第19話

氷の都市が鳴動していた。

 管理者を失った巨大な演算装置が自壊を始め、地割れからは蓄積されていた膨大な魔力が青白い炎となって噴き出している。

「アルス、逃げましょう! ここが崩れるわ!」

 エリナが叫び、アルスの手を取ろうとした。しかし、アルスの右腕——『神の銀』が、かつてないほど激しく明滅し、周囲の空間を物理的に歪め始めていた。

「——だめだ、エリナ。僕自身が『発信器』になっている。……月の端末が、僕を回収しようとしているんだ」

 空に浮かぶ巨大な月が、まるで巨大な「目」のように開いた。

 天から降り注ぐ純白の光の柱がアルスを捉える。それは光というよりも、事象そのものを吸い上げる「情報の濁流」だった。

「離さない……! 絶対に離さないわ!」

 エリナはアルスの腰に抱きつき、渾身の力で床を蹴った。

 だが、二人の体は重力から切り離され、空へと浮き上がる。雲を突き抜け、大気が薄れ、星々が間近に迫る。常人なら絶命する高度。しかし、アルスの義手が二人の周囲に「生存定義」の皮膜を張り、死を拒絶していた。

 瞬きをした瞬間、景色は一変した。

 そこは、音も風もない、一面の静寂に支配された純白の世界——月面だった。

 見上げれば、遠く青く輝く「大地」が、手の届かない宝石のように浮かんでいる。

「……ここが、神の居場所か」

 アルスが立ち上がる。足元の砂は細かな水晶の粒子でできており、一歩踏み出すごとに星の記憶が頭の中に流れ込んでくる。

 その純白の荒野の真ん中に、一つの「揺り籠」が置かれていた。

 揺り籠の中に座っていたのは、幼い少女の姿をした、しかし瞳に銀河を宿した存在——月界の意思『ステラ』だった。

「……お帰りなさい、12番。私の、愛しい『部品』」

 少女の声は脳内に直接響いた。それは慈愛に満ちているようでいて、絶対的な無機質さを孕んでいた。

「ステラ……。あんたが、僕たちの運命を書いた筆者(ライター)か」

「運命? 違うわ。私はただ、滅びゆくあの星を保存するために、一番効率的な『計算式』を導き出しただけ。……世界は、あまりにも無駄な感情と、制御不能な魔法で溢れている。だから、君という『栓(プラグ)』が必要なの」

 ステラが手をかざすと、アルスの右腕が勝手に持ち上がった。

 義手から伸びる銀の糸が、月面の水晶と繋がり、アルスの意識を強制的にネットワークへと同期させようとする。

「君がこの月の核となれば、大地の魔力は完璧に制御され、戦争も、枯渇も、死すらも克服された『永遠の停滞』が訪れる。……さあ、自分を捨てて、神になりなさい」

「……断る」

 アルスは歯を食いしばり、強制同期を右手の指先だけで「物理的に」弾き飛ばした。

「永遠の停滞なんて、ただの墓場だ。……僕たちは、間違えても、傷ついても、それでも明日の数式を自分で書き換えたいんだ!」

「……不合理ね。理解できない。……なら、そのバグを排除するまで」

 ステラが瞳を細めた瞬間、月面の水晶が鎌首をもたげ、数千体の「完成された被験体(ナンバーズ)」へと姿を変えた。

 それらはすべて、アルスと全く同じ容姿、同じ右腕、同じ能力を持つ「12番の完成軍団」。

「これらすべてが君の可能性であり、君の代わり。……一人で勝てると思っているの?」

 絶体絶命。アルスの演算能力を遥かに凌駕する、同一個体の物量。

 だが、その時、アルスの隣で銀の刃が冷たく輝いた。

「一人じゃないわ。……ここには、あなたの計算式には絶対に含まれない『私』がいる!」

 エリナが『静寂』を構え、アルスの背中を支えた。

 月面という極限環境。魔力すら凍りつく場所で、彼女の「アルスを愛する意志」だけが、太陽のような熱を放ち始める。

「エリナ……。ああ、そうだったな。……僕の右腕は、君の体温を覚えるために造られたんだ」

 二人の魂が共鳴し、アルスの義手から放たれる輝きが「銀」から「黄金」へと変質していく。

 世界でたった一つの、複製不可能な奇跡が、神の領域で爆発した。

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