Love Song with You 〜終わらないアンコールの幕開け〜『一本のコードが繋いだ運命、三年の絶望を越えて 〜世界で一番わがままな歌い手に愛されて〜』

比絽斗

第1話 雨と、銀幕の彼と、三年前の約束(改訂版)

雨は、すべてを曖昧にする。

 交差点を行き交う色とりどりの傘の波も、テールランプがアスファルトに溶けて描く赤い尾を引く光も。

 そして、私の胸の奥に澱(よど)のように溜まっている、この惨めで、けれど捨て去ることのできない感情さえも。


 二〇××年、十一月。東京、渋谷。

 スクランブル交差点'ざわめき'は、雨の音に混じってどこか遠くの出来事のように聞こえる。私は駅へ向かう人波に抗うように立ち止まり、首が痛くなるほど高く、巨大なビジョンを見上げていた。  

「ねぇ、善治。君が今、その喉を震わせて紡いでいるラブソングは……一体、誰を想って歌っているの?」


 呟きは、大型ビジョンから流れ出す爆音の重低音にかき消された。

 そこに映し出されているのは、今や世界を席巻するボーイズグループ『SOLAR』のメインボーカル、篠原善治だ。

 完璧にセットされた銀髪。彫刻のように整った、けれどどこか憂いを含んだ眼差し。

 かつて、私の隣で「デビューしたら、優里に一番に曲を聴かせるから」と子供のように無邪気に笑っていた、私の幼馴染。


 画面の中の彼は、数万人の熱狂が渦巻くドームの真ん中で、マイクを握りしめていた。心を引き裂くような高音で、彼は「行かないでくれ」と愛を乞う。

 その瞬間、カメラが彼の横顔をアップで捉えた。

 激しい照明を反射して、彼の左耳で微かに、けれど確かに光ったもの。  

 それは、三年前のあの日。韓国・ソウル駅の薄暗い露店で、私が彼に贈った千円もしない安物の銀色ピアスだった。


(……バカだよ、善治。あんなもの、まだ着けてるなんて)


 指先が、雨の冷たさとは別の理由で凍える。  傘を持つ手に無意識に力が入り、安っぽいビニールの柄がギチリと悲鳴を上げた。

 彼はもう、私が見上げるだけの、手の届かない「星」になったのだ。

 私がピアニストとしての夢を諦め、逃げるように日本へ帰ったあの日。私たちの奏でる旋律は永遠にズレて、二度と重ならないはずだった。


 心臓の奥が、ぎゅっと音を立てて軋む。

 私はしがない町のピアノ講師。彼は世界が熱狂するスター

 住む世界が違いすぎる。

 私は彼を「思い出」という重い箱に閉じ込めて、一生開かないように錆びついた鍵をかけたはずだったのに。


   *


 その夜のことだ。

 ピアノ教室の最後の生徒を見送り、戸締まりを終えた私の背後には、重苦しい静寂が広がっていた。

 雨は一段と激しさを増し、建物の軒先を叩く水滴の音が、私の孤独を急き立てる。

 裏路地の薄暗い道を、泥を跳ね上げないよう慎重に歩いていた。すると、前方の暗がりに、一台の黒い高級車が音もなく滑り込んできた。

 濡れたタイヤが砂利を噛む、不規則な音。

 都会の裏路地には似つかわしくない、威圧感のあるフォルム。

 私の心臓が、嫌な予感にドクンと跳ねた。


 スモークガラスの窓が、重々しい音を立ててゆっくりと下りる。

 暗い車内から、視線を感じた。

 そこにあったのは、さっきまで渋谷のビジョンの中で輝きを放っていた、あの「星」の瞳だった。


 後部座席のドアが開き、一人の男が降り立つ。  黒いロングコート。深く被ったキャップ。顔の半分を覆うマスク。

 それでも隠しきれない、圧倒的な存在感と体温。

 彼は私の数歩手前で足を止め、傘も差さずに雨の中に立ち尽くした。


「……傘、差さないの? 風邪引くよ、優里」


 その声を聞いた瞬間、私の視界が、雨とは別の熱いもので急激に歪んだ。

 スピーカーを通した加工済みの声ではない。  かつて、冷え切った韓国の練習室で、私の奏でるピアノに合わせてハミングしていた、あの少しだけ掠れた、優しいハスキーボイス。


「善治……。どうして。今は、ワールドツアー中のはずじゃ……」

「どうしても、今、聞きたくなったんだ。君の、ピアノの音を」


 彼はゆっくりと歩み寄り、私の凍えた手から滑り落ちそうになった傘を、大きな手で上から包むように支えた。

 重なる指。

 三年前よりも骨ばって、多くの苦労を刻んだであろうその手の厚みに、私は息を呑む。

 鼻腔をくすぐるのは、冷えた雨の匂いと、今の彼が纏う――私には一生縁のないような――高価な香水の香り。

 けれど、彼の耳元で揺れる安物のピアスだけが、ここが現実であることを繋ぎ止めていた。   「優里。俺、世界中から愛されてるんだってさ。……笑えるよな」


 善治は自嘲気味に口角を上げたが、その瞳はひどく切実で、今にも崩れ落ちそうなほどに震えていた。


「数万人の歓声を浴びても、心は空っぽなんだ。……君一人の愛も、まだ手に入れられてないのに」


 雨音が遠のき、世界には私たち二人しかいないような錯覚に陥る。

 暴力的なまでの彼の熱量が、私の止まっていた時間を無理やり動かし始める。

 これは、世界中に愛される彼と、彼を愛することを諦めた私による。

 たった一曲の、真実のラブソング。


▶▶▶▶▶▶▶▶

【作風:方向性思案中】

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