花泣言葉

池子

第1章 幸福

第1話


「夕ちゃんもう起きていたの。今日はお休みじゃなかったっけ」

「姉さんおはよう、今日は休みだけど午後から病院に行ってくるよ」

夕立はリビングの三人掛けのソファに座りながら声がする方を振り返る。だが、そこにはただ暗闇が広がっているだけだ。

藍沢夕立の世界から光が消えて、もう四年になる。

前兆はあった。最初は物がぼやけて見えたので、視力が低下したと思い、母に伝えて眼科に行き診察後眼鏡を作ってもらった。その後、時折目の痛みやかすみを起こす様になったが、ただ疲れているだけだと思い気にする事はなく過ごしていた。

しかしある日突然に、目を開けられない程の痛みが夕立を襲った。

加えて頭が割れる様な頭痛や吐き気を伴い、意識を失った夕立は病院へと運び込まれる。

意識を取り戻した時には既に、夕立の目は何も捉える事が出来ないただの飾りになっていた。

最後に見たのは確か、高校の教室で数学教師が黒板に向かって数式を書いている後ろ姿だ。

白髪混じりの後頭部の上では、寝ぐせであろう一ヶ所だけ跳ねた髪の毛が、板書する度に左右に揺れていた。あの後ろ姿が最後に見たものだなんて、正直やるせない。

目が見えないという事は思った以上に、夕立の事を苦しめた。

テレビを見る。食事をする。外を歩く。

普通の人なら当たり前に出来る事が出来ない。夕立は普通という枠組みから除外されたのだ。

普通から弾き出された夕立を新たに囲ったのは、障害という壁。

この壁は、ちょっとやそっとじゃ壊す事が出来ない。これから先嫌でも逃げる事が出来ない底なし沼に、夕立ははまってしまったのだ。

失明してからの四年間は、家族の力を借りリハビリの毎日であった。家族の支援とそれに伴って流れていく四年という月日が、失明という現実を突きつけ、夕立は段々と自分の目の事を受け入れる事が出来た。

だがこの事について一番心に傷を負ってしまったのは、夕立の母であった。

自分が早期に気づいていれば失明する事はなかったのでは、と母は思っているに違いない。責任感の強い母はこの一件で、塞ぎ込んでしまい、体調を崩してしまった。

そんな母を見た父と姉の牧田朝顔(旧姓藍沢朝顔)が一度環境を変えようと話し合った様で、父は母を連れ立って実家へと帰り、夕立は朝顔と朝顔の夫が住んでいるこの家にお世話になっている。朝顔の夫の牧田凌は面倒見がいい人で、目の見えない義理の弟を甲斐甲斐しく世話してくれた。

朝顔が家庭の事情を話したところ、凌は快く牧田家に住む事を聞き入れてくれ、母との一件で落ち込んでいた夕立を元気づけてくれた懐の深い男だ。

凌はタクシードライバーをしており、今日は既に仕事に出ている。

昨夜は遅番の為帰りが遅かった様だが、その次の日に早朝出勤というのは、労働基準法に引っかからないのだろうか。この勤務形態は睡眠不足だろうに、凌の身体が心配だ。

この一軒家に住んでいるのは、凌と朝顔、夕立以外にもう一人いる。兄の藍沢真昼だ。

真昼は近くの中学校で教師をしており、今日も仕事の筈だがまだ起きてきていない。もう七時を回っているが遅刻にはならないのだろうか、と夕立は不安に思う。

「私はもう少ししたら出ちゃうけど、病院まで一人で大丈夫?」

「大丈夫だよ、もう何回も一人で行ってるから」

「でもね、どうしても心配なの」

歳が離れているという事もあってか、朝顔は過保護気味だ。もしかしたら、息子を見る様な気持ちなのかもしれない。

「本当に大丈夫だよ。何かあったら近くの人に直ぐ助けを求めるから」

朝顔は声色に不安を乗せたまま「何かあったら必ず連絡してね」と言って仕事へと向かっていった。

朝顔が出て行ったリビングには静けさが訪れ、外で鳴いている蝉の声が部屋の中まで届く。一週間という短命の儚さを感じさせない、力強い音色。

手探りで机上にあるテレビのリモコンを取り、電源スイッチを押す。電源のついたテレビから、女性アナウンサーの抑揚の無い声が部屋に響く。

『速報です。今朝午前四時頃、○○県△△市にある商店街の路地裏にて女性が倒れていると近隣住人から通報がありました。女性は頭部を鈍器で殴られた様で病院に搬送されましたが、その後死亡が確認されました。事件が起きた周辺では、今年の四月から同様の事件が立て続けに発生しており、同一犯の犯行とみて警察は捜査を進めています。続いてのニュースです・・・」

またこのニュースか、直近で四件も同様の事件が起こっている。この殺人事件がニュースで流れる度に、夕立はつい動きを止めてしまう。何故ならこの事件は、夕立が住むこの地域で起きている事なのだ。警察が見廻りを強化している様で、頻繁にパトカーのサイレンの音を耳にするが、未だ犯人は捕まっていない。

犯行内容は四件目に起こったものと同様に、前の三件も全て頭部を殴られての撲殺。

一件目の事件が発覚したのは今年の五月十一日だ。

朝方散歩をしていた通行人が、河川敷にて五十代の男性の遺体を発見する。

二件目は五月十六日。児童公園にて三十代の男性の遺体が発見された。

続いて三件目の事件は、二件目から少し間が空いた六月二日になる。

真昼が勤めている中学校の校庭にて、二十代の男性の遺体が発見されたのだ。

事件が起きてからは、警察の取り調べや保護者への対応で多忙を極めており、真昼は数日間家に帰って来なかった。各方面への対応が落ち着いて帰ってきた頃には、真昼の目の下が真っ黒になっていた様で、次の日は丸一日部屋に籠り寝ていたのは記憶に新しい。

中学校も二週間ほど休校していたが、その後は地域のボランティアの方の協力を得て、登下校時の見廻りを徹底する事を約束に、無事再開する事が出来た。

三件目の事件が起きてから、二ヶ月程何も無かった為この殺人事件は終わったかと思っていたが、今回四件目の殺人が起こってしまった。

被害者には今のところ共通点が無く、警察は無差別殺人と考えている様で、その為犯人を追うのが難しく捜査が難航しているらしい。この街に人を殺す事に快楽を覚える殺人鬼がいると考えると足が竦む。こんな事件が立て続けに起こっているので、朝顔が過保護になるのも無理はないのかもしれない。

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