第2章:特別編 銀糸の誓い ―修羅の涙―
第4話:裏切りの雨
明治二十年、六月。
帝都・東京を包む空気は、数日前から不気味なほど重く湿っていた。空を低く這う鈍色の雲は、今にも泣き出しそうな重圧を街に与え、ガス灯の明かりさえも、その湿気に飲み込まれて弱々しく揺れている。
その夜、お雅と影山は、神田にある高級料亭『千鳥』の奥座敷に呼び出されていた。
この料亭は、新政府の要人たちが密談に使う隠れ家の一つであり、お雅たち始末屋に「仕事」を下す組織の拠点でもあった。
通された座敷の奥には、でっぷりと肥え、最高級の西陣織を纏った男が座っていた。組織の幹部・大久保である。彼は卓上に並べられた豪勢な料理には目もくれず、琥珀色の洋酒を転がしながら、下卑た笑みを浮かべていた。
「影山。君たちの働きには、常に感心させられるよ。今回も、不平士族の過激派を見事に片付けてくれたそうじゃないか」
大久保はそう言うと、傍らに置かれた重たげな包みを卓に置いた。中からは、見たこともないほどの札束が顔を出す。文明開化の象徴である、新しい紙幣の山だ。
「……身に余る光栄です。ですが、大久保様。今夜の呼び出しは、報酬の受け渡しだけではありますまい」
影山の声は、夜の湖面のように静かだった。彼は一切の酒に手を付けず、背筋を伸ばして大久保を直視している。その横で、お雅は微かな違和感を感じていた。
料亭の廊下を歩く足音が、普段より多い。それも、仲居の軽やかな足音ではない。土を噛むような、荒々しい男たちの気配が、障子一枚隔てた向こう側に満ちている。
大久保は洋酒を一気に煽ると、冷酷な光を帯びた目で二人を見据えた。
「察しがいいな、影山。……実はな、政府の上層部で方針が決まったのだ。これからの日本は、西洋諸国に『文明的な法治国家』であると認めさせねばならん。そうなると、君たちのような、法の外で血を流す『掃除屋』の存在は、いささか……いや、致命的に不都合なのだよ」
「口封じ、ということですか」
「ガハハ! 言葉が過ぎるよ。我々は、君たちの功績を汚さぬよう、名誉ある退場を用意したと言っているのだ」
大久保がパン、と扇子を叩いた。
それが、地獄の幕開けの合図だった。
バァァン!! と凄まじい音を立てて、座敷を囲むすべての障子が蹴破られた。
現れたのは、三十人を超える武装した男たち。かつては共に闇を駆け、背中を預け合ったはずの同胞たちまでもが、新政府の金に目がくらみ、かつての師と仲間に銃口と刃を向けている。
「……雅、伏せろッ!!」
影山の怒号が響くのと同時、数発の銃声が静寂を切り裂いた。
影山は目にも止まらぬ速さでお雅の肩を掴み、床へと押し倒した。頭上を弾丸が唸りを上げて通り過ぎ、高価な花瓶を粉砕する。
お雅は反射的に懐の『鉄の撥』に手をかけたが、影山はその手を強く制した。
「行け、雅。……裏の勝手口から抜けろ。大島の漁船が手配してある。そこへ行け!」
「何を……! 師匠を置いていけるわけがありません! 私も戦います!」
「馬鹿を言うな!!」
影山はお雅の細い肩を、骨が軋むほどの力で掴んだ。その瞳には、かつて見たこともないような必死さと、歪んだ「親愛」の色が混ざり合っていた。
「これは、俺が選んだ道の始末だ。お前はまだ、この深い闇に染まりきっていない。……お前だけは、光の下で生きるんだ。行けッ!!」
影山はお雅を力任せに突き飛ばした。
それと同時に、彼はフロックコートの内側から大量の煙玉を取り出し、床へと叩きつけた。
シュゥゥゥッ!! と凄まじい勢いで白煙が座敷を埋め尽くす。
視界が真っ白に染まる中、お雅の耳に届いたのは、影山の最後にして最大の「父親」としての絶叫だった。
「生きろ、雅ぁぁぁーーーッ!!」
お雅は、涙で歪む視界のまま、煙の向こう側へと走り出した。
背後で、再び銃声が響く。肉が斬り裂かれる鈍い音と、男たちの断末魔。
影山が、己の命を薪(まき)として、お雅の逃げ道を照らすために燃え上がっている。その凄絶な気配を感じながら、お雅は闇の廊下を、心臓が破裂せんばかりの勢いで駆けた。
勝手口を飛び出した瞬間、待っていたかのように激しい雨が降り始めた。
冷たい水滴が頬を叩き、流れる涙を無情に洗い流していく。
お雅は暗い路地裏を、転びそうになりながら走り続けた。
背後の料亭から聞こえる喧騒が、雨音に掻き消されて遠ざかっていく。
だが、お雅の胸の中では、影山の最期の叫びが、いつまでも、いつまでも止むことなく響き渡っていた。
「……ああ……ああああ……っ!」
お雅は雨の降りしきるドブ川のほとりで崩れ落ちた。
黒い鹿革の手袋を嵌めた手で、泥を掻きむしる。
愛した男が、自分を生かすために死の淵へ踏み込んだ。その事実が、氷の楔(くさび)のようにお雅の心臓に突き刺さっていた。
明治二十年の雨は、すべてを洗い流すにはあまりに冷たく、そしてお雅という少女の「最後の人格」を、永遠に葬り去るための鎮魂歌であった。
(第4話・完)
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