第18話 揺れる吊り革

 病院前からバスに乗り、最寄りの私鉄駅へ。  そこから電車で三十分。  健常者ならどうということはない移動距離だが、パーキンソン病の久保にとっては大冒険だった。


 駅の改札。  ICカードをタッチする。  「ピッ」という音が鳴るまでのコンマ数秒の間合いすら、久保の震える手には緊張の瞬間だ。  なんとか通過し、ホームへ降りる。


「……人が多いな」  久保が眉をひそめた。  土曜日の昼下がり。ホームには買い物客や家族連れが溢れている。  杖をつき、少し前傾姿勢で歩く久保に、周囲の視線は無遠慮に注がれる。  『邪魔だな』『遅いな』という無言の圧力を、久保は敏感に感じ取っていた。


「先頭車両の方へ行きましょう。あっちなら空いています」  叶多は久保を誘導し、人の少ないエリアへ移動した。  間もなく、電車が滑り込んできた。


 プシューッ。  ドアが開く。  電車とホームの隙間。わずか十センチ。  だが、すくみ足の恐怖を知っている久保には、それがクレバスのように見えた。


「……またぐぞ、棟梁。敷居だ」  叶多が耳元で囁く。  久保は頷き、呼吸を整えた。 「……シューッ、トン」  リハビリ室で何百回も繰り返したリズム。  左足が出る。隙間を越える。  乗車成功。


 車内は幸い、優先席が空いていた。  だが、久保は座らなかった。 「……立つ」 「え? 座った方が安全ですよ」 「現場まで行くんだ。座ってたら身体が鈍る」  それは久保なりの強がりであり、自分への挑戦だった。


 久保はドア横のスペースに立ち、手すりを両手で強く握りしめた。  ガタン、ゴトン。  電車が動き出す。  加速のG(重力)がかかる。  久保の身体が後ろへ持っていかれそうになるが、足を踏ん張って耐える。


 窓の外を、街の風景が流れていく。  久保はその景色を、食い入るように見つめていた。  病院の白い天井と、狭い中庭しか見ていなかった数ヶ月。  世界はこんなにも色彩に溢れ、こんなにも速く動いていたのか。


「……あそこだ」  久保が顎でしゃくった。  線路沿いに、建築中の木造住宅が見えた。足場が組まれ、職人たちが屋根の上で動いている。 「……筋交(すじか)いの入れ方が甘い。ありゃあ、揺れに弱えぞ」  久保がボソリと批判した。  身体は動かなくても、職人の目は死んでいなかった。  叶多は嬉しくなった。 「さすがですね。一瞬でそこまで見えるんですか」 「当たり前だ。俺が何年、墨付けしてきたと思ってる」


 その時だった。  キーッ!  急ブレーキがかかった。  信号トラブルか、踏切の直前横断か。  車内の乗客が「おっと」と将棋倒しになりかける。


「久保さん!」  叶多は咄嗟に久保を支えようと手を伸ばした。  だが、それより早く、久保が動いた。


 とっさに足を一歩開き、重心を落とす。  吊り革ではなく、手すりを脇に抱え込むようにしてロックする。  揺れに逆らわず、膝のクッションで衝撃を逃がす。  それは、不安定な足場の上で長年培ってきた、職人の「立ち方」だった。


 電車が停止した時、久保は転倒することなく、その場に仁王立ちしていた。  逆に、隣にいた若者の方がよろけて尻餅をついていたほどだ。


「……大丈夫ですか?」  叶多が冷や汗交じりに訊くと、久保はニヤリと笑った。 「フン。足場が揺れるのなんざ、日常茶飯事だ。……病院のツルツルした床より、こっちの方が踏ん張りが利く」


 頼もしかった。  この人は、温室のような病院に閉じ込めておくべき人間じゃない。  現場(外の世界)に出てこそ、その生命力が輝くのだ。


 電車が再び動き出す。  目的地まで、あと三駅。  だが、その先に待っているのは、希望の現場ではなく、「他人の手に渡った」という残酷な現実だ。  叶多の胸に、一抹の不安がよぎった。  この外出は、本当に正解だったのだろうか。  久保のプライドを、粉々に砕くだけの結果にならないだろうか。


 車内アナウンスが、目的の駅名を告げた。  久保の表情が、スッと引き締まった。  能面ではない。戦場に向かう武士の顔だ。


「……行くぞ、若造」  久保が杖をつき直した。

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