銀糸(ぎんし)のお雅 ―明治・黒手袋の女始末屋―

@suu438s

第1章:泡沫(うたかた)の糸 ―明治・極楽亭の崩落

プロローグ:雨の仕事


 明治三十二年、晩秋。

 帝都の片隅に、骨まで凍てつかせるような冷たい雨が降る夜だった。

「……金は、これだけか」

 暗い路地裏で、お雅(まさ)は泥の中に転がる男を冷淡に見下ろしていた。

 男は女衒(ぜげん)だった。貧しい農村から娘を言葉巧みに騙して売り飛ばし、親の涙を金に変えて私腹を肥やしていた外道だ。その男の喉元には、薄く、しかし深い一条の紅い線が刻まれている。

 お雅は、はめていた異国製の黒い鹿革手袋をゆっくりと外した。その下から現れたのは、幾多の死線を越えてきた、白くも強靭な指先だ。

 彼女は懐から手拭いを取り出すと、**鉄製の重たい撥(ばち)**を手に取った。三味線を弾く道具としてはあまりに重く、鈍い銀光を放つ鋼の塊。それに付着した返り血を、無造作に、しかし一滴も残さず拭き取る。

 かつて裏社会で名を馳せた仕事人としての腕は、まだ錆びついていない。だが、血を拭うその心は、今や鉛のように重かった。

「……たったこれだけの端金(はしたがね)で、人の命が売り買いされる。……反吐が出るねぇ」

 かつての相棒もそうやって、金に汚い裏切りの中で死んでいった。

 お雅は死体に唾を吐き捨てると、受け取った報酬の小銭を懐にねじ込み、雨の中を歩き出した。

 もう、こんな稼業はうんざりだ。最後に、あの男(相棒)の墓に花でも供えたら、この手も洗おう。

 向かう先は、伊豆の山奥にある遊郭『極楽亭』。

 そこが、彼女にとって最後の旅路になるはずだった――。

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