未知の境界線
foxhanger
第一章:既知の世界
午前6時の三秒前に、七海未知は目を覚ました。いつものことだ。AIアシスタント「オラクル」が彼女の睡眠サイクルを完璧に把握し、最も気分よく起きられるタイミングで脳波を刺激する。窓の外を見れば、今日の天気、気温、湿度、最適な服装がホログラムで表示されている。
その窓からは、遠くに海が見えた。東京湾。かつては予測不可能な波が打ち寄せる場所だったが、今は違う。防波システムが全ての波を制御し、海面は常に穏やかだ。台風も、高潮も、全て事前に予測され、完璧に防がれる。
2045年の朝は、海のように穏やかで、完璧だった。
「おはよう、未知。今日は水曜日。気温22度、降水確率0%。北東風が秒速2.3メートル。学校まで徒歩14分32秒。途中、コンビニで新発売のエナジードリンクを購入すると、午後の授業の集中力が12%向上します」
オラクルの声は優しく、母親のように未知を包む。朝食のメニューも、栄養バランスと味の好みを考慮して自動的に決まっている。今日はバナナヨーグルトとトースト。明日はシリアルとフルーツ。来週の月曜日はオムレツ。全て、最適化されている。
未知は鏡の前で制服を整えながら、自分の名前を見つめた。胸の名札に書かれた「七海未知」という文字。「七つの海の未知」。17年前、両親が彼女に付けた名前。今では時代錯誤だと笑われる名前。
「ねえ、オラクル。海って、昔はどんな場所だったの?」
「海:地球表面の約70%を占める塩水の領域。かつては『未知の領域』と呼ばれました。深海には未踏査の場所が多く、予測不可能な現象が頻発していました。現在は完全にマッピングされ、全ての海流、生物、地形が把握されています」
そう、海も既知になった。これが2045年の常識だった。
学校への道のりも予測通りだった。信号は未知が到着する三秒前に青になり、すれ違う人々の数も、彼らの表情も、全てオラクルの予測通り。海沿いの遊歩道を歩きながら、未知は完璧に制御された波を見た。規則正しく、同じリズムで打ち寄せる波。美しいが、どこか空虚だった。
コンビニで勧められたエナジードリンクを購入し、教室に入る。
「おはよう、未知ちゃん!」親友の桜井花音が手を振る。「ねえねえ、昨日の配信見た? あのアイドルの新曲、オラクルの予測通り、完璧にヒットしたよね」
「見た見た。でも、予測通りだよね」
「そりゃそうだよ。オラクルの予測精度99.8%だもん。外れる方がニュースだよ」
花音は笑う。未知も笑顔を返すが、心の奥で何かが引っかかる。予測通りのヒット曲。予測通りの感動。予測通りの青春。まるで制御された波のように。
放課後、未知は古い図書室に足を運んだ。デジタル図書館が完備された今、誰もこの場所を訪れない。埃をかぶった本棚の間を歩いていると、一冊の古い本が目に留まった。
『未知への航海—20世紀の探検記』
本を開くと、黄ばんだページから古い紙の匂いがした。そして、塩の匂いも。そこには、地図にない島を探す探検家の話が書かれていた。荒れ狂う海、予測できない嵐、どこに流れ着くか分からない航海。危険で、不確実で、でも目が輝くような冒険。
「かつての海は、未知そのものだった。水平線の向こうに何があるか、誰も知らなかった。だから人は航海に出た。未知を求めて」
そして最後のページに、こう書かれていた。
「私たちはなぜ、知らないことを求めるのか。それは知らないことの中にこそ、生きる意味があるからだ。海がそうであったように、未知は私たちを呼んでいる」
未知の胸が、初めて大きく波打った。まるで制御されていない、本物の波のように。これが何という感情なのか、すぐには分からなかった。オラクルに聞けば教えてくれるだろう。でも、聞きたくなかった。自分で感じていたかった。
その夜、未知は眠れなかった。天井を見つめながら、探検家の言葉が頭の中で繰り返される。海と未知。自分の名前の意味。七つの海の未知。両親は何を願って、この名前を付けたのだろう。
「もしかして、これが『好奇心』なのかな」
呟いた瞬間、オラクルが反応した。「好奇心を検知しました。対処法を提案します。新しいゲーム、映画、または—」
「いい。大丈夫」
未知は初めて、オラクルの提案を断った。窓から海を見た。月明かりに照らされた海面は、鏡のように静かだった。でも未知は知っている。本当の海は、こんなに静かではない。
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