第1章:泡沫(うたかた)の糸 ―明治・極楽亭の崩落―
第2話:銀閃の救済 ―極楽亭の崩壊と因縁の胎動―
ズドォォォォン!!
腹を抉るような凄まじい爆音と共に、裏山が真っ二つに割れた。
降り続いた雨で脆くなった地盤に、ダイナマイトの衝撃が止めを刺したのだ。支えを失った土砂は、巨大な泥の獣となって、鉄砲水のような勢いで『極楽亭』を飲み込みにかかる。
「走んなッ!! 後ろを振り返るんじゃないよ!」
お雅は怒号を上げた。
彼女の左右には、まだ幼さの残る禿(かむろ)の**お鈴(すず)と、その手を必死に引く女中のお環(たま)**がいる。
三人は、メリメリと悲鳴を上げる廊下を、心臓が破れんばかりの勢いで駆け抜ける。背後からは、建物の骨組みを粉砕する轟音が迫っていた。
だが、運命は非情だった。激しい揺れによって、年季の入った床板が、牙を剥くようにめくれ上がった。
「きゃっ!」
お鈴の小さな草履が、その裂け目に引っかかる。
小さな体が宙に浮き、激しく床に叩きつけられた。その拍子に、お環と強く握り合っていた手が――無情にも離れてしまった。
「あっ! お鈴ちゃん! いやぁぁぁーーッ!!」
お環の絶叫が、崩れゆく屋敷の中に響き渡る。
振り返れば、お鈴の真上。天井の巨大な梁(はり)が、重力に従って今まさに崩れ落ちようとしていた。お鈴のすぐ後ろには、黒い濁流のような土砂が迫っている。
戻れば間に合わない。戻れば、三人とも土砂の餌食だ。
お鈴は腰を抜かし、迫りくる巨大な「死」を見上げて、大きな瞳から涙を溢れさせた。
――その、刹那。
(手袋をはめる暇なんて、ありゃしない……!)
お雅の瞳が、黄金色の修羅の輝きを帯びる。
彼女は懐から、一筋の細い糸を抜き放った。
ヒュンッ!!
闇と砂塵を切り裂く、鋭い風切り音。
お雅の放った一条の**「銀色の糸」**が、まるで命を持った銀蛇のように空を舞い、お鈴の帯に寸分の狂いもなく巻き付いた。
「……死なせるかいッ!!」
お雅は奥歯が砕けんばかりに噛み締め、渾身の力で、素手のまま糸を引き絞る。
ブチリッ、と嫌な音がした。
食い込む鋼の糸が、お雅の指の肉を深く裂き、鮮血が雨の中に飛び散る。かつては標的の喉を掻き切るためだけに使っていたその死の糸が、今、お雅自身の血を吸いながら、一人の少女を死の淵から引き戻す「命の綱」となった。
ズドォォォン!!
直後、お鈴がいた場所を、数トンの重みを持つ太い梁が粉砕した。
間一髪。宙を舞ったお鈴は、お環の腕の中へと飛び込み、二人はもつれ合うようにして、崩落の寸前で外の泥地へと転がり出た。
雨の屋外へ脱出した三人は、肩で息をしながら、轟音と共に土の下へと消えていく『極楽亭』を振り返った。
そこで見た光景を、彼女たちは一生忘れることはないだろう。
崩落する玄関の前に、一人の男が立っていた。主人・権造だ。
彼は薬の幻覚に冒され、自分を押し潰さんとする土砂を、天から降る「黄金の雨」だと思い込み、狂ったような高笑いを上げていた。
巨大な木材がその肩を叩き割り、全身の骨が砕けても、彼は倒れなかった。
両手を天に広げ、崩れ落ちる瓦礫をすべて受け止めるようにして、彼は仁王立ちのまま、絶命していたのだ。
その足元には、女将のおタキが「地獄まで一緒だよ」と言わんばかりの執念でしがみついている。
やがて、屋敷のすべてが泥の底へと沈んだ。
結太夫も、お里も。そして、あのお波も。
極上の夢と、不器用な絆を抱いたまま、彼女たちは二度と戻らぬ人となったのである。
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