4:禁忌のしらべ


 月に夕陽が満つる刻──。

 エフューの口から、するりと詩が滑り出る。


 その途端、空の綿雲が急速に動き出した。

 お日様は首を傾げるように転がって、たちまち空を緋色ひいろに染めた。


「どうして、なんで。怖いわ、ルルリェ」

「落ち着け、不安に思わず続けるがいい」


 信じれば、悪いことは起こらない。ルルリェの言葉と好奇心を胸に、エフューは詠う。


『月に夕陽が満つる刻、あかい口紅ひとさし引いて……』

真宵道まよいみちしるべに明かりを灯しましょう』


 お日様がいなくなったところに、さやさやと顔を見せたのは真ん丸のお月様だ。気が付けば、街は夜の闇に包まれていた。

 驚くエフューの眼下で、街の一角に二つの灯火が灯る。子供らの誰かが、教会の窓を閉じてランプを掲げているようだ。朱い火は色硝子を透かして、葡萄色に揺らめいている。


『ひさひさ露を払って花は踊れ』


 背後のアカシアがさざめき、枝葉からたくさんの黄色い花が零れ落ちた。風に乗って、花弁は街へ降り注ぎ、迷路のような通りを隙間もなく埋めていく。


 恐れに震える拳を握りしめ、エフューは最後の一節を唇で押し出し始めた。


冥路めいろの窯の蓋開け……』


 エフューの耳に、遠く離れて聞こえるはずもない、自宅の窯の戸が開く音が響いた。


『尾をふり……雲ふり……知らぬふりの……』


 滅多に鳴かないグランが一声鳴いた。しっぽの先に、めらめらと炎が揺れている。

 驚いて飛び上がるエフューに反し、臆病者のグランがどうしたことか、ちっとも怯えも慌てもしない。エフューに何か語りかけるように、尾を立ててじっとしていた。


 エフューにはその炎が、ひどく恐ろしいものに思えた。火は暗闇を照らして、冷えた体を暖めて、美味しいパンを焼くのを手伝ってくれるものだ。

 それなのに、グランの幸運のかぎしっぽに灯るその炎からは、不思議なほど温かみを感じられなかった。


「……火から、何か、聞こえる」

「どんな音がする?」

「何か大きい音だわ……馬の、蹄の音? これは何かしら、鐘を打ち鳴らすような……」


 刹那、炎が烈しく爆ぜた。これにはさすがにグランも飛び上がる。

 エフューは火から聞こえる音のように早鐘を打つ心臓を撫で、グランに促した。


「……しっぽを振って」


 黒いしっぽが振り下ろされる。

 すると、鉤を外された炎はエフューの家の窯へ吸い寄せられるように、流星の如く飛んでいった。

 その風を切る轟音がまた、ひどくエフューを不安にさせた。


「どうしてこんなに怖いの?」

「……あの火が、戦場に生まれるものだからだろう」


「センジョウって、なぁに?」

「そうか、幼いお前は知らないか。戦というのは――」

「わたし、それ……知りたくないわ」


 まるで耳を塞ぐように、エフューの手はを覆った。


「どうした、エフュー。まだ詩は終わっていないぞ」

「もういや。怖いの。どうして、なんで。ここには怖いものなんて何もないのに」


「目を開けろ。真実から目を背けるな」

「いや。ルルリェも怖い。いい子じゃない」


「こんな莫迦げた街を創ったのは誰だ。お前にその名を与えたのは?」

「……知らない、知らないっ」

「知らぬふりはよせ。詠うんだ、エフュー」


 大きな手に肩を揺さぶられ、恐れのあまりエフューは口から詩を零れさせた。


『尾をふり……雲ふり……知らぬふりの……』



『……姫が、微笑う』


 閉ざした闇の向こうで、ルルリェは鼻で笑った。


「やはり、な。そら、見ろ。あれがお前を閉じ込めた、街の正体だ」


 ルルリェの言うことすべてが不思議で、怖くて、それなのに気になって、エフューは恐る恐る指を広げた。

 少女の目に馴染んだ街並みは、様相を全く異にして夜に佇んでいた。


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