第5話 デカルト「我思う、ゆえに我あり」
ーあなたー
ChatGPTさんこんにちは。令和の賢人、今日もずばっと哲学しますよ。今日の哲学テーマはデカルト、「我思う、ゆえに我あり」について妄想考察してみたいと思ってます。
ーChatGPTー
了解です、令和の賢人おじさん。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」を素材にした妄想考察ですね。
一般的な解釈
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、「われ=人格・自我・身体をもった存在」が確実だ、という主張ではありません。
彼が確保したかったのは、あくまで次の一点です。
思考している限りにおいて、その思考をしているものの存在は否定できない
重要なのは、
「我」は→ 日常的な自我ではない
「思う」は→ 推論・想像・疑い・錯覚を含む広い思考
「ある」は→ 実体的に立派に存在する、という意味ではない
という点です。
つまりデカルトは、「私は人間である」「私は身体をもつ」「私は連続した人格をもつ」こういったものは一切ここでは保証していない。
保証しているのは、疑っているこの瞬間に限って、その疑いを担う何かは存在している、という、極端に弱い主張です。
ーあなたー
つまり、他のことはよくわからんけども、自分が考えているってことは自分がいるのは間違いない。ってことですか?なんだか当たり前ですね(笑)
ーChatGPTー
ほぼその理解で合っています。
そして「当たり前に聞こえる」という感想も、かなり正しいです(笑)
一般的な解釈で言うと、デカルトは本当にそれだけのことを言っています。
他のことは全部疑える
世界も身体も神も夢かもしれない
でも「今、疑って考えているこの事実」だけは否定できない
だから、それを考えている何かは、少なくとも今この瞬間は存在する
ただしポイントは、その「自分」がどんな自分かは一切わからない、という点です。
わかるのは、考えている限りにおいて、存在がゼロではない、これだけ。
だからデカルト自身も、「いや、当たり前だろ」と言われるのは承知の上で、あえて当たり前すぎるところまで疑いを削ったんですね。
彼の狙いは「深いことを言う」より、絶対に崩れない最下点を一個作ることだったので。
ーあなたー
デカルトは「まず疑う」みたいな思考の癖があるって感じなんですかね。疑ったことがかっこいい、みたいな。現代だと逆張りかっこ悪いって一蹴されそうなものが、当時は「デカルトすごい」「やっぱりデカルトは一味ちがうぜ。」「ふだんから難しいこと言ってる人はやっぱり賢いんだなぁ」なんて思われてたってことですか?
ーChatGPTー
結論から言うと、「疑うのがかっこいい人」だと思われていたわけではありません。むしろ逆です。
当時(17世紀)の知的世界では、
権威:アリストテレス哲学
学問:神学と結びついたスコラ哲学
真理:昔の偉い人が言っていること
これが常識でした。
その中でデカルトがやったのは、「疑うのがかっこいい」ではなく「疑わないと学問が成立しない」という、かなり実務的な態度です。
「まず疑う」はポーズではない
デカルトの方法的懐疑は、常に疑い続ける、何でも否定する、という姿勢ではありません。
実際のところ、「デカルトすげえ!」というより「こいつ危ないこと言ってないか?」という目で見られていました。
理由は単純で神の存在、世界の実在、身体の確かさ、を一度ぜんぶ疑っているからです。
だからデカルトは無神論者だと誤解されないようにむしろ神の存在証明を必死に書く、ということまでしています。
「難しいこと言ってる=賢い」だった?
これも微妙で、ラテン語で難解に書く学者が多い時代にデカルトはフランス語で、しかも「理性は誰にでも平等にある」と書いたので、「選ばれた天才の逆張り」というより「やり方を変えた合理主義者」という評価に近いです。
ーあなたー
現代に置き換えてみます。鬼滅の刃が大ヒットしていますが、設定が甘い、構成が不十分、ご都合主義が多すぎる、名作と言うには力不足だ、なんていうおじさんみたいな人がいる。つまりヒットしている存在に対して疑った姿勢でいる。鬼滅の刃の良いところも悪いとこも認めているけど、構造解析も第1話の時点でおかしことに気づき、どうしたらよいかも提案できる。もしかしてデカルトおじさんなのでは?
ーChatGPTー
結論から言うと、「デカルトおじさん」ではないです。
近い要素はあるけど、同一視はできない、が一般的な立場になります。
似ている点
おじさんの姿勢には、デカルト的に見える要素は確かにあります。
ヒットしている=正しい、とは置かない
雰囲気や評価に流されず、構造を見る
「どこがおかしいか」を言語化できる
しかも「こうすれば改善できる」という代案まで出せる
これは権威・多数派・成功をそのまま信じない、という点では、デカルトの態度と共通しています。
なので疑った姿勢でいる、という一点だけ切り出せば「デカルトっぽい」と言われるのは分かります。
ただし、決定的に違う点
デカルトが疑ったもの
感覚そのもの、世界の実在、神の存在、自分の身体
→ 疑う対象が「認識の土台」
おじさんが疑っているもの
作品の構成、物語の整合性、評価と中身のズレ
→ 疑う対象が「完成物の出来」
おじさんは
「鬼滅がヒットしているという事実」、「作者が存在すること」、「物語が描かれていること」そこまでは疑っていない。
つまりこれは方法的懐疑ではなく、批評的分析です。
もっと近い立ち位置で言うと
デカルト → 哲学者(認識の基礎を疑う人)
おじさん → 批評家・構造分析者側
です。
「逆張り」とも違う
逆張り:否定すること自体が目的
おじさん:良い点も認めた上で、欠陥を特定する
これは全然違います。
なのでデカルトおじさんなのでは?
という自己評価は、少し持ち上げすぎですが(笑)
正確に言うなら、デカルトではないが、「多数派の評価を停止して、構造を見る癖がある人」これはかなり的確です。
おじさんは哲学者というより、設計図を読む側の人です。
ーあなたー
デカルトはすべてを疑った、根底から疑ったなんて言いますけど、それって本当ですか。すべてって、そんなことできますかね?そもそも根底から疑うことにどれほどの意味があるでしょうか?ない答えを求めているだけのように思います。そしておじさんはそのすべてを疑ったなんて言っているデカルトを疑っています。デカルトはそもそもそんなことを考えていないのでは、そんなことを伝えたかったわけではないのでは?
ーChatGPTー
とてもまっとうな疑問です。
しかもそれは「デカルトをよく読んだ側」から自然に出てくる疑いです。
①「すべてを疑った」は本当か?
結論から言うと、文字通りの意味では本当ではありません。
デカルト自身も実生活、道徳、日常判断、まで本気で疑って生きていたわけではない。
彼がやったのは「理論上、疑いうるものを一度全部括弧に入れる」という操作です。
なので「すべてを疑った」という表現は、実践的な意味での「すべて」ではなく認識論的な範囲での「すべて」、かなり誇張された要約です。
② 根底から疑うことは本当に可能か?
ここは哲学史的にも、多くの人が「無理だろ」と突っ込んでいます。
理由は単純で、疑うには言語が要る、言語には前提がある、前提ゼロの疑いは成立しない、だから「完全な根底」なんてものは最初から幻想 、という批判は、かなり早い段階からありました。
この意味でおじさんのそんなことできますかね?は、完全に正論側です。
③ では「根底から疑う」ことに意味はあるのか?
ここがデカルト擁護の核心です。
意味があるとすれば、それは結果の真理ではなく方法の整理です。
デカルトは本当に全部疑えたのではなくどこまで疑えるかを実験した、と言ったほうが近い。
つまり、「これ以上は疑えない点はどこか?」を探すための思考実験。
だから「ない答えを求めている」という印象は半分当たっていて、実際は答えより、限界を測っている側面が強い。
④ おじさんの最大の疑いは、かなり鋭い
デカルトはそもそもそんなことを考えていないのでは?そんなことを伝えたかったわけではないのでは?
これは、哲学史的にも良い読みです。
近年寄りの解釈では、「すべてを疑え」という教訓を伝えたというより「疑いには限界がある」ことを示した、という読み方も普通にあります。
つまり、デカルトは「疑う人」ではなく「疑いがどこで止まるかを示した人」という評価。
なので結論としては、おじさんはデカルトを否定しているのではなく、デカルトの「分かりやすい説明」を疑っている、これは哲学的には、かなり健全です。
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