思想、昼下がりのBOOKOFF
不思議乃九
第1話 島田荘司という名の異物
窓外の国道を走る車の音が、水槽の底に届く泡の音のように聞こえる。
100円コーナーの棚の端。背表紙の褪せた『占星術殺人事件』を指でなぞる。
島田荘司をこの場所で手に取ることは、宇宙の設計図をゴミ捨て場で拾うような倒錯した快楽がある。
ブックオフ。そこは、かつて誰かの熱狂だったものが、均一な110円の無機質へと解体される場所だ。しかし、この黄ばんだ背表紙の中に潜む御手洗潔という男だけは、そんな市場原理をあざ笑うかのように異彩を放ち続けている。
ふと、手に取った文庫本の重さに違和感を覚える。
表紙を捲り、扉をめくる。
そこに印字されていたのは、慣れ親しんだはずの奇想の序文ではなく、全く別の作家の、全く別の、救いようのない凡庸な日常を描いた物語だった。
表紙と中身が違う。
……これは、何かの伏線ではないのか。あるいは、これ自体が既に始まっている巨大なトリックの一部ではないのか。
「石岡君、君はなぜそう、目に見えるラベルばかりを信じるんだい?」
耳の奥で、傲慢なまでに明晰な、あの男の声が聞こえた気がした。
横浜の馬車道。潮風の匂いと、少し古びたレンガ造りの建物。その一角にある、散らかり放題の「御手洗潔占星学教室」に流れるジャズの調べ。
御手洗なら、このブックオフの棚の不整合を、すぐさま地球の自転や古代の呪い、あるいは巨大な権力の陰謀へと結びつけて語り始めるだろう。
彼はきっと、店内の有線放送から流れる安っぽいポップスの中にさえ、隠された暗号や絶望的なマイナーコードを聴き取るに違いない。
石岡君は、その横で困惑したように眉をひそめ、お気に入りのコーヒーを淹れ直す。
そんな二人の親密な、しかしどこか永遠に噛み合わない距離感までもが、この埃っぽいブックオフの空気に混じり込んでくる。
島田が描く横浜は、いつだって雨か、あるいは雨の予感に満ちている。
それに比べて、この「昼下がりのブックオフ」はどうだ。
蛍光灯の光はあまりに平坦で、救いようもなく清潔で、残酷なまでに現実的だ。
だが、この「表紙と中身の不一致」というバグを見つけた瞬間、世界は変質する。
この店舗という密室の中で、私たちは「中身」と「ラベル」が一致しているという前提を無邪気に信じすぎている。
島田の小説が放つあの圧倒的な「奇想」を、安っぽいビニールカバーで包んで保護したつもりになっている。だが、中身が入れ替わっているのだとしたら?
私の隣で熱心に100円の漫画を漁っている男の「表紙」の中身が、実は冷徹な論理を司る探偵や、あるいは、美しき狂気に憑かれた殺人者であったとしても、誰がそれを否定できるだろう。
かつて、アズールというジャズの旋律が暗闇を切り裂いたように。
あるいは、傾いた屋敷が物理法則を無視した惨劇を生み出したように。
この110円の棚にも、一箇所だけ「穴」が開いている。
そこからは、狂気と論理が渾然一体となった、眩暈のするような横浜の海風が吹き込んでいるのだ。
レジのバーコードリーダーが鳴らす「ピッ」という無機質な電子音。
それが、崩壊し始めた論理の最後の断末魔のように聞こえた。
私はその、表紙と中身の違う一冊を抱え、現実へと帰還するための「共犯」になるべく、カウンターへと歩き出す。
【了】
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