキーを飲んだらしい。

銘柄を聞くと、ウイスキーのアラン10年だという。

昨年、彼女の誕生日に私が贈ったボトルだ。


彼女は割とお酒を空けるのが早いので

気に入って2本目を自分で購入したのかと思い 問うてみると、どうやら私が贈ったボトルそのものらしい。


えらく珍しくゆっくりなペースに好みから外れていたか、と内心不安になり思わず口に出して聞いてしまう。


「好みじゃなかった?」


すると彼女は首を横に振り答える。


「ちがうの、あまりにもおいしくって

もったいなくて、すごくゆっくり飲んでるの!」

と満面の笑みを私に向けてくれた


彼女に贈ったアラン10年は、私の好みの中心にあるもので、思い入れもあるボトルだ。

私は冗談半分、本気半分で、


「もし俺が死んだら、アラン10年とか、俺が大事にしてた酒をかけてくれ」


と後輩に頼んでいるくらいには、気に入っている。

それほどの酒だ。

だからもし、彼女の好みではなかったらどうしようと、
胸の奥が少しざわついていた。

良かった。安堵した。


私が脳内で1人であたふたしていると彼女は続けて話した。

「その前は何をもらったっけ?」


「タリスカー10年」


私は即答する。


彼女は

「そうだった〜!あのお酒もハイボールにしたらすっごく美味しかった〜! ○○に教えてもらった胡椒をかけたり 山椒をかけるハイボールにハマってすぐに空にしちゃったんだった」

と、懐かしそうな表情で語る。


私は

「そうなんだよね、タリスカーが本当に一瞬で空いてたから アランのペースが遅すぎてすごい不安になったよ」

と安堵で緩くなった表情で言う。


「タリスカーはハイボールでごくごく飲んじゃったから早めに無くなっちゃったけど、アランはストレートとかロックでゆっくり飲んでる」

と、飲み方まで私に話してくれた。

そして立て続けに

「なにより、○○のことを思い浮かべながら 少しづつ 大切に飲んでいるよ。

引っ越し先にもお守りというか、○○と思って持って行くね」

と語った。


私の感情は、この時メチャクチャだった。


アランを無闇にハイボールにせず、

ストレートやロックで、ゆっくり嗜んでいるという事実。

それだけでわかる飲み手としての仕上がりを嬉しく思う反面、


「引っ越し」という単語。


彼女がどこかへ行ってしまう。

嫁いでしまうのだという実感が急に押し寄せてきて、

心拍が上がるのがわかった。


その一方で、

「ゆっくり飲んでいること」

「私を思い浮かべながら、アラン10年を持って行ってくれること」


住む場所も、立場も、関係も変わってしまっても

彼女の中に、私という存在が

それなりに長く、それなりに大きく

残り続けるのだという感覚があった。


それは不純で、

本来、入籍を控えた女性に対して抱くべき感情ではない。


頭ではそう理解しながら、

それでも私は、確かに喜んでしまっていた。




宴が進み、彼女は自分の選んだ日本酒の1本目がまだ空いていないにもかかわらず、メニューに目を通していた。

「何か気になるものがある?」

そう尋ねると、彼女はいくつも候補を挙げてくる。

幸い、私は酒で困ったことはない。
余らせる心配もないだろう。


一緒にメニューを眺める。
並んでいるのは、私が一通り飲んだことのある銘柄ばかりで、彼女におおまかな味わいを説明しながら選んでいく。
追加で2種ほど頼むことにした。


そのうちの1本は、彼女が何か意図して選んだのか、それとも私の説明した味わいに惹かれただけなのか。
昨年の秋、2人で紅葉を観に行った渓谷の名を冠した酒だった。



彼女は蟹味噌を注文しており、各自の小皿に取り分けた後

甲羅酒をしたいから甲羅が欲しいと目を輝かせて頼み込んでくる

皆、どうぞと快く譲った。


甲羅酒はどれが合うかな?と3種ある日本酒を前に楽しそうに迷っている。

どうやら決めきれないようで私にも聞いてきた

私は迷わず1本の酒を勧めた。


「私もそれかなとおもってた!」と言う


私はその酒を甲羅に注いでゆく。


時間が経つにつれ、酒の温度が上がり、立ち上る香りが次第に濃くなっていく。


私は「もういいと思うよ」と、彼女の手元の皿に置き

熱いから気をつけるよう注意を促す 。


あちち と言いながら実に美味しそうに飲む。

よっぽど気に入ったようですぐに飲み干してしまった。


空になった甲羅をじっと眺め、はっとした様子で言う。


「○○にも分けようと思ったのに、全部飲んじゃった・・・」


かわいい、正直に可愛いと思ってしまった。

しかし、そう思ったのを表情には絶対出さず

笑いながら

「いいよいいよ、美味しそうに飲んでたし なんならそれもう一回くらいできそうだよ」

と お代わりを勧める


次はどれが良いかな とご機嫌でまた日本酒を選んでいる。

どうやら決まったようだが、栓がうまく開けられないようで、結局また私が注ぐ。


注ぎ終わると

「次はちゃんと分けるね!」

彼女は笑いながら言う。


沸くまで、2人でじっと見つめる。

良い香りが漂ってくる


「もういいと思うよ」


そう言い甲羅酒を彼女の皿に移そうとする


「まって!先に飲んで・・・

また全部飲んじゃいそうだから」


2人とも笑う


そうであれば、と私は先に口をつける

美味い、残った味噌の塩気と磯の香り 日本酒のほんのりとした米の甘味が沁みる


おいしいね、と笑いかけ彼女の皿に渡す


「おいしかったから、今度こそあなたにも飲んでもらいたかったの」


と 再び彼女も私に笑いかけ伝えてくる。


彼女が2度目の甲羅の酒を飲み干すのを見届け、私は席を立った

用を足したかったわけでも、酔い過ぎたわけでもない。

ただ、気持ちを落ち着かせたかったのだ。


その際、店員に水を頼んでおいた。


私は一度店を出る。

外の空気を吸い、念の為に持ってきておいたタバコに火を点ける。

吸うわけではない。

ただ、これが燃え尽きたら戻ろうというタイマーのようなものだ。


タバコは燃え尽き、

私は深く、冷たい空気を吸ってまた店の戸をくぐる。


彼女と友人女性はかなり出来上がっている様子で、注がれた酒の量は私が外に出る前とさほど変わっていなかった。

代わりに私が頼んでおいた水には手をつけたようで、しっかりと減っている。


私が再び席に着くと、友人女性に水について問われた


「これって○○が頼んでおいてくれた?」


「そうだよ」私は答える


「ちょうど頼もうって話してたら届いたからすごいびっくりした!さすがじゃ〜ん!」

友人女性がそう言ったあと、間髪入れずに

「んね!○○ってよく見てるし、すごくやさしいんだよ!」

と、またなぜか誇らしげに言う。


そして会話の火種は私へと向かう。


そういった気遣いができるのに、

なぜ今現在、私には結婚相手は愚か恋人すらいないのか という話題になる。

私はばつが悪い思いをしながら、自分の猪口に口をつける。


今日の面子は確かにアウェーだ。

友人女性は既婚であり、

知人女性は2年という長い期間 同棲している彼氏がいる。

そして、彼女には婚約者がいる。


私に白羽の矢が立つのは当然のことだ。


正直、私は結婚というものを遠ざけている。

結婚を目的とした恋愛は嫌だし、

ワードを出されるだけで身構え、一歩退いてしまう。


それ以外にも、あれこれ言い訳をした。

特に自分が会社というものに所属せず、仕事をこなしているが故、仕事のモチベーションや、それにより収入が不安定なことを掲げた。

しかし彼女らは強い女性らしく

「そんなことは関係ない、好きであれば女が男を支える時期だってある」

「男だからって格好つけようとし過ぎている」

などと遠慮のない言葉を投げかけてくる。


ごもっともな部分もある、というか大半が正論であり耳の痛いものだ。

これに関しては甘んじて受け入れるほかあるまい。


そんな私に対する集中砲火がおさまってきたころ、彼女が壁にもたれかかっている。


最初は「酔いが回り過ぎたか」と思い心配したが、

ふと気づく。

もたれかかった壁には私のロングコートがかかっている。

彼女はどこか懐かしそうな表情を浮かべている。



私は他所行きの際、香水をつける習慣がある。

今日着てきたそのコートにも吹き付けてあった。


それが薫ったのだろう。

昨年2人で紅葉を観に行ったときと同じ香りだ。


彼女は、大胆にもロングコートの裾を嗅ぐように顔を近づける。

私は見ないフリをする。


彼女らはやはりかなり酔っていて

あまり良いペースで酒が進んでいる、とは言えない状態が続いた。


結局、頼んだ日本酒3本のうち2本分以上の量を私1人で飲み干しただろう。


まぁ良い。

山口を発つ前に少しでも多くの地酒を味わって欲しいと思っていたし、

私自身も、酔いたいと思っていた。

ちょうどいい。


そんな気持ちと裏腹に、空き腹で強い酒を飲み続けたにも関わらず、

私の酔いは一向に深まらなかった。


普段は水を飲みながら加減をする。

しかし今日はそれもせず、強い酒ばかりあおっている。

しかし一向に酔いが深まる気配はない。


そんな膠着した時間の中で、彼女が私に喋りかける。


「例のお酒がまた飲みたいな」



私は解散しようが、まだ続きようが

最後に1件、行きつけのバーに寄ることを決めていた。


彼女に「一緒に来る?」と声をかける

もちろん!という 酔いぶりにしては元気の良い返事が返ってきた。


宴は進み、ラストオーダーを尋ねられる。

追加は特にせず、

水だけ、また頂くことにした。

それと同時に友人女性の携帯が鳴る、どうやら旦那が迎えに出発したようだ。

宴もたけなわというわけで、話題は最後の盛り上がりと言わんばかりに皆の生活の近況を聞くものになった。


知人女性は先述の通り、同棲はうまくやっているようだ。しかし入籍はまだ先だと据えているらしい。

なんなら我々としては入籍したものと思っていたくらいなので、少し意外ではあった。

形はどうであれ、うまくやっているのであれば

それで良い。


友人女性は、家を建てているらしい。

来年の1月の引き渡しを目前に、期待が高まっているようだ。

聞いてみると大手ハウスメーカーで、かなり大きな金額を払っていた。

純粋に、とても感心した。


私の近況は先ほども大まかに掘られたが、

自分でこう言ってはなんだが 全くモテない というわけではない。

定期的にアプローチしてくれる女性は現れる。

今年も数人いなしたところだ。

そんなこと振り返りながら、事細かに話す必要もないと思い、

「全く女性との縁がないわけではないが、どうにも上手くはいかない」

という旨を話して終わった。


次は本命と言っても過言ではない、彼女の番だ。

どうやら、慣れない地域への居住に大きな不安を抱えているものの、婚約者の男はとてもいい人らしい。

私は少し安心できた。


皆が見たいというので、彼女と婚約者の男が一緒に写っている写真を見せてもらう。


そこに写った男性は非常に恰幅がよく、おおらかそうだ。

私は一つ思うことがあったが、口には出さなかった。


しかし、友人女性が口を開き

「これって、むかしのm... いや〜!良い人そう!」


とんでもない事を言いかけてる、だかよく言いとどまったな。

と心の中で頭を抱えると同時に、実は私も同じことを思っていた。


そう、その男性は過去の私と雰囲気が似ているのである。


私はなんとも言えない気持ちを誤魔化すために少し大きめの声で言う。


「いや〜!みんな幸せそうで良いな!」


すると突然彼女から、チクリと鋭い言葉が飛んでくる。


「○○は自分からアタックとかアプローチすること"少ない"もんね〜、もっとがっついてみてもいいんじゃない?」


効いた、相当に。


たしかに、私は彼女に対して付き合おう、とかの告白など、関係性を明確にするアプローチをしたわけではない。

いわば、【最後の攻撃のチャンス】を逃さず、

正確に私の急所に打ち込んできたのだ。

酔っているにも関わらず、だ

最後に私に何か言おうと、よほど思っていたんだろう。



私も普段であれば、何かを言い返したり上手く切り返したりするのだが


こればかりは、しおらしく 「はい...」と返事をするほかなかった。


私は逃げるように再び席を立つ。

普段の話し声とは違う、少し低い独特の通る声で

「すみませーん」

と奥の店員に声をかける、店員がはーいと返事をし、

こちらを向いたところで指をサッと交差する。


財布に現金を多く入れてきていたわけではなく、

少し緊張しながら金額の紙に目を通す。

まぁ、こんなもんだろうな

と、ほぼ予想通りの金額に少しの安堵を覚え、会計を済ます。

店を出る準備をするために手洗いに向かう。


手洗いから戻ったタイミングで、そろそろ友人女性の迎えが到着するようだということになり 一同は退店の準備をする。


彼女と私は残りわずかになった日本酒を分け合うことにした。

猪口に注ぎ終わり、

「乾杯!」

彼女の小気味良いかけ声で猪口を軽くぶつける。

私も彼女も最後の日本酒をぐっと飲み干す。


知人女性が会計をするために店員に声をかけるが

お会計はもう頂いてますよ、と言われる。


皆が財布を取り出すが、流石にそれでは先に会計をした格好がつかない

と説得し、財布を仕舞わせる。


はっと思い、私は店員に声をかけた。

「写真を撮っていただけますか?」

私は店員に頼み、写真を数枚撮ってもらう。


[今見ても、皆楽しそうな顔をしており、良い写真だ。

良い写真ではあるのだが、私は普段の生活だとよく笑うくせ、相変わらず写真になると笑顔が下手くそである。

だが、これを見て、私らしいと思う人間もいるか

と思い ならばそれで良いかと、今これを書きながら自分を納得させた。]


彼女の側に掛かってる私のコートを取ってもらい、受け渡しの際に私の香水がふわっと薫る。


彼女が言う


「良い匂いがするね。」


私は答える


「これ、去年の紅葉を観に行った時につけてた香水だよ。」


彼女は


「ね。」


と一言だけ私に返す。


会話は店の喧騒に紛れ、他の2人には聞こえていないだろう。


ぞろぞろと靴箱へ向かう。


私は振り返り、座敷に忘れ物がないことを確認する。




先述の通り私はそこまで酔えておらず、

サッと靴を履き、自分の傘を取り店を出る支度をした。

友人女性と知人女性の2人は既に外に出ている。


彼女がなにやら苦戦している

どうやら履いてきたショートブーツのチャックが噛んでしまったようだ。

酔っているうえに、女性の力ではなかなか直せないだろう。


私は膝をつき、彼女の右足の上がらくなったチャックを治す。

そして、小さな左足にも、黒いスエードのショートブーツを履かせる。


私は先に立ち、"いつものように"そっと手を差し伸べる。

彼女は迷いなくその手を取る。

ゆっくりと力を入れて彼女を立ち上がらせる。


断じて強く引いたわけではない。

しかし、彼女はバランスを崩してしまう。


体制が崩れた先に私がいて

そのまま抱きつかれる形になってしまう。


私は反射的に左手を彼女の体に回してしまい、

右手で頭を撫でる。


耳元で小さく声をかける。


「大丈夫?怪我はない?」


彼女もまた、申し訳なさそうな声で

「うん」

と答える。


私は「少し酔いすぎたね」と言い、

次の店に行かずに今日は帰るか問う。


彼女の返事はノーだった。


今の様子を、先に出た二人は見ていないだろう。

━いや、見ていないでほしい。


正直、視線を感じてはいた。

それでも、見ていないことを祈るしかない。


私がどう思われようと構わない。

だが、彼女が何か思われるのは、意に反する。


そうして無事に彼女を店先へ連れ出し

この場を持って離脱してしまう友人女性と彼女との別れの挨拶が始まる。


友人女性から

「いつでも連絡してね」「地元だから、またかえってくるよね」「うちに泊まったっていいからね」

など、次々に暖かく、情に満ちた言葉が投げかけられる。


彼女はいずれにも

「うん、うん、ありがとう」

と、少し震えた声でこたえる。


我々は無邪気に「「「「"またねー!"」」」」と大きめの声で言い、ブンブンを手を振る


おおよそ年相応の別れの仕方とは思えないが、

元を辿れば、我々は中学時代の同級生なのだ。

お酒も入っているのだし、その頃の記憶でお別れをしたっていいだろう。


雨は止んでいる。


知人女性もここで帰るかと思いきや、

どうやら次の店にも来てくれるようだ。

人数が多い方が、彼女も楽しいだろう。

私も素直に嬉しい。


幸いなことに、次の店に選んだ私の行きつけのバーはフレッシュフルーツのカクテルが豊富で、

どれもノンアルコールに対応している。


そのバーは「程よい隠れ家感」といえば、聞こえは良いが

何せ灯りが小さい。

奥まった立地というわけではない、

なんなら通りに面した建物にある。

それでも、初めて連れてくる友人たちは口を揃えて

「こんなところにお店があったんだ」と言う。


彼女とも一緒に何度か来ているはずだが、

向かっている最中で

「あれ?どこだっけ?」

と、既に視界に入っているはずのバーを見失う


それほど灯りが小さく、見つけにくいのだ。


私は、その分かりにくいバーの戸を引く。


「3人ほど入れますか?」


とカウンターの中のマスターに、私は問いかける


マスターはサッとカウンターを見て、3席空いていることを確認したが、詰め詰めになってしまうことを考慮してくれたのだろう


どうぞ、と言い

奥の4人掛けの丸いテーブル席に通してくれた。


着席するやいなや我々はメニューに目を通す。


このバーはかなり親切にメニューが書かれている。


通常、バーというものは大まかなメニューもあるが

「メニューに無いものも、申しつけていただければ作ります」といったスタンスのお店が大半だ。


それに比べると、この店はかなり多くの種類のカクテルがメニュー表に記載されている。


彼女は

「えー、迷っちゃう これも好きだし、これも好きだし〜...」

と、様々なメニュー指差す。


「全部美味しそうで、迷ってしまうね」

と私は彼女に語りかける


知人女性は洋梨のカクテルを、ノンアルコールで。

私は、ソサエティのラフロイグを。

そして彼女は迷った末に金柑のカクテルをオーダーした。


お酒が到着する前にアミューズが提供される。


ここのアミューズはいつもフルーツが入っており季節感があって嬉しい。


今回はカットされたキウイや柿などが盛り付けられていた。


この中のフルーツで何が好きか

そんな話題を話していると、各々のお酒が運ばれてきた。


再び乾杯する。


彼女は金柑のカクテルに早速口をつけ、目を丸くして

「お〜いしい!」と言う。


よかったね、と笑いかける


知人女性もうん、と頷く。

気に召したようだ。


自分の通う店のカクテルが気に入られると、なんだかとても嬉しく思う。


私もグラスを手に取る。


まずは香りを嗅ぐ。

期待通りのスモーキーさだ。

燻製の様な燻した香りをしっかりと感じるし、アイラらしいヨード感もある。


そしてグラスを傾け、色や粘性をみる。


ようやく口をつける。


えらく固い。

入荷したてで、開栓して間もないのだろう。

アルコールのピリピリとした刺激を鮮烈に感じる。


正直、一瞬ハズしてしまったか?と思った。


だが、余韻はさすがラフロイグといったところか、素晴らしい

アイラらしい塩気やペッパー、ベーコン、奥になにか柑橘の皮の様な雰囲気を感じる。


これは、少し時間を置けば良くなる酒だ。

そう思い、私は黙ってグラスを回した。


話題はプレゼントに関しての話になる。

どうやら知人女性と同棲している彼氏の間でクリスマスプレゼントの贈り合いがうまくいっていないようだ。


お互いの欲しいものを聞き合い用意する予定だったが、どうやら知人女性は彼氏の欲しいものを確保できなかったらしい。

反対に彼氏は彼女が3つほど候補を出したうちのいずれか1つが欲しいと言ったところ 、全て贈ってきたらしい。

気持ちはとても嬉しいが、返すものが用意できないのにどうすれば良いのだ!と知人女性は愚痴をこぼす。


まぁまぁ と我々は知人女性を宥める。


一呼吸置いたのち、彼女は

「私って今年○○に誕生日何あげたっけ?」と質問してくる。


「千疋屋のミニタルトのセットだったよ」

と、私は即答する。


彼女は

「そうだった!東京旅行に行った時に食べて美味しかったから、それを思い出してプレゼントしたんだ! ○○はよく覚えてるね〜!」


感心すると同時に、私が覚えていることを少し嬉しそうにして話していた。


私も「美味しかったし、嬉しかったからね」

と なぜか照れて返事をする。


そして今度は私から質問をする

「その前は何をくれたか覚えてる?」


私は正直、彼女は覚えていないだろうと思っていた

しかし意外なことにすぐ答える

「チョコレートのカップとウイスキーのセットだったよね?」


私は、意外な早さでの回答に思わず おおっ と声を出す。


彼女は続けて

「○○の誕生日はね、お酒をあげようかなっておもうけど、持ってそうだなー とか お酒以外だと何が喜ぶかなってすごく考えたから覚えてた」


私は嬉しく思う。

もちろん、プレゼントそのものも嬉しい。

だが、やはり自分のためにプレゼントを考えてくれた事、喜んでもらいたい、という気持ちが本当に心温まるのだ。


そして私は

「タルトはすごく美味しくて、毎日1つずつ楽しみにしながら食べたよ。

チョコレートのカップとウイスキーも、すごい新鮮で面白いと思いながら楽しんだよ」


と、感想を伝える


そんなやりとりをしている内に

私のグラスの中のラフロイグは飲み頃を迎えていた。


私は彼女に

「飲んでみる?」と聞くと


こくりと頷き

「わーい、ちょうだい」と返事をする


彼女は

「クセが あって美味しいー、塩気もあるね!」

と、またまた的を得た良い感想を述べる


私は補足として

「なんだかベーコンとかも感じない?」


と聞くと

「言われたら感じる〜!」

と、面白そうに答える


そうして私にグラスを返した後、彼女は

「じゃあ私のも飲んでみる?」

と 金柑のカクテルを差し出してくれた


であればと思い、一口頂く。

柑橘の柔らかな香り、甘み、酸味

そして、皮由来の苦味と少しの油分

よくできている

やはりここのフルーツを使ったカクテルは美味しい。


「これも美味しいね」と言い私はグラスを彼女に返す。


彼女も

「ね!このチョイス正解だった!」

と嬉しそうだ。


各々のグラスが空になり、2杯目を選び始める。


私は嘉之介のシェリーカスクか、厚岸の何かを頼もうと考えていた。


知人女性はあっさりと、みかんのカクテルのノンアルコールに決めた


彼女は迷っていた。


「どれにしようかなー、フルーツのカクテルがどれも美味しそう!全部飲んでみたいな あ!レーズンバターも美味しそう」

と言う。


そうしてしばらく迷った結果、栗とコーヒーのカクテルに決めたようだ。


私は手元のベルを鳴らす。


「注文をいいですか?」


マスターはメモを取り出す


知人女性は

「みかんのカクテルをお願いします」

彼女は

「栗とコーヒーのカクテルをお願いします」


そして私は

「ザクロのカクテルを頂けますか」


と全員がオーダーを終わらせる。


彼女が色々なものを飲んでみたいというのであれば

私は取り計らおう。


そしてふと思い出す

そういえばレーズンバターを頼み忘れている。

ついでに例のお酒も用意しよう。


私は席を立ち、カクテルを作る支度をするマスターに

「すみません、あとレーズンバターをお願いします」

とオーダーする

そして、持ち込みのボトルをカウンターにそっと置き

「あと、持ち込みのボトルを用意したいのでグラスを貸していただいても?と問う」


マスターは、はい と返事をし、グラスを2脚用意してくれる


私は「マスターもどうぞ」と言い


「では、お言葉に甘えて」

と3脚目を取り出す


そしてマスターは

「ボトルを拝見しても?」


というので、もちろん と手のひらを向ける


やはり流通量が少なかったボトルである上に、マイナーなボトラーズなので興味津々に見ていた。


「アラヒーですか」

「そうなんです」

「12年なのによく色が出ていますね」

「そうですね、しかも度数が63.6%ってかなりウェアハウスのいい場所に居た子なんだなって思います」

「確かに」


そして、ハーフで注いでもらえますか?とお願いする。


赤褐色のウイスキーが注がれてゆく

「やっぱり黒糖、レーズン、なんなら かりんとうくらい感じますね」

「そうですね、かなりレーズンとかが居て、アラヒーらしいですね」


口をつけ、私は

「63.6%とは思えないくらいアタックが柔らかくないですか?」

とマスターに同意を求める。

マスターは

「そうですね、しかし これすごくいいですね〜」

と感心する。


「持ち込みさせて頂きありがとうございます」

と礼を告げ、彼女の分も持って席に戻る。


「注いでもらったよ」と言い、彼女の前にグラスを置く

すぐさま彼女はグラスを手に取り 鼻に近づける

「やっぱりいい匂い〜」

と、うっとりした表情になる。


そして、レーズンバターについての談義が始まる

私はウイスキーにレーズンバターを合わせるのが好きだ、私の影響か彼女も一緒だ。


どの店がどの形で出てくるか、どの店のものがお気に入りか などを話しているうちに、

マスターが作ってくれたカクテルが各々の前に到着する。

同時にレーズンバターも出てくる。

ここの店のレーズンバターは、クラッカーに乗って出てくる。


「あのお酒、余韻も長くて凄くいいですね。

ごゆっくりどうぞ。」と言いマスターは静かに下がる。


私と彼女はなぜか嬉しそうに笑う。

そして早速レーズンバターを手に取り、一口齧る

そして全てを飲み込み切らない内に、例の酒を口にする。


彼女は ん? という表情をする


私が「どうしたの?」


と尋ねると、


「思ってたほど合わない」

と少し残念そうに言う。


なるほど、確かにそうだ。

この酒には、すでに十分すぎるほどのレーズンのニュアンスがある。

重ねても、マリアージュは生まれない。


かく言う私も、実はレーズンバターよりはビターチョコかナッツが合いそうだな。と思いながら、単純にレーズンバターが食べたいと思い、彼女の意見に乗っかって注文したのだ。


しかし彼女は残りのレーズンバターを口に含み、次はカクテルに口をつける


「あ!こっちには合う!

こっちのカクテルと合わせて食べよっと」


合わないことに落ち込むよりも、

新しい組み合わせを見つけて楽しむ。


そういうところが、私は好きだ。


そして彼女はまた、自分のカクテルをじっと見つめて何かを数秒考える、そしてハッとした後に、

「これ、チェルシーの匂いがする!」と言いながら私にグラスを差し出してくる。


本当だ、本当にチェルシーの香りがする。

あまりにも懐かしい、確かチェルシーは数年前に販売が終わってる。


私は「本当だ!」と強く同意する。


彼女は同意を得られて、満足気だ。


そして「飲んでみてよ、美味しいよ」と私に勧めてくる


ならば、とまた彼女のグラスに口をつける


思わず頷いてしまうくらい、美味しい。

チェルシーのイメージに引っ張られそうになるが、栗の味もしっかりと感じる。

なおかつ、クリームが使われているようなので胃への負担も少なそうだ。


「これもいいね」と言い、彼女にグラスを返す



そして私は

「色んなのを飲みたいって言ってたでしょ」と

自らのザクロのカクテルを彼女に勧める


「わーい!ありがとう」

と言い彼女は私のグラスを受け取る。


「これも美味しい!ここのは本当に全部美味しい!」

と 美味しいものを口にした後の彼女は本当に嬉しそうだ。


今振り返ると、知人女性からすれば、少し奇妙な光景だったかもしれない。


そんなことを当時は気にすることもなく、

我々は中学時代を懐古しはじめる。




彼女は中学生活のスタートをうまく切ったとは言えなかった。

幼稚園時代は地元で過ごしていたものの、

小学校の6年間は父親の仕事の都合で他県に移り住んでいた。

そして中学に上がるタイミングで地元へ戻ってきたのだ。


しかし、幼少期の6年間というのはあまりにも長い。

コミュニティを固めるには、十分すぎる時間だ。

幼稚園こそ地元ではあったが、

すでに完成していた輪の中に彼女が入り込む余地はなかった。


彼女自身も積極的な性格ではなく、

結果として人目を避けるように、ひっそりと過ごしていた。


当時の私も、決して社交的な人間ではなかった。

それでも見兼ねて、彼女に話しかける。


「どこの小学校からきたの?」


私が彼女にかけた最初の一言だ。

忘れもしない。


事情を聞いて、なるほどな、と思った。

彼女のおっとりとした話し方が不思議と心地よく、

なんとなく、波長が合う気がした。


それ以降、私の方から彼女に話しかけることが増えた。


彼女はなかなか面白い人だった。

好きなことになると饒舌になる。

そういったところが、私とよく似ている。


特にハリーポッターの話を始めると止まらない。

生粋のハリポタオタクだ。


気づけば私と彼女はかなり親しくなっていた。


そうして、なんという偶然か3年間ずっと同じクラスで過ごすことになる。


いや、偶然などではない。

おそらく必然だろう。


数年前に知ったのだが、クラス替えというのは

完全なランダムではなく、ある程度意図して組まれているらしい。

合唱コンクールのために、各クラスに最低一人は

ピアノ経験者が配置されていたことを思えば、納得もいく。


そう考えると、独りでいた彼女の居場所として、

私は3年間あてがわれ、同じクラスに仕組まれていたのだろう。

まぁ良い、私も彼女と話をするのは好きだ。


彼女も彼女で、昔のことをよく覚えていた。


クラスメイトのあだ名や、私と毎日していたラジオの話、細々としたエピソードまで本当によく覚えていた。


そして彼女は「1番覚えてるのはあれかな」と話しはじめる


「○○は覚えてる?放課後のやつ」


私は「あぁ、あれね」

と照れながら答える、心当たりがあった。


「放課後にさ、教室のカーテンの中に隠れてずっと話してたよね」

彼女もいざ話しはじめると、少し恥ずかしそうだ。


私は恥ずかしさを誤魔化すよう、手慰みで自分のカクテルに口をつける。

彼女もカクテルに口をつける。



正直カーテンの中で何を話していたのかを私は覚えていない、ただ放課後に差す琥珀色の陽に当たりながら

彼女と外を交互に眺め、ずっと話をしていた。



そんなことを回想しながら、私は彼女との思い出を振り返る。


私には当時、長い期間同じ女性を好きでいた。

中学三年の時点で、9年目の片思いだった。


今思えば、よく続いたものだと思う。


その女性とも友人として相当に仲が良かった

ただ、告白できずにいた。

私が奥手な性格である上に、もし告白に失敗すれば積年の恋愛感情も、友情も粉々になってしまうからだ。



先ほどからここに記している通り、私は当時彼女のことを"友人"として好いていた。


いつから"女性"として見ていたのかはわからないし、いつから好意を抱いていたかも覚えていない。


反対に私が周りから聞くに当時から彼女は私のことを好いていたらしい。


なんなら好意を抱いてる女性に

「○○達は付き合ってるよね?クラスの中ではそういうことになってるよ」

と問われた事もあった。

周りから見るとそれほどに親密であったし、お似合いであったのだろう。


正直に言おう、私はそれら聞いても冗談だと思い込むようにしていた。


彼女からの好意にはできるだけ気づかないふりをして、

友人としての関係だけを見つめるようにしていた。


意識してしまうと ギクシャクしてしまいそうで嫌だったから。


何より、私は片思いを諦めきれずにいた。


中学卒業後、私と彼女は一時的に疎遠になっていた。

私は、他の同級生より携帯を持つのが遅かったので連絡先を交換できないまま違う高校へと進学した。


その後何がきっかけかは覚えてないが、連絡先を交換し、会って遊んだりするわけではないが、稀に連絡を取り合っていた。


そして大学時代2年の頃であろうか


彼女から連絡がある。

「カメラやってるよね?お願いがあるんだけど...」と

たしかに私は当時カメラを趣味としていた。

そして、彼女はコスプレを趣味としていた。

要は、彼女のコスプレを私に撮って欲しいとの事だった。

友人の頼みとあらば断る理由などない。

レンタルしたスタジオで何度か彼女を撮った。

やましい気持ちなどは一切沸かず、

私は純粋にカメラマンとして、コスプレイヤーの彼女を撮っていた。


以後、頻繁に連絡を取るようになる。



そして私はまだ片思いを続けていた、長すぎるだろ。



しばらくお互い何かあるわけではなく、各々の恋愛をして過ごしていた。我々はただの友人だった。


転機があったのは24〜5歳くらいの時であろうか

彼女は失恋や仕事でのストレスにより精神疾患を患ってしまう。


私はもともと夜の寝つきが悪い。

精神疾患の影響で眠れない彼女の話し相手になることは、私にとって自然な流れだった。


私と彼女との連絡の頻度は、自然と上がった。


私は彼女が精神疾患と診断された当時、仕事の都合で名古屋に住んでいた。

そして年末、私は名古屋での仕事を終えて、山口に再び生活を構えるようになる。


私は彼女に会いに行った。

そして、彼女の住む街へ一緒に飲みに行き、

彼女の家に泊まる。

男女が同じ軒の下で一晩過ごすのだ、

お酒の勢いもあり我々は一線を超えてしまう。


以後、私と彼女は言葉にせず、そういった関係になってしまう。


私は自分の恋愛が思うようにいかず、彼女を心の穴埋めにあてがっていた。

最低だ。


だが、同時に私が彼女の拠り所になっていた事には違いないと自らに弁明する。


彼女の精神疾患が寛解しても関係は続いた。


我々の関係は良くも悪くも、進み過ぎてしまった。


桜を観に行き

夏祭りに行き

紅葉を観に行き

イルミネーションを観に行く

彼女の家で手料理を振る舞い、酒を飲み、熱を分け合う


この関係は何なのであろうか


月日が進んだ頃、私は彼女にボソッと言われる。

「○○と結婚したいな」


私は過熱し、爛れ、浮ついていた彼女との関係に冷静になる。

私だって彼女とずっと一緒にいたい。

だが、結婚を目的とした恋愛をすることには、どうしても拒否感が拭えなかった。


彼女は過去の恋愛で、結婚直前まで進んだものがあった。

両家両親に挨拶を済ませるところまで進めて破談という、何ともまた大変なものである。


彼女は両親や祖父母を期待させておいて、そういった結果になってしまった過去に後ろめたさを感じていた。


自分のため、というのもあるかもしれないが、

周りのためにも、結婚して安心してもらいたいと考えているのだろう。


正直、私は彼女とずっとこのまま一緒にいる上で、

時が来れば、この先の未来まだ彼女が私を好いてくれるのであれば、籍を入れる日が来ても何もおかしな事はないと思っていた。


だが私は返事をはぐらかした。


私とて、結婚をしたくないわけではないのだ。


むしろ、結婚したいと言ってもらえるほどの好意を寄せてもらっていることを嬉しく思う部分もあった。



ただ、それを目的にされると私は・・・・




さらに月日を重ねる、いつからだろう


私は彼女に対して好意という言葉ではあまりにも矮小な感情を抱くようになっていた。


しかし、結婚という決断には至らない。


彼女も諦めずに、煮え切らない私に結婚をしたいという意思を伝えてくる。



私はついに言い放ってしまう。


「早めに結婚するなら、このまま俺と居て時間を無駄にしてはいけない、同じ目的がある人と付き合った方が間違いなく安心できると思うよ」


悔しい、そんなことを言ってしまう私の男としての器量の小ささが。


だが、私には私の人生のコンセプトがある。

彼女には彼女の人生のコンセプトがある。


私がどれだけ態度で好意を示したとて、

結婚という形に変えない限り、

彼女からすると、何の保証もない、宙ぶらりんな関係のままなのだ。

その事実を、私は理解していた。


彼女は私の言葉のあとインターネットで出会った男性と交際する事になる。

今の婚約者だ。


私は彼女への連絡の頻度を抑えた。

だが、私が彼女に対して抱いていた感情は、ぽっと出の人間に黙って明け渡せるほど、ちっぽけなものではなかった。


そして彼女とて、私を諦めないでいてくれた。


私たちの関係は、現実の裏路地へと進む。

光の届かないその場所で、輪郭を潰し、ただひたすらに泥濘む。


彼女は私に記憶を欲しがった。

私はその眼差しに逆らえず、彼女の白く美しい肌に不実の烙印を捺す


そうして数ヶ月が経った頃

彼女は彼氏が住む街への引っ越しを決意する。

そう、彼氏という存在が婚約者に変わった瞬間である。


彼女からその連絡を受けた瞬間、私の視界から色彩は剥落する

7月の熱気が鼓膜を圧迫して音は何も届かない

吸い込む空気は味を失い、肌に触れる不快な湿気も肌の1枚外側を通り過ぎる

あらゆる感覚が私の中で沈黙し、ただ空虚という名の重力が私を引き摺り込んでゆく


私は、現実という名の物語からはみ出た落丁の1頁の様な感覚だった。


眼から溢れ出ようとする欠片を瞼の裏に閉じ込め返事をする。

「寂しくなるね」

「地元に心残りが無いように残りの期間を過ごさないとね」


彼女から帰ってきた返事は

「○○と離れてしまう事がどう足掻いても心残りだよ」

あまりに甘やかで残酷な言葉だった


自らの情けなさに憤りを感じた。

家を飛び出し、夜の静脈をあてもなく巡る。


それから数ヶ月の間、私は夜しか出歩かなくなった。


私から彼女に声をかけたりはしなかった。

しかし、彼女は私に声をかけてくれた。


彼女は自分の進む未来が決まったとしても、

その未来が私と交わらないものだと、分かっていながらも

私とギリギリまで過ごそうとしてくれていたのだ。

世間では許されなくとも、時だけが許す限りは……



そんなことを振り返りながら、私は照明をぼんやりと見つめていた。

そこへ彼女が声をかける。


はっとして現実に引き戻される。


「私たち、3年間同じクラスだったの本当に良かったよね」


ちょうど私が先ほど1人で懐古していた話ではないか。


私は答える。

「ね、運命だよね」

仕組まれたものだと知っていながら、

私はそう答えた。


彼女は続けて、精神疾患になってしまった時の話をし始めて、

私が大きな心の支えになっていた事を話した。


彼女も私の過去に経験した恋愛を多少知っており、自らの経験からもこう話す。


「メンヘラはね、○○に依存しちゃうよ

私だってそうだったもん。」


私は内心で、これは危ないな、と思う


知人女性は私と彼女の事をただ"付き合いの長い友人"である としか思っていないはずだし、深い関係であった事は知らないはずだ。

しかし、まぁ、グラスの件もあった。

もう手遅れか。

諦める。


その後、私は慌てた様子を表に出さず、話題に焦点を戻す。

確かに、私は困っている周りの人を放って置けない質である。


そして

「今でも何人かに依存されてそう。」

と、2人に言い当てられる。


「まぁまぁ」

と私は返事を濁しながら

女の勘は鋭いと言うか、2人ともよく人のことを見ているな と内心で感心する。


そして彼女らは口を揃えて

「最終的に刺されそうだよね」

と、物騒なことを言ってくる。

実際、他の人にも何度か同じことを言われている。


そして私は

「その時は、倒したり、避けたりせずに抱きしめるよ」

と答えながら、意地悪く彼女の目をチラッと見る。


彼女たちは

「解釈一致だ〜!」

と、なぜかテンション高めで言う。




各々のグラスの中の量は残り少なくなっていた。


私はふと自分の携帯に目を落とす。


閉店時間を過ぎているではないか。

私は急ぎそっと席を立つ。

マスターの元へ向かい声を発さず、指を交差する。

幸いこの店は電子決済に対応しており、さっと会計を済ます。

マスターは、私が気づかれないように会計を済まそうとしていることを察し、

小さな声で「ありがとうございます」と言い、お辞儀をする。

決して我々を急かすような事はせず、音も立てずグラスを片していた、さすがプロだ。

心遣いに痛み入る。


我々のグラスは空になってしまう。

時刻は26時を過ぎていた。


一呼吸置いたのち

「そろそろ出ますか」

と、私は言う。


2人とも自分の携帯に目を落とし、時間を確認する。

「そうだね」と同意を得る。


端の椅子にまとめておいた各々のカバンやコートを手渡していく。


知人女性の荷物を渡す際に

「明日も仕事なのにこんな時間までごめんね、ありがとうね」

と、謝罪と感謝を伝える。


知人女性は

「明日は遅いし、今日は本当に楽しかったから、何も気にしないで」と言う。


店を出る際、彼女達は会計をしようとするが

マスターが「もういただいておりますので」と言う。


2人から「こいつまたか!」のような目線で見られるが、私は何食わぬ顔でマスターに一礼をして店のドアを開ける。


彼女達が店から出るまで、ドアを支えておく。

そして最後に改めてマスターに

「閉店過ぎてしまってすみません」

と伝える。

「お気になさらず、ありがとうございました。」

と言い、マスターは一礼する。


私は店の扉をそっと閉じる。


彼女達は店を出るや否や「いくらだった!?」と問い詰めてくる。


私はまたここでも、お金を出されると格好がつかないので「タダだったよ?」などと適当な冗談を言う。


しかし彼女達も引き下がらない。


私は

「じゃあ今度は出してもらおうかな」

と言い、場をうまく納める。


知人女性は車で来ているため、私たちに

「家まで送るよ」

と気を使って言ってくれる。


彼女は

「私の実家は近いし、○○に送ってもらうから大丈夫!」

と言う。


私も

「じゃあ、責任を持って送りますね」

と彼女の顔を見て答える。


知人女性は「わかった、気をつけてね」と言う。


そうして二手に分かれる。


正直、悪い雰囲気ではなかった。


私はどこか休憩に行き、最後の夜をもう少し伸ばしたいと思っていた。


しかし、彼女は真っ直ぐに自分の実家へと足を向ける。


私は寂しさを覚えながら、

「客観的に見れば、これが一番綺麗な幕引きだよな」

そう思うことで、自分を納得させた。


我々は歩みを進めて、一つ目の角を曲がる。


一気に街の喧騒から外れる。


路地には私たちの足音だけが響く。


気まずい沈黙があったわけではない。

むしろ、お互いの温かみを確かめるような

気持ちを確かめるような、静かな時間が続く。


しばらく歩いたのち、

私は彼女に言う。

「よく今日の香水があの時のだって覚えてたね。」


彼女は

「覚えてるよ〜」と答えたのち、続けて語り始める

「2人でイタリアンに行った時はマスカットみたいな匂いで、花火に行った時はシトラスっぽい匂いで

紅葉に行った時は今日の大人っぽい重い匂いで〜」

次々とその他の印象的なデートとその香りを全て正確に振り返ってゆく。




覚えていてくれているんだ。

──いつまで、だろうか。





そうして、しばらく思い出を振り返った後、

今度は彼女から口を開く。


「上手くやっていけるかなー」


「社交性もあるし、人懐っこくてすぐに地域に溶け込むし、意外とチャレンジャーだから大丈夫だと思うよ。

それに、優しい人でしょ?」

そう私は答えるが、


「何が、って言えたら楽なんだけどね。

全部が、なんとなく不安なんだよね」

と、自信なさげに言う。


私は

「いまどき、バツが付いてしまうことなんて何もおかしくないから、そんな考え過ぎなくてもいいんじゃない?

それに、地元のみんなはあなたのことをすぐに受け入れてくれるよ。」

と伝え、こう続ける



「俺はここに居るし、すぐにどうこうなったりはしないよ。

だから、、、安心して行っておいで。」



私はこの言葉を、彼女に対する呪いや楔として打ち付けたのか

はたまた彼女をマリッジブルーから救う、魔法の言葉として放ったのか。

これを書いてる今でもわからない。


彼女は

「ありがとう」


と一言だけ返事をした。


そうしてまたしばらくの沈黙が続く。

彼女の実家が近づくにつれ湧き出す寂しさを噛み締めるような、そんな沈黙だった。


そんな沈黙を彼女がやぶる。

「お母さん家にいなくってさ〜、お父さんの方に行っちゃった。」


彼女の父親が単身赴任で山口を離れている事は覚えていた。

しかし、母親までもがほぼ転居状態であるような話は聞いたような聞いてないような、朧げな記憶であった。


私は

「そっか、寂しいね」

一言だけ返す。


彼女は

「うん」

と、返事をする。


そう言いながら歩いていると、彼女の実家であるマンションのエントランスに着く。



私たちはいつからか、手を繋いでいた。


その手を、ゆっくり、ほどく。


私は、ほどいた手を振りながら


ゆっくり、ゆっくりと後退りをする。


これでもう、本当に逢えなくなってしまう。


彼女は、小さく手を振りかえしてくれている。


そんな彼女の方を向きながら、私は後退りをする。


彼女の足が、こちらへと向かう。


トコトコと、私の元へ歩み寄ってくる。


いけない。


未練が残ってしまう。



──私は、目の前まで来た彼女を抱きしめる。


彼女は私よりも強い力で私を抱きしめてくる。


唇が自ずと重なる。


触れた瞬間、彼女の息が私の唇に溶ける。


離れる理由を見失ったまま、時間が止まる。


唇が離れたあとも、彼女はしばらく私の胸元に顔を埋めていた。


その温度と香りを、私は今も覚えている。


彼女は「寂しい」と言う。


私は「家に1人だから寂しいの?それとも、最後だから?」と聞く


「どっちもだよ」

と泣きながら返事をする彼女。


──私は、その夜の重さを引き受けることにした。



「歩くの止めちゃって寒いし、お茶でもいただけるかな?」


彼女は「そうしよ。一緒に温まろう。」

と答える


私は「これで言い訳つくだろ」

あるアニメのセリフを1人呟く。


私は彼女と手を繋ぎながらエントランスに入る。


部屋は3階

「お邪魔します」と、扉をくぐる。


彼女は小さく「ただいま」と言い、玄関に腰を下ろす。


私は、そのまま腰を下ろした彼女の前に屈み、

ショートブーツを脱がせるのを手伝う。


2人ともベッドに、腰を落とす。


彼女は住まいを隣町に移して、7年も経つ。

実家の部屋には、あまり物は残されていなかった。

ましてや、嫁いで行ってしまうのだから。


私は彼女に

「相手の方に無事に帰宅した事を連絡すれば?」

と、助言をする。


最悪だ。なんと卑怯でズル賢いのだ、私は。


彼女は助言通りに帰宅した旨を連絡する。

嘘を吐かせている。

本来は誠実で、真面目なはずの彼女を、

私がまた歪めてしまっているのだ。


今更になって、後ろめたさを覚えていた。

だが、黙って携帯を見つめる彼女の横顔を見ていると、

その重さは、私のものなど比べ物にならないのだろうと思ってしまう。


今宵は、私が悪いと思って欲しい。

いや、全て私が悪いのだ。

だから、すべてを背負わせて欲しい。


彼女は連絡を終える。

どうやら、既読がつくことはなかったようだ。

時刻は26時30分

普通の人間ならば、寝ていて当然か。


少しの間、沈黙が続く。


当然だった。


越えてはいけないラインを、

今から、また、越えようというのだ。


私から沈黙をやぶる。


「かなり酔っていたけど、大丈夫?」


彼女はいつも通りのおっとりとした口調で

「大丈夫だよ〜、外歩いたら少し酔いが覚めた」

と言い


突然立ち上がり片足立ちをはじめ

「ほら!片足でも立てるよ!」

と、アピールしてくる。


「わかった、わかった、転けたらいけないからやめようね」

そう言って彼女を支え、やめさせる。


私は

「でも、酔った事になってる方が助かる事が多いんじゃない?お互いに」

と、野暮な正論を放つ。


彼女は

「たしかにね」

と、笑いながら答える。


こんな時でも彼女は、私に対して笑ってくれるのだ。


私も釣られて笑う。



そして私は意地の悪い質問をする。


「いつから俺のこと好きだったの?」


彼女は

「えー、結構前からだよ」

と、曖昧な答えを返してくる。


私は

「結構前っていつよ」

と、追求する。


すると

「ひみつだよ」

と、はぐらかされる。


反対に問われる。

「○○は私のこと好き?」


すぐに答えられなかった。


今、そのまま言葉にすると、溢れてしまう。


間を置いた後、


「今は言えないな」


指先に伝わる脈が、ゆっくり重なる。

香水の匂いを彼女に残すように、距離を失くす。


再び、体温が溶け合う。


夜はもう私たちを見分けることをやめていた。


シーツに移った香りが、逃げ場を塞いでいく。





────気づけば、意識が底に沈んでいた。

目を開けたとき、部屋の空気が少しだけ冷えていた。




時刻は31時。


夜はまだ、名残のようにこの部屋に溜まっていた。


私は彼女を起こさぬよう、音を殺して服を身にまとう。


彼女への感謝や謝罪、エールを、声に出せなかった分だけ、簡潔な言葉に託す。


言葉が乾く前に、香水で封をする。


枕元にそれを置き、私は玄関へと向かう。

靴を履き、小さく「元気でね」と呟き、ドアノブに手をかける。


閉じかけた距離の向こうから、彼女の声が漏れる

「○○?起きた?……あれ?帰った?」

と、私を探すような声で言っている。


─────私は靴を脱いでしまう。


「あ、居た。」と彼女は言う


私は

「もう、帰るね。」

と伝える。


彼女は最後に抱きしめて欲しい旨を伝えてくる。


「もう、朝になったし、ダメだよ」と返答する。


代わりに私は握手を提案する。


そうして、私たちは握手を交わす。


温度も、脈も、指紋も、骨さえも ──すべてを刻み合うような、


長い、永い握手だった。


やがて、握っていた理由だけが先に消え、

手は静かに離れた。


啜り泣く彼女を後ろに、私は部屋を出る。


時刻は7時30分。


夜は、終わっていた。


エントランスを出て、私は自宅に足を向ける。


すぐに路地裏に入る。


私は立ち止まり、音を立てないよう涙を落とした。



〜あとがき〜


例のボトルのタイトルは


「La Vie du Lapin」


───うさぎの一生、という意味だ。


ボトルには、独り海を眺めながら

タバコを咥えて佇むうさぎが描かれている。


どこへも行かず、

それでも何かを見送る側のように見える。


彼女はフェリーに乗って、地元を離れるらしい。

私は伝えず、顔も合わせないよう、見送りに行こうと思っている。


なんとも皮肉というか、

数奇な巡り合わせというか。

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名前のない夜 ぬいぐるみのしろくま @La-Vie-du-Lapin

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