第19話 「海を渡る豆、国を渡る人」
その日は、ドアベルの音が、いつもと少し違って聞こえた。
「いらっしゃい。」
モカが振り向いた先に立っていたのは、見慣れない客だった。
日焼けした肌、少しだけ癖のある黒髪。
そして、ところどころイントネーションのずれた、日本語。
「ひとり、いいですか。コーヒー、ください。」
ゆっくりとした発音なのに、言葉の芯はしっかりしている。
ひかるはなんとなく、その人から目を離せなくなった。
「おすすめでいい?」とブラジルが声をかけると、
客は首をかしげて、少し考えるように言った。
「うーん……“いつものブレンド”じゃないやつ。ありますか?」
「おっと、通だね。」
ブラジルが口笛を吹き、横からロブスタがぼそりと言う。
「じゃあ単一産地でいく。勝手に決めるぞ。」
ひかるは隣の席に座り、その人をちらりと見た。
カウンターに座った客は、背筋を伸ばしながら、
店内の香りをゆっくり吸い込み、ふわりと笑う。
「いい匂い。
ここ、ちょっと、うちの村に似てる。」
ロブスタが選んだのは、今日いちばん状態の良いシングルオリジンの豆だった。
丁寧に挽かれた粉に、お湯が落ちていく。
ふくらむ泡を見て、その客は目を細めた。
「子どものころからね、コーヒーの木はすぐそばにあったんです。」
ひかるが何も聞かないうちに、
その人はぽつりと話し始めた。
「朝、まだ暗いうちに起きて。
お母さんと、おじいちゃんと兄弟と、みんなで畑に行く。
赤い実だけを選んで、かごに入れていくんです。」
ゆっくりした日本語なのに、情景は鮮やかだ。
朝焼け前の斜面、濃い緑の葉、
手のひらに落ちる、冷たい朝露。
「でも、ここ数年は、ちょっと違う。」
客は、カップを受け取り、一口だけ飲んだ。
そのまま、遠くを見るような目になる。
「雨の降り方が変わった。
暑すぎる日と、ぜんぜん陽が出ない日が、前より増えた。
花がうまくつかない年もあるし、
急に病気が広がる年もある。」
「……収穫、減っちゃうんですね。」
ひかるが思わず口を挟むと、
客は小さく笑って頷いた。
「はい。
コーヒーは、前より高く売れるのに、
とれる量は減る。
だから、生活は、あんまり楽にならない。」
その言葉に、奥のほうでグァテマラが静かにうなずく。
コロンビアも、カウンターの中で豆を混ぜながら、
「どこも似たようなものですね」と低く呟いた。
話を聞きながら、ひかるは胸の奥がざわざわしていた。
(私、コンビニで、一番安いやつばっかり選んでたな……)
「安いし、まあ飲めればいいか」と、
何も考えずに手に取ってきたコーヒーたち。
それぞれの中にも、きっとどこかの誰かの畑と生活があったのに、
一度も想像したことがなかった。
「でもね。」
客は、カップをソーサーに戻しながら、
少しだけ、いたずらっぽく笑った。
「わたしたちの豆も、海を渡って、国を渡って。
どこかの知らない誰かの“今日”に入っていく。」
「その人が、一秒でも、
“このコーヒー、どこから来たんだろう”って考えてくれたら、
それで、けっこう嬉しい。」
「一秒でいいんですか?」
ひかるが驚いて聞くと、
客は肩をすくめた。
「一秒でも、ゼロよりずっと長いですから。」
そのときまで黙っていたブラジルが、
カウンターの向こうから顔を出す。
「山の雪、減ってきてるよな?」
「うん。前より、ぜんぜん。」
客が笑うと、
グァテマラも話に乗ってくる。
「雨の“落ち方”も変わりました。
昔はもっと、ゆっくり降っていたんですが。」
「極端ですよね。」とコロンビア。
「降らないか、降りすぎるか。」
みんなの声が重なって、
ひかるの中で地球儀みたいなイメージが回り始める。
気づけばひかるは、
自分でも驚くくらい素直な言葉を口にしていた。
「……自分に、何かできることって、あるんでしょうか。」
店内の空気が、ほんの少しだけ静かになる。
大きなことを言ったつもりはないのに、
自分の声がやたら大きく聞こえて、ひかるは慌てそうになった。
そのとき、モカがカウンターの奥からゆっくりと顔を出した。
「そんなに、肩に力入れなくていいと思うよ。」
いつもの、距離のある優しい声。
「木を植えるとか、政策変えるとか、
そういうことを、いきなり全部背負う必要はない。」
モカは、客のカップにほんの少しだけおかわりを注ぎながら続ける。
「“この一杯の向こうに誰かがいる”って思いながら飲む一杯ってね、
それだけで、ちょっと世界をやわらかくしてるんだよ。」
「見えない誰かの今日を想像して飲むって、
結構、ちゃんとした“行動”なんだ。」
ひかるは、その言葉を胸の中で何度か反芻する。
(見えない誰かの今日……)
ロブスタが、カウンターの端からぼそっと言った。
「少なくとも、“捨てられずに済んだ豆”はある。
ここでちゃんと飲まれてりゃな。」
「そうそう。」とブラジルが笑う。
「“You just drink, we just grow”ってやつさ。
お互い勝手にやってるようで、ちゃんと繋がってる。」
やがて、客が帰る時間になった。
精算を終え、ドアの前まで来たところで、
ふと振り返る。
「ねえ。」
そう言って、その人はポケットから
小さな袋を取り出した。
手のひらにすっぽり収まるくらいの大きさ。
中から、かすかにコーヒーの香りがする。
「うちの村の豆。全部じゃないですけど、
ちょっとだけ、持ってきました。」
戸惑うひかるに、その人は笑って続ける。
「全部飲めってわけじゃないです。
たまに、手に取って匂いをかいで、
“一秒だけ”うちの村のことを考えてくれたら、それで十分。」
袋は、驚くほど軽かった。
でも、ひかるの指先には、
今まで持ったどのコーヒー豆よりも重く感じられた。
「また、来てもいいですか。」
「もちろん。」とモカ。
「ここは、国籍も、生きてるかどうかも、あんまり気にしない店だからね。」
客はくすっと笑い、
店のドアを通って消えていった。
残されたひかるは、
袋を両手で包みながら、深く息を吸い込む。
麦わら帽子の影。
朝焼けの斜面。
家族で並んで摘む赤い実。
降り方の変わった雨。
そして、どこかの国の、見えない台所と笑い声。
(これからは、簡単には“ただの一杯”って思えないな。)
そう思いながら、
ひかるはもう一度スターズブレンドを注文する。
カップの向こう側に、
誰かの今日が確かに続いていることを感じながら。
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