第3話 毒・睡眠・幻覚を組み合わせたら、魔物が急に賢くなりました
第3話
毒・睡眠・幻覚を組み合わせたら、魔物が急に賢くなりました
ダンジョンの朝は、光がないのに「朝だ」と分かる。
空気が少し澄む。水滴の落ちる音が、昨夜よりはっきり聞こえる。石が冷えきっていて、手のひらが触れた瞬間にきゅっと縮む。
私はコアの前でしゃがみ込み、息を吐いた。白くはならない。けれど胸の内側が、ひやりとする。
「……昨日の冒険者、無事に帰った?」
『帰還確認。負傷:軽微。恐怖反応:強。満足度:高。』
「満足度って……」
『再来訪意欲、七十二パーセント。』
数字で言われると妙にうれしい。笑いそうになって、私はわざと真面目な顔を作った。
「じゃあ今日は、次に備えて整える。――秩序を作るわ」
『秩序。』
「そう。ここ、今はまだ“気分で状態異常を撒く洞窟”なのよ。魔物たちもね、好き勝手」
通路の陰から、ぷるり、と青白いスライムが覗いた。
その後ろに、耳の尖った小さなコウモリ――ミストバットがぶら下がって、私の方を見ている。どちらも弱い。だけど、目が妙に、ずるい。
「ほら。スリープスライム。あなた、昨日、冒険者の脚をいきなり眠らせたでしょう」
スライムが、ぷるん、と揺れた。
知らないふり。
「知らない顔してもだめ。急に眠らせたら転ぶの。痛いの。血が出るの。私のダンジョンは――」
口にした途端、胸の奥が熱くなった。
「……殺さない。怪我させない。怖がらせすぎない」
『管理者の理想。』
「理想じゃない。方針」
私は立ち上がり、石の床を指で叩いた。こつん。乾いた音。
「ねえ、コアさん。状態異常ってさ――“罰”にしないとダメなの。順番と意味が必要」
『説明を要求。』
「例えばね、危ない場所に足を踏み入れたら“鈍重”。それ以上進んだら“恐怖”。それでも無茶をしたら“睡眠”で止める。ほら、段階」
私は通路を歩きながら、手の中で小さなガラス瓶を転がした。中に入っているのは、薄い緑色の毒――致死じゃない。胃がむかむかする程度の、軽い毒。
栓を開けると、鼻を刺す草の匂い。苦い。青い。舌の奥が勝手に渇く。
「毒はね、最後にする。痛いのは嫌い」
『では、幻覚は?』
「幻覚は……“気づかせる”ため。導くため」
私は息を吸って、指先を軽く振った。
空気が、ふわりと甘くなる。花の香りが混ざる。幻覚の前触れ。
壁の向こうに、ほんのり光る“出口”のようなものが浮かんだ。
通路が曲がっているのに、まっすぐな道が見える。
「ね。見える? あれ、嘘。だけど、“帰りたい人”には帰り道に見える」
『侵入者誘導。』
「うん。逃がすため。――それが私のダンジョン」
ミストバットが、きゅ、と鳴いた。
私の髪にぶら下がろうとして、空中でよろけた。鈍重の余韻が残っているのかもしれない。私は指でそっと受け止めた。ふわふわの体温。小さな心臓が、早く打っている。
「怖い? 大丈夫。あなたは悪くない。やり方を変えるだけ」
ミストバットの目が、きょとん、と丸くなる。
――そう、こういう目。
“理解する前の目”。
私は、ふっと気づいた。
「……ああ」
状態異常は、人間の敵を倒すためのものだと思っていた。
でも、違う。
「調教できる」
『調教。』
「言い方は悪いけど。訓練。学習。――魔物の行動を制御できる」
胸の奥が、ぱちん、と弾けた。
怖いほどの確信。
「ここ、ほんとに私の庭だわ……」
『管理者、実行を許可。』
コアが、脈打つ。
ダンジョン全体が呼吸を始めたみたいに、空気が微かに振動する。
私は両手を叩いた。ぱん、と乾いた音。
「みんな、集合!」
……もちろん返事はない。
でも、気配が集まってくる。石の陰。天井の裂け目。水たまりの縁。
スリープスライムが三匹。
ミストバットが五匹。
それから、小さなネズミの魔物――グレイラットが二匹。耳が大きくて、目が悪い。
「よし。今日からルールを教える」
私は屈んで、床に石ころで線を引いた。
ざり、ざり、と石の粒が鳴る。
「ここから先は、侵入者ゾーン。ここは、安全ゾーン。――安全ゾーンには絶対に状態異常を撒かない。いい?」
スライムがぷるん。
バットがきゅ。
ラットがちゅ。
「返事してるつもりなのね。かわいい」
私は笑った。
笑ってから、真顔に戻る。
「次。トラップの練習をする」
私は小さな香炉を置いた。中には、幻覚を引き起こす粉。嗅ぐと、鼻腔の奥がふわっと甘くなる。頭が少し軽くなる。
「軽い幻覚、準備。ミストバット、担当」
バットたちが羽を震わせた。ふわ、ふわ、と音もなく舞い上がる。
「次、恐怖。――これは私がやる」
私は胸の奥に意識を集めた。
怖い記憶。王都の嘲笑。アルベルトの声。あの香水。
それを、魔力に変える。
空気が、すん、と冷える。
背中に針が立つような感覚。
「“進むほど怖くなる”って感じ。致命的じゃない。背中を押す怖さ。……帰りたくなる怖さ」
私は息を吐いた。
「はい、実演。侵入者役は――グレイラット」
ネズミ魔物が、ちゅ!? と抗議した。
「大丈夫、怪我しない。ほら、ここから走って」
ラットが線の向こうへ足を踏み出す。
――ふわり。
幻覚が立った。
通路の先に、光る宝箱が見える。甘い匂い。焼き立てのパンの匂いまでする。ラットの鼻がひくひく動く。
「ちゅ……!」
ラットが走った。
その瞬間――すん。
恐怖が重なる。
背後から何かに見られている感覚。肌が粟立つ。
“ここにいたらダメだ”という本能だけを刺す。
ラットが、ぴた、と止まり、くるりと踵を返した。
猛ダッシュで安全ゾーンへ戻る。
「よし! 無傷で撤退!」
私は思わず拳を握った。
体の奥が熱くなる。やった、という気持ちが喉の先まで上がってくる。
『成功。軽い幻覚+恐怖=撤退誘導。』
「これ、冒険者に効く。絶対」
私は息を整えた。
次だ。
「捕獲用。鈍重+睡眠」
スリープスライムが、ぷるん、と前へ出る。
私は目を細めた。
「いい? これは“悪いことした人”だけ。誰彼構わずやらない。ルール」
スライムがぷるん。
……分かった顔。
「侵入者役、ミストバット」
バットがきゅ、と鳴いて飛び立った。
私は指先を振る。空気が重くなる。足が沈むような鈍重。
バットの羽が、ぱたぱたと乱れた。
「今!」
スリープスライムが、ぴと、とバットの影に触れる。
眠気が、ふわりと広がる。
バットが、すとん、と落ちた。
床の上で、丸くなる。ふわふわの毛が震えて、すぐに静かになる。
「……うん。寝かせるだけ。起こせる。安全」
私はしゃがみ込み、バットの背を撫でた。
温かい。生きてる。
胸がほっとして、目の奥が少し熱くなる。
「これが、捕獲。人間にも使える。殺さないで止められる」
『秩序形成、進行。』
コアが淡く光る。
ダンジョン全体の空気が、すこしだけ軽くなった気がした。
魔物たちは、もうバラバラに動かない。
線を越えない。
合図を待つ。
――賢い。
「ねえ、みんな」
私は魔物たちを見渡して、言った。
「あなたたちは弱い。だけど、弱いままでいい。賢くなればいい。怖がらせ方を学べばいい。……帰すために」
スライムが、ぷるん。
バットが、きゅ。
ラットが、ちゅ。
その返事が、心の奥を柔らかくした。
王都では、私の言葉に誰も返事をしなかった。
笑っただけ。切り捨てただけ。
でもここでは、返ってくる。
「……私、ここで生きる」
『管理者、報酬生成。』
空間が、ゆらり、と歪む。
目の前に、宝箱が現れた。木の匂い。新しい革の匂い。金具がきらりと光る。
私は息を呑んで、蓋を開けた。
まず、柔らかい革の袋。
見た目は小さいのに、持ち上げると軽い。
「……マジックバック」
指を入れると、内側が不思議に広い。
空気がひんやりして、底が見えない。
私は笑い声を飲み込んだ。
「これ……運べる。何でも」
次に、赤い果実。
指に触れると、つやつやして温かい。甘い香りが鼻に抜ける。
「生命の果実……」
胸の奥が、じん、とする。
“生きろ”と言われたみたいで、喉が詰まった。
そして、ガラス瓶。
中身は深い赤――ザクロのネクター。
栓を少しだけ開けると、酸味と甘みが混ざった香りがふわっと立つ。舌の奥がきゅっとなる。
「……きれい」
最後に、金貨が二枚。
触れると冷たくて、重い。
その重さが、現実だった。
「……二枚も」
『秩序形成ボーナス。』
私は金貨を握りしめた。
冷たさが、手のひらから心臓へ伝わって、熱に変わる。
「……これが、私の仕事の結果」
私は宝箱を閉じ、マジックバックを肩に掛けた。革がきゅ、と鳴る。
そして、ダンジョンの奥へ向かって宣言した。
「今日からここは――“殺さないダンジョン”」
声が石に反響して、戻ってくる。
何度も戻ってくる。
まるで、ダンジョンそのものが頷いているみたいに。
『承認。』
コアが、静かに脈打った。
私は笑った。
王都で笑えなかった分まで、ひそやかに。
「さあ。次は、冒険者を迎える準備よ。――うちの庭、ちゃんと整えるからね」
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