第22話蒼嶺連峰へ

* * *

時の門が、東の国境にある蒼嶺連峰に眠っている――そうアーカイブさんから聞いた俺たちは、シンジュクを後にした。

朝の光が森を抜け、湿った土の匂いが足元にまとわりつく。街の喧騒はもう遠く、代わりに鳥の声と風のざわめきが耳に届く。踏みしめるたび、乾いた葉がかすかな音を立てた。

萬子さんが隣で軽く息を吐き、歩調を合わせながらネイさんに声をかける。

「ネイさん、ちょっと聞いていい?」

ネイさんは視線を前に向けたまま、わずかに横目で萬子さんを見る。

「なんだ」

「ネイさんって風の刻印だよね? 強化型なの? それとも魔法型?」

唐突な質問に、俺は思わず耳をそばだてる。背後でキャソさんの爪が土を抉る音が低く響いた。

ネイさんはわずかに眉を動かし、歩みを崩さず静かに答えた。

「唐突だな。こちらの世界では、そういうことを軽々しく尋ねるのは礼を欠く」

「そっか……ごめん」

萬子さんが肩をすくめると、ネイさんは淡い笑みを浮かべた。

「だが、これから共に旅をする仲間だ。戦力を知るのは悪いことじゃない」

「……! ありがとう!」

萬子さんの顔がぱっと明るくなる。木漏れ日がその笑顔を照らし、眩しく見えた。

「私は風の魔法型だ。そして――」

視線がキャソさんに移る。キャソさんは低く喉を鳴らし、ネイさんに目配せされると、短く頷いた。

「グルルガン」

「キャソは火の強化型だ」

「やっぱり風の魔法型かぁ……」

萬子さんは空を仰ぎ、ぽつりと呟いた。雲がゆっくりと流れ、青空の隙間から光が差し込む。

「ネイさん、空を飛んでたから……あたしも練習したら飛べるようになるのかと思って」

ネイさんは言葉を探すように視線をそらす。風が草を揺らし、ざわりと音を立てた。

その沈黙を破ったのは、エルさんだった。歩きながら本を胸に抱え、穏やかな声を落とす。

「萬子君、例え魔法型寄りでも、空を飛ぶのは難しかったでしょう」

「えっ、なんで?」

「風の刻印で空を舞えるのは、エルフ族だけだ。人族が空を飛んだなんて話は――おとぎ話の中だけだよ」

「同じ風なのに、どうして?」

エルさんはわずかに笑みを浮かべ、銀縁の眼鏡が陽光を受けてきらりと光った。

「ネイ君の刻印をよく見てごらん」

ネイさんが歩きながら袖をずらすと、肩に刻まれた紋様が露わになる。淡い緑の光が一瞬、木々の影を照らした。

「上部の両角に、羽のような文様があるだろう?」

「ほんとだ……」

「それはエルフ族の風の刻印にだけ現れる特別な風の加護の証だ」

萬子さんは自分の肩を見て、苦笑した。

「あたしの刻印は……二重になってて、よく分からないや」

ネイさんは淡々と告げる。

「二重刻印は規格外だ。あるいは――萬子君も飛べるようになるかもしれない」

「……まずは魔法型も使えるように、頑張ろっと」

萬子さんの声は明るく、前を向いていた。

その背中を見ながら、俺は胸の奥で小さく呟く。

(……飛ぶなんて、俺には想像もできない。でも――萬子さんなら、飛べるかもしれない)

* * *

夕暮れの森は、昼間のざわめきが嘘みたいに静かだった。木々の影が長く伸び、空は茜色に染まっている。鳥の声も遠ざかり、代わりに風が葉を揺らす音だけが耳に残った。

「ここで野営しよう」

エルさんがそう言って、胸に抱えていた本を開いた。指先が刻印をなぞり、低く呟く。

「土よ、紋章を描け」

淡い光が走り、地面が震えた。土の粒が宙に舞い、壁を形づくる。さらに指が刻印をなぞると、土の壁が硬質な光を帯び、石へと変わっていく。角が整えられ、表面は滑らかに磨かれたように光を反射した。

(……何度見てもすげぇな)

俺は思わず息を呑んだ。

エルさんは本を閉じ、こちらを振り返る。

「では、ケイタ君は石造りの風呂を作り、そこに水を貯めてください」

「了解です」

「萬子君は火の符板で、その水を沸かしてください。――沸騰させないように気を付けて」

萬子さんが笑みを浮かべる。

「はいはい、いつものやつね」

エルさんは穏やかに頷いた。

「訓練の成果を見せてもらいますよ」

* * *

俺は深呼吸して、地面に手をかざした。

(何度もやってるけど……やっぱり難しいんだよな)

刻印をなぞると、茶色の光が指先に絡みつく。意識を集中し、土を引き寄せる。柔らかな塊が浮かび上がり、ゆっくりと形を変えていく。

「よし……」

だが、ここからが本番だ。石への錬成は、土よりも魔力の制御が繊細だ。力を強めすぎると、表面が割れ、弱めると形が崩れる。

「……またヒビか」

萬子さんが覗き込みながら声をかける。

「ケイタ、前より早く組めてるじゃん」

「そう見えるならいいけど……まだ安定しないんだ」

汗が額を伝う。岩を組み、隙間を埋める。ようやく形になったころには、腕が重くて感覚が鈍っていた。

次は水だ。刻印をなぞり、青い光を強める。水滴が空中に集まり、流れとなって風呂に注ぎ込まれる。

(……よし、なんとか入れた)

萬子さんは符板を手に、風呂の縁にしゃがみ込んでいた。

「火力調整、まだ苦手なんだよね……」

符板が赤く光り、水面に熱が広がる。湯気が立ち上り、森の空気が柔らかくなる。

「……あ、ちょっと待って、これ沸騰しそう!」

萬子さんが慌てて符板を離すと、湯面がバチバチと音を立てた。

「大丈夫? 少し弱めてみよう」

「うん……でも、まだ感覚が掴めない」

萬子さんの声が焦りを帯びる。俺は必死に水を追加して温度を下げる。

(……何度やっても、火力の調整って難しいんだな)

思わず笑いそうになったけど、湯気の向こうで萬子さんが真剣な顔をしているのを見て、俺も集中した。

* * *

湯気が立ちこめる風呂場は、森の夜とは別世界みたいだった。石の壁に灯した光が揺れ、水面に金色の模様を描いている。湯に肩まで沈めると、張り詰めていた体がじわりとほぐれていく。

「……あったかい」

私は思わず声が漏れた。肌を撫でる湯の感触が心まで溶かしていくようで、深く息を吐いた。

耳に届くのは、湯が静かに揺れる音と、遠くで鳴く虫の声。森の夜気が風呂場の隙間から入り込み、湯気と混ざって柔らかな匂いを運んでくる。火の符板で温められた水は、ちょうどいい温度を保っていて、頬に触れる空気との温度差が心地よかった。

視線を横に向けると、ネイさんが湯に身を沈めていた。金色の髪が湯に浮かび、光を受けて淡く輝いている。長い髪が水面でゆらりと揺れるたび、きらめきが広がって、まるで夜空に星を散らしたみたいだった。

(……きれいだな)

心の中でつぶやいて、少し笑った。エルフって、本当に絵になる。

ネイさんは静かに髪を指で梳いていた。指先の動きは滑らかで、無駄がない。湯気に包まれた横顔は、どこか遠い世界を見ているようで、言葉をかけるのをためらうほどだった。

私はそっと湯に身を沈め、目を閉じる。まぶたの裏に浮かぶのは、今日までの道のり。異世界に来てから、ずっと緊張の連続だった。でも今だけは、何も考えずにいられる。

(……こういう時間があるだけで、救われるんだな)

「萬子」

名前を呼ばれて、目を開ける。ネイさんがこちらを見ていた。

「湯、熱すぎないか?」

「ううん、ちょうどいいよ。ありがとう」

自然と笑みがこぼれる。ネイさんもわずかに口元を緩めた。

湯気が二人の間を揺らし、光がその輪郭をぼかしていく。言葉は少ない。でも、それで十分だった。

私は湯に身を沈めながら、心の奥で小さく決意する。

(どんな答えが待っていても、進むんだ)

湯面に映る金色の髪が、ゆらりと揺れた。

その光景を胸に刻みながら、私は静かに息を吐いた。

* * *

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