第3話 点滅するカーソル

 リハビリテーション室の騒乱は、数分で収束した。  田中トミさんの腕の傷は、成瀬の手早い処置によって被覆材で保護され、止血された。幸い、皮下組織深部までの損傷はなく、縫合の必要はないとの判断だったが、皮膚の脆弱な高齢者にとっては決して軽い怪我ではない。


 田中さんは、駆けつけた病棟看護師によって車いすで連れて行かれた。  去り際、彼女は涙目のまま、小さく「先生、ごめんなさいね、私が弱くて」と呟いた。  その言葉が、叶多の胸を鋭利な刃物のように抉った。  謝るのはこちらだ。百パーセント、こちらの過失だ。それなのに、被害者である患者に気を遣わせてしまった。  叶多は頭を下げることすらできず、逃げるようにその場を立ち去る看護師の背中を見送った。


「……橘」  成瀬の声が、背後から降ってきた。  振り返るのが怖かった。 「スタッフルームへ戻れ。事故報告書(インシデント・レポート)だ。……今すぐに書け」 「は、はい……」


 リハビリ室に残る数百の視線。  先輩療法士たちの「あーあ、やっちゃったな」という同情と軽蔑が入り混じった目。患者たちの好奇の目。  叶多は、まるで犯罪者が護送されるような心持ちで、俯いたまま広いリハビリ室を横切り、奥にあるスタッフルームへと逃げ込んだ。


 リハビリテーション室の奥、窓のない薄暗いスタッフルームの隅。  発光する電子カルテのモニターだけが、叶多の視界を占拠していた。  画面の上部には、『事故報告書』というタイトルが赤字で表示されている。


 点滅するカーソルが、叶多を責め立てるように明滅している。  『発生状況』の欄に、『私の不注意により』という八文字を打ち込むたびに、指先が微かに震えた。  バックスペースキーを叩く。  一文字消えるごとに、自分の犯した過ちが剥き出しの事実として迫ってくる。  キーボードを叩く音が、静かな部屋にやけに大きく響く気がして、叶多は指を縮こまらせた。


 周囲では、昼休憩に入った先輩スタッフたちが、コンビニの弁当を広げながら談笑している。 「今度の週末、どこ飲み行く?」 「あそこの新しいイタリアン、美味しいらしいよ」  その日常の音が、今の叶多には針のむしろだった。  自分だけが、色の違う世界にいる。ここにいること自体が、許されない罪のように思える。  胃がキリキリと痛み、朝食に食べたトーストが喉の奥まで競り上がってくるようだった。


「……まだ終わらないのか」  背後から、氷のような声が追い打ちをかけた。  成瀬だ。  彼は自分のデスクにブラックコーヒーの缶を置き、腕を組んで叶多の背中を見下ろしていた。  叶多は弾かれたように背筋を伸ばした。 「す、すみません。状況の描写を、どうまとめればいいか迷ってしまって……」 「言葉を飾るな。事実を並べろ。君が何を『見ていなかった』のか、その欠落を証明しろと言っているんだ」


 成瀬は叶多の椅子を軽く蹴るようにして、自分の丸椅子を引き寄せ、ドカッと座った。  その距離、わずか数十センチ。  成瀬の冷徹な視線が、叶多の逃げ惑う目を正面から射抜いた。


「バイオメカニクスのエラーは明白だ。田中さんの重心が完全にベッドに移りきる前に、君は車いすを引いた。上肢には牽引力がかかり、アームレストとの摩擦で皮膚が剪断された。……だが、橘。問題はそこじゃない」  成瀬の声が、一段低くなった。 「なぜ、あのタイミングで引いた?」


 叶多は唇を噛んだ。  その問いへの答えは、自分の中で分かっていた。だが、それを口にするのは、あまりにも惨めだった。 「……スペースを、確保しようと……」 「違うな」  成瀬は即座に否定した。 「君は、僕に『気が利く新人だ』と思われたかったんじゃないのか?」


 図星を突かれ、叶多は息を呑んだ。  心臓を鷲掴みにされたような衝撃。 「……それは……」 「否定するな。君の視線は、田中さんではなく、ずっと僕の動きを追っていた。僕との連携(コンビネーション)を成立させることで、僕の承認を求めていた」  成瀬の言葉は、鋭いメスのように叶多の内面を解剖していく。  逃げ場はなかった。


「田中さんの表情も、指先が恐怖で強張っていることも、呼吸が浅くなっていることも、君の目には入っていなかった。……君が向き合っていたのは、患者じゃない。『成瀬さんに褒められる自分』という、矮小な自尊心だ」  叶多は膝の上で拳を握りしめた。爪が皮膚に食い込む。  鉄の味がした。口の中を噛み締めていたのだ。


「その心理的な油断が、判断を狂わせたんだ。患者を救いたいという熱意が、いつの間にか自分の有能さを証明したいという欲求にすり替わっていた。……それは、セラピストとして最も卑怯な裏切りだ。そのことを、この報告書に一文字ずつ刻んでおけ」


 反論などできるはずもなかった。  涙が出そうになるのを、必死で堪えた。泣く資格さえない。泣けば、それは「可哀想な自分」への逃げになる。  叶多は震える手でキーボードに向かい、成瀬に言われた通りの「動機」を打ち込んだ。  『承認欲求による確認不足』。  その文字列は、どんな罵倒よりも重く、叶多のプライドを粉砕した。


 成瀬は立ち上がり、そのまま去り際に、一枚のカルテのコピーをペラリと叶多のデスクに放り投げた。 「書き終わったら、六〇三号室へ行け。今日から君がメインで担当する患者だ」


 叶多は目を疑った。  事故を起こしたばかりの自分に、新しい患者を任せるというのか。謹慎処分ではなく?  カルテを手に取る。  『久保勝(くぼ まさる)』。  六十五歳。診断名は、パーキンソン病。


「……僕に、担当を? 今の僕にですか?」 「今の君だからだ」  成瀬は、背中を向けたまま、静かに言った。 「さっきのリハビリ室。僕たちのすぐ隣の平行棒で、休憩していた患者さんだ。……君があの場所で、患者を傷つけ、立ち尽くし、醜態を晒していた一部始終を、一番近くで見ていた人だ」


 叶多の顔から、さらに血の気が引いた。  あの時、視界の隅にいた大柄な男性患者。  彼が、次の担当患者だというのか。  最悪の出会いだ。信頼関係どころか、マイナスからのスタートですらない。「あいつはヤブだ」と確信している相手に、リハビリを提供しろというのか。


「……逃げるなよ」  成瀬はそれだけ言い残し、スタッフルームを出て行った。


 残された叶多は、震える手でカルテを掴んだ。  そこに書かれた『久保勝』という文字が、まるで叶多に下された審判の刻印のように見えた。  行きたくない。  できることなら、このままスクラブを脱いで、家に帰って布団に潜り込みたい。  だが、書きかけの事故報告書が、それを許さなかった。


 叶多は深く息を吐き、重い足取りで立ち上がった。  向かう先は、六階。神経内科病棟。

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