見た直後の感想?考察?書きかけ
この作品は、原作の月と言う物を天界に位置するのでは無いだろうかで有れば、天女?と謂うべきで在ろうかと言う物たちが居るのが納得出来なくも無い、然し一つの疑問とシテ は、仮称弱竹輝夜姫が月乃至天界へとお帰りなさる際にその隣に座り仰せて居た菩薩の如き外見の者は一体如何用な事に在るのか、又弱竹輝夜姫と、伴に一つ籠とでも言えば好いか、の様な者に隣に座って居たのは、「罪人」で有る弱竹輝夜姫の送迎で在るからなのか将又、所謂伴侶とでも呼ぶべき者で在るのかは見当も付か無いが、仮に、菩薩で有るとするならば、私は仏教を深く知っている分けでは無いから全て浅知恵の上にしか判断出来ないが、出来ないが、聖お兄さん等でも得た知識から、普通菩薩であれば解脱して居なかったか?六界の拡張である十界は、あくまで拡張だから、同じ位相上にある?仮に菩薩とするならばあらねば成らない厭先ず然して本当に菩薩なので在ろうか映画の雲の数シーンの間に僅ばかりでは有るが確かに、明王の特徴である、「火焔」等と言われる物が有った、然し、明王にシテも菩薩にシテもその本人と言うかは、とても身軽で簡素な装束に已身を包まれて居るヿから同時に、如来の特長にも当てはまる。。。、でも釈迦みたいに螺髪のようなものも見受けられる———!!?成程乃ち如来であるが、弱竹輝夜姫が、上記罪を追ったことに対する罰で有るヿ亦、人間道の煩悩を断切りたいという思いからの怒り故の火焔であるという事であろうか、であるならば、弱竹輝夜姫が先んじてお被りなさった冠は宝冠であるという事であろうか乃ち、弱竹輝夜姫は、菩薩であるという事であろうか?であればこそより謎である、恐らく解脱しているはずであるのにも拘らずなぜ弱竹輝夜姫は竹之中とは言え、生を新たに貰い受ける事が出来ようか。
であれば、そのような仏になろうと悟りを開くべき立場のものであるからであれば、下界へと思ひあせたこと自体が罪とされる事にも納得いかなくもない。
捨丸を設けることにおいての示したいことは何だったのか、では相模殿は?
原作では一切説明がないように勝手に思っているだけかもしれないけど記憶にない、竹取翁がいかにして屋敷になるまでになったかの過程を描くこと、において、翁の見つけたときから移動するまでのわずかな間をつなぐ必要があった、その風景をつなぐときに欲しかった?幼少期の人格形成に影響を与えた人物として必要であったしそれを一度咲いて合わすことで罪と罰の明確化にも有効であった?
何故皇子はあの姿ではならなかった?
皇子の顎は異様に尖っていた、裏の設定に拘わらず如何にしてあの外見となるに至った?
中納言?同様見た目でしか判断していないと思われても可笑しくは無いのではないか?
原作同様口車に載せて口説き落とそうとした男がいた、見た目での判断であり輝夜姫ではないものを見るなり逃げるというのも一致している。
何を示したかった?どのようにして「かぐや姫の解釈」を引き立たせようとしていた?高畑監督は?
あと何あのめっちゃ頭の回る
抑々原作からだけどさなんで竹から生まれるん
竹の持つ、生命力と清潔さのイメージから?人が作ったもの以外でかつ清いものが竹だった?
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