未完成の翠が、名もない夢を照らすまで
丸太小屋民
第1話 春の匂いと、白いライン
春の匂いが、校舎の裏手からふっと吹いてきた。
千葉の端っこ、海風が強くて、洗濯物がよく乾く町にある中堅校だ。
全国常連でもなければ、強豪みたいに「専用グラウンド」があるわけでもない。校門の先に見えるのは、少し色褪せた掲示板と、朝の光を受けて白く浮いた校舎の壁。
それなのに。
足を踏み入れた瞬間から、胸の奥が妙に静かだった。怖いほど落ち着いていて、逆に自分が自分じゃないみたいだった。
(……ここで、私は変わる)
銀髪は今日も下ろしたまま。束ねるのが面倒とかじゃなくて、昔からの癖だ。似合わない、と自分で勝手に決めつけてきた。結べば整うのに、整うことが怖い。そういう、変な意地。
私は、アイドルになりたかった。
東京のオーディション会場をいくつも渡り歩いて、面接の言葉も、笑顔の作り方も、完璧に“それっぽく”なった。けれど最後の最後で、いつも落とされていた。
審査員の視線が、私の胸のどこかを見抜いている気がして。
「桐生さん、いいと思います。でも──」
その続きが、いつも同じだった。
“何か”が足りない。
“何か”が届かない。
その“何か”が何なのか、私はずっと分からなかった。
だけど、ある日。
近所の公園で──少女たちが硬球を打ち合う音を聞いた。
乾いた金属音。
バットがボールを捉えた瞬間の、短くて鋭い音が、胸の真ん中を叩いた。
砂が跳ねる。息が弾む。笑い声が混ざる。
勝ち負けに本気で、汗まみれで、それでも目が光っている。
あの眩しさだけが、私の中に残った。
飾りじゃない。演技じゃない。
嘘をついてる暇がないほど、真剣な顔。
──ああ。
私が足りなかった“何か”って、これだ。
だから私は野球を選んだ。
そして、この日向里高校を選んだ。
理由は単純だった。
──女子野球部が、ある。
それだけで十分だった。
職員室での手続きを終え、案内された体育館脇の通路を抜ける。
ワックスの匂いが薄く残る廊下の先に、外の光が差し込んでいて、そこから土の匂いが混じってきた。
視界が開ける。遠くに、グラウンドの茶色が見える。
その場所だけ、空気が違った。
春の柔らかさの中に、ピンと張った糸みたいな緊張がある。
「……えっ、女子野球部?」
すれ違った男子たちが、グラブを持った私を一瞬だけ見て、友達に小声で言う。
「あるけどさ、中堅だよ。地区でも上がったり落ちたり。強豪ってほどじゃない」
「でも人数多くね? なんか、雰囲気はある」
「まあ、女子の野球だから。物珍しさで入部してるんじゃね」
言葉が、胸に刺さった。
(中堅……)
胸の奥が、ほんの少しだけ疼く。
馬鹿にされたくない。
でも、馬鹿にされても仕方ないって思ってしまう自分が、いちばん嫌だった。
中堅。
中途半端。
どこにでもいる。
私は、そういう場所から抜け出したくて──ここに来たのに。
フェンスに近づく。
金網越しに見える白いラインが、土の上にきちんと引かれていた。
選手たちは黙々と動いている。派手さはない。だけど、動きに迷いがない。
投球練習の捕手ミットが鳴る音。
ノックの打球が、内野の土を削る音。
走塁の掛け声。スパイクのリズム。
誰かの「もう一本!」という声が、風に乗って飛んできた。
その全部が、私の“やり直し”を歓迎しているように思えた。
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