どうかあなた、幸せになって下さい。私のことは忘れていいのです

MEIKO

第1話 プロローグ

 

「ここを出て行って。あなたがここにいることで、迷惑なのが分からないの?あの人の為を思うなら…今すぐに!」


 美しいひとが私を睨み、きつい言葉を浴びせる。だけどその瞳は不安げに揺れ動いていて、心の葛藤が見て取れる。その方は侯爵家の夫人…いつもは冷静で声を荒げることもない。そして知的で優雅、この上なく魅力的な人だ。だけど私という存在によって心を乱し、最近では貴婦人らしからぬ言動まで…そのことには怒りや困惑だけではなく、罪悪感さえ感じてしまう。この方をここまで変えたのは、紛れもなくこの私なのね?そのことに複雑な思いになる。三年もの長い年月をかけて辿り着いた先には、こんな最後が待ち受けていたなんて…誰が予想できた?もう潮時なのね。

 

 私は「分かりました…」と独り言のように呟き、深々と頭を下げて部屋を出て行く。その時背中越しに聞こえたのは大きな溜め息。それは安堵に似たものだったけど、それだけではないように感じた。不安に後悔…それから深い愛。

 何とも言えない感情を抱えたまま部屋に戻った私は、数少ない私物を片付け始める。ここへ来た時に持ってきた小さな鞄にそれを詰め込むと、あっという間に終わってしまう。


 「荷物って、こんなに増えないものかしら…」


 そんなことを呟きながら鞄を持ち上げると、中は空なのかと思うほど軽い。それに苦笑いしながらフラフラと立ち上がり、人知れず屋敷を出る。するとこれまで必死に抑えていた感情が沸々と湧き起こって…


 ──私はどうしたら良かったの?あなたさえいれば死んでもいいと言うべきだったのかしら…分からない!

 

 爪に火を灯すような貧しい生活だったけど、それでも私は幸せだった。知ってる?あなたの腕に抱かれて、この世の誰よりも幸福なのは私だと確信していたわ。だけどそれはもう随分前のこと…私達を取り巻く環境は様変わりし、あなたとは口を聞くことさえ許されない。迷惑をかけてごめんなさい…そう言いながらも私は、どこかであなたを求めていた。もしかしてこの手を伸ばしたとしたら、握り返してくれるのではないかと期待をしていた。だけど全ては…

  

 「フフッ…それはもう過ぎたこと。どうか愛するあなた、幸せになってください。私のことなど忘れて、幸せになって良いのです。陰ながら幸せを祈ります…あなたの幸せだけを」


 そう微かに呟いた私は、正面門ではなく通用口の方へと歩き出す。それから少し歩いたところでふと立ち止まって…後ろ髪引かれる思いでもう一度だけと屋敷の方に振り返る。あなたがあの人を抱き締めて眠っているだろう部屋を見上げて…


 「さようなら…今度こそ本当にさよならなのね?あなたを心から愛していました。だけど今日でそれを終わりにします」


 俯きながら通用口から一歩外に出る。深夜の時間帯だからか人っ子一人おらず、シンと静まり返っている。すると…チラチラと白いものが舞い降りて、思わずそれを手のひらで受ける。するとあっという間に溶けてしまって…


 寒さでブルッと身震いした私は、肩に羽織っていたショールを外して頭から被った。それから深々しんしんと降り積もる雪の中を宛もなく歩き出す。みるみる真っ白になった道は、私の足跡だけが点々と残っている。そのうちその足跡さえも直ぐに見えなくなっていくに違いないと思う。そして私の頭や肩、持っている鞄の上にも雪が降り積もって、辺りの景色と一体化していって…

 

 それからどれだけ歩いただろう?所々にある街灯の灯りだけを頼りにひたすら歩き続けた。足先は寒さで既に感覚がなくなり、鼻先と頬は真っ赤になりジンジンとした痛みが!手もかじかんで、もはや何を持っているのかも分からなくなってくる。そんな状態の私は、既に全てを諦めていた。


 ──雪よ、私を隠して…


 真っ白な塊になって、いっそこの世から消えてしまいたい。それでもフラフラと歩き続けて、やがて街外れの広場に出た。そして私はそこにあったベンチに腰掛ける。着ている服もコートも何もかもがビッショリと濡れ、もはや末端まで凍えて身体の感覚もなかった。だけど私はどこかそれにホッとしていた。もう楽になれるのだと…


 「あの時死んでしまえば良かったの?だったらあなたの妻として死ねたのに…」


 震える唇でそう呟き、真っ黒な空を見上げる。すると全てが自分に向かい降りてくるような灰色の雪。放射状に降り続いて身体をどんどん覆ってゆく。


 ──どうかもっと降り積って私を隠して下さい!この命が凍り付いてしまうように…


 そして私は、静かに目を閉じた。もう二度と目覚めることなどないだろう…そう覚悟しながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る