第4話
午後三時を告げるチャイムが近くのスピーカーから流れている。浅利先生とは先程食堂で別れ、夕立は真昼へ電話する為病院の外へと来ていた。
首からぶら下げていたネックストラップの先にある携帯電話を手に取る。
以前は携帯電話を鞄に入れていたのだが、手探りで探し出すのが大変だったので、朝顔がこのネックストラップを付けてくれた。
電話しか出来ない簡易的な携帯電話ではあるが、盲目の夕立には充分であった。手に取り、ホーム画面の左下辺りのボタン指で押す。真ん中のボタンを六回押し、最後に再び左下のボタンを押すと、呼び出し音が鳴り携帯を右耳へ当てる。
五回ほどコール音が鳴り、その後繋がった。
『病院終わったか』
「うん、丁度今終わったところだよ。兄さんはどこにいるの」
『今まだ学校にいるんだ。生徒の一人が熱中症で倒れてその対応に追われてる。幸い軽度の熱中症で今は体調回復したんだけど、そいつの親が来るまでは一緒に居てやらないといけないから、病院への迎え行けなくなっちまった。俺から連絡するべきなのに本当ごめんな』
「兄さんが謝る事じゃないよ。大丈夫、一人で帰れるから。だから兄さんも心配しないでね」
『家着いたら連絡してくれ。気をつけてな』
そう言って、通話が切れる。
病院から家の最寄りまでのバスは三番ホームから出発だ。
三番ホームに行くと、都合よくバスが到着し、待ち時間なく乗ることが出来た。
『お待たせ致しました。本日もあおぞらバスをご利用頂きありがとうございます。このバスは若宮商店街行きです』
若宮商店街。今朝に真昼と話していたところだ。あそこの和菓子屋さんのみたらし団子久しぶりに食べたいなあ。真昼も仕事で疲れているだろうし、甘い物を食べたら喜びそうだ。
それに僕が一人で買いに行く事が出来たら、朝顔も真昼も凌さんもきっと吃驚するだろうな。
お土産として買っていこう。いつもお世話になっている三人への、僅かばかりではあるがお礼の気持ちだ。
帰りが遅くなる事だけはバスから降りたら連絡しておこう。失明してから一人で病院以外のところに行くのは初めてだ。夕立の胸は僅かばかりの不安と一杯の期待で膨れ上がっていた。
バスに揺られること三十分。終点の若宮商店街へ到着した。
ネックストラップの先にある携帯電話を手に取り、真昼へと電話を掛ける。
『俺も丁度終わったから電話しようとしてたんだ。家着いたか』
「ううん、まだ着いてない。今日ちょっと寄り道してから帰るね」
『寄り道って今どこだよ』
「ごめん教えられない。家帰る時はまた連絡するから。心配しないで大丈夫だよ』
『おい、』
そこで通話終了を押す。
途中で切ってしまったので、真昼が怒っていないか心配になる。でも行き先を教えてしまったら、勘のいい真昼には和菓子屋に行っている事がばれてしまうかもしれない。真昼から数回着信が入ったが、意固地になった夕立は携帯電話の電源を切る。
みたらし団子を買うだけだ。この商店街はあまり広くはないから十分も掛からないだろう。
真昼への罪悪感を払拭する様に、白杖を右手に和菓子屋に向かって歩き出す。
記憶を辿り、和菓子屋の場所を思い出す。確か中央辺りにあった筈だ。
その時、不意にパトカーのサイレンの音が聞こえ、その音が段々と近づいてきている事に気づく。やがてサイレンの音は鳴り止み、車のドアの開閉音が少し離れた場所から聞こえた。
「この商店街は捜査の為、午後四時には封鎖致します。ご協力宜しくお願い致します」
強圧的な声で警察であろう男が言った。
捜査・・・。そうか和菓子屋の事に夢中になっていて忘れていたが、今朝連続殺人事件の遺体が発見されたのはこの商店街の路地裏だ。警察が何か手掛かりはないか、隈なく捜査するのだろう。犯人は何故商店街の様な人が集まる場所で殺人を犯したのか。
一件目は河川敷、二件目は児童公園、三件目は中学校。回数を重ねる度に、人に見つけられやすい場所を選んでいる。通常、殺人犯は人気のない場所で犯行を犯す事が多いのではないかと思っている。
しかし、この殺人犯は違う。行動が回数を重ねる度に大胆になっている。
見つけられるものなら見つけてみろ、と言わんばかりだ。それか見つけて欲しいと思っているのだろうか。
どちらにせよ、四人の命を奪った頭の可笑しい快楽殺人者には変わりない。
今回起こった殺人事件の事を考えていると、右側からふと、甘い香りが鼻に伝わる。
和菓子屋に着いた様だ。白杖を地面に滑らせ、慎重に匂いがする方向へと進む。手探りで店の扉を探していると、引き戸が開く音がし、甘い香りがより一層強くなる。
夕立の姿に気づいてか、店内から開けてくれたようだ。
「いらっしゃい、夕立くん久しぶりだね。今日は一人で来たのかい」
「こんにちは、今日は一人です。みたらし団子ってまだありますか」
和菓子屋の名前は月虹堂。
月虹堂には小さい頃から通っているので、店主の佐枝さんとは顔見知りだ。失明してからは行く頻度も減ってしまったが、相変わらず気さくな人だ。
「みたらし団子ね、沢山あるよ。今朝の殺人事件があったせいで、今日一日あまりお客さんが来なくてねえ。折角作ったのに廃棄になるかなと思っていたから、来てくれて嬉しいよ」
「殺人事件の影響がここにも来ているんですね」
「本当迷惑な話だよ。普段から近くにあるショッピングモールにお客さんを取られているのに、これじゃまた客足が遠のいちゃうよ。先代から引き継いだ大切な場所だけど、この店も潮時なのかねえ」
「そんな寂しい事言わないで下さい。僕ここのみたらし団子が大好きです。僕の家族だって世界一美味しいって言ってます。今は大変かもしれませんが、殺人事件の犯人が捕まれば、また客足が戻ってきますよ」
夕立は精一杯自分の気持ちを伝えた。
佐枝は嬉しげな声で、
「ありがとね、その気持ちだけで嬉しいよ。おばちゃんも身体が元気なうちはこの和菓子屋を守っていくね。みたらし団子だよね、何本くらいにする?」
「兄さんも楽しみにしてたので、二十本くらい欲しいです」
「二十本ね、今用意するから待っててね」
佐枝は店裏に行ったのか、店内から人の気配が無くなる。
二十本で足りるだろうか。朝顔は和菓子が好きだから、五本はペロリと食べると思う。反対に凌さんは甘い物が苦手で一本食べてくれたらいい方かな。
問題は真昼だ。二十代も後半に差し掛かり食が細くなると思いきや、どんどん食べる量が増えている気がする。折角来たのだからもう少し増やしてもいいだろう。
「お待たせしました、これみたらし団子ね」
「佐枝さんすみません、もう五本追加してもらっても良いですか」
「大丈夫、五本おまけしておいたから。皆で食べてね」
「えっ、いや、それは悪いですよ」
「いいの、いいの。たくさん買ってくれたからほんの少しの気持ちだよ。これからもおばちゃん精一杯頑張るからまた来てね」
佐枝さんの好意を素直に受け取ることにした夕立は、お礼を言ってお店を後にした。
左手に握ったビニール袋からは幸せの重みがする。
辺りには雨の匂いが広がっていた。雨の匂いを嗅ぐと、世界から雨音以外が消えたと感じる事がある。ぼうっと遠い世界に意識がいってしまうのだ。しとしと雨粒が地面に跳ね返って発生する、僅かな音だけが辺りに広がっている。
その静けさが夕立は好きであった。
雨の匂いは多くは二つに分けられているという。
一つ目はカビや排ガスなどを含むホコリが水と混ざり、アスファルトの熱によって匂い成分が気体となったものだ。
二つ目はペトリコールと呼ばれる匂い。雨粒が地面や植物に衝突する時、小さな粒子を含んだ気泡(エアロゾル)を放出する。植物由来の油が付着した、乾燥した土壌や岩石にこのエアロゾルが当たった際に、それらの成分をエアロゾルの中に取り込む。
これが独特の匂いペトリコールとなって我々人間の感じるところとなるようだ。
今朝の天気予報は当たりだ。雨が降ったから。
予報を確認しといて良かった。折り畳み傘を用意出来たから。
こんな何気ない事が嬉しくなる。
背負っているリュックを下ろし、手探りで折り畳み傘を探す。だが、触れる物の中に折り畳み傘と思われるものは無かった。確かに今朝用意した筈なのに。
そうか、リビングの机上に置いたままでリュックに入れるのを忘れてしまったのだ。雨が止むまで待った方がいいだろうか。でもこれ以上帰りが遅くなるのは避けたい。
真昼に今から帰るという事だけは連絡しておいた方がいいだろう。
ネックストラップにぶら下がっている携帯電話を手にしたその時、雨の匂いを掻き消す、すっきりとした爽やかな花の香りが鼻に伝わる。
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