第10話 刻むリズム
二日目。 リハビリテーション室の片隅で、奇妙なセッションが続いていた。
「いち、に。いち、に」 叶多が手拍子を打ちながら声をかける。 プラットフォームに座った久保は、テープで保護されたカンナを手に持ち、テーブルの上に置かれた角材の上を滑らせようとしていた。 だが、その動きはぎこちなかった。 カンナを引こうとするたびに、肘がカクカクと引っかかり、動作が途切れてしまう。歯車動揺(コグホイール・リジディティ)。パーキンソン病特有の筋固縮だ。
「……うるせえ」 久保が不機嫌そうに手を止めた。 「子供の遊戯じゃねえんだ。その『いち、に』って掛け声をやめろ。調子が狂う」 「すみません。でも、リズムがないと身体が固まってしまいます。パーキンソン病は、外部からのリズム刺激があると動きやすくなるんです」 叶多は教科書的な説明をしたが、久保は鼻を鳴らしただけだった。
「お前のリズムは、現場のリズムじゃねえ」 「現場のリズム……ですか?」 「カンナってのはな、力で引くんじゃねえ。息で引くんだ」
久保はカンナを持ち直した。 その目は、ただの角材ではなく、その中にある「木目」を見ているようだった。
「シューッ、トン。シューッ、トン。……この間合いだ」 久保が小さく呟いた。 それは、カンナで木を薄く削り出し(シューッ)、削り屑を払って刃を確認する(トン)、職人だけが知る一連の呼吸だった。
「その音です!」 叶多は直感的に叫んだ。 「久保さん、その音を口に出しながらやってみてください! それがあなたの脳に一番届くリズムなんです!」
久保はバカにしたような顔をしたが、叶多のあまりの剣幕に押され、渋々といった様子で再びカンナを構えた。 深く息を吸う。
「……シューッ」 久保の口から漏れる呼吸音に合わせて、右手が動いた。 驚くほどスムーズだった。 さっきまで肘で引っかかっていたブレーキが外れたように、カンナが角材の上を滑る。
「……トン」 引き終わると同時に、手首を返してリズムを作る。 そしてまた、次のストロークへ。 「シューッ……トン。シューッ……トン」
繰り返すたびに、久保の動作から「迷い」が消えていく。 テープで保護されているため、実際には木は削れないし、音もしない。 だが、久保の脳内では、確かにヒノキの芳しい香りが立ち上り、透き通るようなカンナ屑が舞っているのだ。 その「イメージ」が、ドーパミンの枯渇した大脳基底核をバイパスし、運動野を直接刺激している。
「いいですね。すごくいい動きです。肩甲骨までしっかり動いています」 叶多は、久保の背中に手を当てて、その筋肉の躍動を感じ取った。 固まっていた広背筋が、呼吸に合わせて伸縮している。 これなら、いけるかもしれない。
ふと視線を感じて振り返ると、遠くのデスクで成瀬がこちらを見ていた。 彼は手元の腕時計を一瞥し、無表情のまま視線を外した。 残り時間は、あと一日。 上肢(腕)の動きは良くなった。だが、成瀬との約束は「機能的な変化」だ。 座ってカンナがかけられるようになっただけでは、不十分だと言われるかもしれない。 もっと明確な、誰の目にも明らかな変化が必要だ。
(歩行だ……) 叶多は確信した。 この「職人のリズム」を、歩行に繋げることができれば。 あの、すり足で小刻みな歩行を、劇的に変えられるかもしれない。
「久保さん」 叶多は、作業に没頭し始めた久保に声をかけた。 「そのリズムを覚えたまま、少し立ってみませんか」
久保の手が止まった。 能面のような顔が、ゆっくりと叶多に向いた。 その瞳には、昨日までの「怯え」ではなく、微かな「自信」の光が灯っていた。
「……悪くねえ」 久保はカンナを置くと、テーブルに手をついた。 「立たせてみろ、若造。……今の俺なら、立てる気がする」
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