第2章:特別編 銀糸の誓い ―修羅の涙―

第2話:黒衣の師と手袋の約束


 明治二十年。帝都・東京の夜は、二つの顔を持っていた。

 表の顔は、文明開化の光に浮かれる華やかな文明の都だ。煉瓦造りの建物が並ぶ銀座の通りには、異国情緒あふれるガス灯が青白い光を投げかけ、馬車の車輪の音が軽快に響く。夜会に向かう貴婦人たちの香水の香りが、湿った夜風に混じり、人々は昨日までの「江戸」を忘れたかのように、新しい時代の春を謳歌していた。

 だが、そのガス灯の光が届かない路地を一歩奥へ入れば、そこには依然として、どろりとした江戸の闇が沈殿している。ドブ川の腐臭、場末の酒場の喧騒、そしてその隙間に身を潜める、時代に捨てられた「影」たち。

 十九歳になったお雅(まさ)は、その闇の中にいた。

 質素な縞模様の着物を纏い、背中には使い古された三味線箱を背負っている。流しの芸者。それが彼女の表の顔だ。だが、その足運びは芸人のそれではない。音を立てず、重心を崩さず、夜の帳(とばり)に溶け込むようなその動きは、獲物を狙う野獣、あるいは死を運ぶ死神のそれであった。

 お雅の数歩先を、一人の男が歩いている。

 十年前、九州の業火の中から彼女を拾い上げた男、影山だ。

 彼は当時と変わらぬ、漆黒のフロックコートに身を包んでいた。背筋は鉄柱のように真っ直ぐで、歩く姿からは隙というものが一切感じられない。影山はお雅にとって、親であり、師であり、そして命の主(あるじ)でもあった。

「……雅。歩調が乱れている。雑念は刃を鈍らせるぞ」

 影山が振り返りもせずに言った。その声は、氷の結晶を耳に落とされたかのように冷たく、それでいて心地よくお雅の鼓動を揺らした。

「すいません、師匠(せんせい)。つい、あちらの明かりが……」

 お雅が視線を向けた先には、大通りで笑い合う同年代の娘たちの姿があった。彼女たちは色鮮やかな友禅の着物を着て、手には流行りの日傘を持ち、恋の話に花を咲かせている。お雅にとって、それは同じ世界にあるとは思えない、鏡の向こう側の景色だった。

 影山が足を止め、ゆっくりとお雅に向き直った。

 彼の瞳は、暗闇の中でも鋭い光を放っている。影山はお雅の前に立つと、彼女の右手を取った。お雅の手には、上質な鹿革で作られた、漆黒の手袋が嵌められている。

「雅。その手袋の意味を忘れたか」

 影山の指先が、手袋越しにお雅の肌をなぞる。そのわずかな感触に、お雅の胸の奥が熱く疼いた。

「……はい。『指を汚すな』。それが師匠の教えです」

「そうだ。一度血を吸った指は、どれほど洗ってもその臭いは消えない。その汚れは、いつかお前の心まで侵食し、腐らせる。お前がその手袋を嵌めている限り、お前はまだ、光の下に戻れる可能性を残している。……私のように、手遅れにはなるな」

 影山の手は、常に素手だった。お雅は知っている。その大きな、節くれ立った影山の手が、どれほどの命を奪い、どれほどの返り血を浴びてきたかを。彼の指先は、常にうっすらと死の臭いが染み付いているように感じられた。

 影山はお雅に、殺しの技を徹底的に叩き込んだ。だが、同時に「人としての心」を捨てさせないための呪縛として、この黒い手袋を贈ったのだ。

 お雅は、影山の冷徹な優しさに触れるたび、言いようのない孤独と愛しさに襲われた。

 自分を修羅に変えたこの男を、恨むべきなのかもしれない。九歳のあの日、自分も両親と共に炎の中で死んでいたほうが幸せだったのかもしれない。

 だが、お雅にはできなかった。

 影山に拾われ、彼に仕え、彼に認められること。それだけがお雅の生きる理由になっていた。彼に命じられて人を始末する。その行為の後に、影山がわずかに頷いてくれるだけで、お雅の荒んだ心は救われてしまうのだ。

「……師匠。私は、光の下になど戻りたくありません」

「愚かなことを」

「師匠がいる場所が、私の場所です。それがたとえ地獄の底でも……構いません」

 影山は答えなかった。ただ、お雅の手を離すと、再び闇の奥へと歩き出した。

 その背中は、どんな壁よりも高く、遠い。

 お雅は、黒い手袋を嵌めた自分の手をぎゅっと握りしめた。革の軋む音が、静かな路地に響く。

 彼女は知らなかった。

 影山がなぜ、これほどまでにお雅を「光」に繋ぎ止めようとしているのか。

 そして、この平和で退屈な修行の日々が、まもなく血塗られた雨によって、無残にも引き裂かれようとしていることを。

 明治二十年の夜風が、二人の影を追い越していく。

 それは、嵐の前の静けさというには、あまりにも美しく、そして哀しい静寂だった。

(第2話・完)

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