デュープ もう1人の自分へ
大橋まさみ
第1話 転落
帝都銀行本店は丸の内の東京駅からほど近い場所にある。再開発が進む周辺のビルは高層化されてきているが、帝都銀行本店ビルは、一九八〇年に改築された地上二十階建、地下四階と今となっては古臭い建物だ。
七月初めのその夜は、空には雲が多く、月明かりも届かなかった。雨が降ると予想する気象予報士も少なくなかった。近くにホテルなどがないこのあたりは、天気があまり良くないことからか、この日は人通りも少なかった。やがて雷が鳴り始めた。午後九時を過ぎたころ、雨が降りそうなのを気にしながら警備員が巡回を始めた。帝都銀行本店ビルの背面側には、公開空地があり、樹木が植えられ、その周囲は花壇になっていた。
警備員がビルの背面に回ったとき、稲妻が走った。その稲光の中で花壇の中に横たわった男の姿が炙り出された。警備員が男に気がつき、近寄って行った。最初は酔客かと思ったが、その男のただならぬ様子に警備員は驚いた。男は背広姿だったが、背広の肘から折れた左腕の骨が飛び出していた。また上半身を激しく打ち付けたらしく、とくに頭蓋が痛んでいた。花壇が血を吸い込んでいたため、広がってはいなかったが、その出血の量は夥しかった。警備員は小型の懐中電灯で男を照らし、その男の顔を見て、その男が帝都銀行の副社長を務める御手洗 吟(つとむ)であることがわかった。
「副社長、しっかりしてください」
男の損傷が激しく、警備員は抱き上げることができなかった。肩から無線機をとって警備員は呼びかけた。
「こちら帝都銀行担当の小林。銀行裏手の通路に、御手洗吟副社長と思われる人物が倒れています。至急、救急車の手配を」
もう一度激しい稲妻が走り、ビル内の照明が消えた。が、すぐに電力は復旧し照明も復活した。
「それと応援もお願いします」
救急車がやがて駆けつけ、御手洗吟はお茶の水にある帝都病院に運ばれた。連絡を受けた吟の妻ゆり子と二人の子供たちも病院へ駆けつけた。吟は緊急手術となり、手術室の前で妻ゆり子と子供たちは手術の終わりを待つことになった。ゆり子は四十二歳になる夫吟とは二つ違いで、財閥系自動車メーカーの役員の娘だ。吟とゆり子の子供たち長男理玖は十歳、長女結衣は八歳とどちらも幼い。
ゆり子たちには吟の父である御手洗 正憲(せいけん)の秘書鈴木がつきそっていた。鈴木は正憲の古くからの秘書で、五十代後半になった今では秘書たちをまとめる立場になっていて、深夜にもかかわらず背広姿だった。
深夜零時頃には、吟の弟御手洗 肇(はじめ)と妻恵子が連絡を受けてやってきた。急な連絡に慌てて飛び出したため、二人ともラフな私服だった。肇は吟とはひと回りほど離れた兄弟だったため、ゆり子と恵子も十歳ほど離れていた。肇が声をかける前に、二人が来たことにゆり子は気づいた。
「肇さん……」
「義姉さん、何があったんですか?」
「わかりません。仕事で遅くなるという連絡はあったんですが……それが……投身自殺じゃないかって」
恵子が「投身自殺」という言葉に驚いて言った。
「まさか! お義兄さんが自殺だなんて」
「だれがそんなことを!」
肇の言葉にゆり子が答える。
「警察が……」
吟の父正憲が杖をつきながらやってきた。七十歳になったばかりだが、背筋も伸び、毅然としていた。ただここ数年は杖をついて歩く姿も珍しくなかった。年齢が年齢なだけに白髪も多いが、黒髪も残っていてまだら白髪だった。その正憲が「警察が動いているのか?」と尋ねた。
「お父さん……ええ、少し不審な点があるらしくて……」
そうゆり子が答えたとき、正憲の弟で、吟の叔父にあたる御手洗 憲次(けんじ)もやってきた。
「一体どうしたんだ。吟君に何かあったのか?」
憲次は正憲より二つほど若いが、具合が悪いといううわさもなく、いたって健康のようだ。兄正憲とは 違い頭髪はほとんど残っていない。鈴木秘書が答えた。
「社長も副社長も……ありがとうございます。まだ正式なことは申せません。吟常務が帝都銀行の本店ビルの背面の通路で倒れているのを巡回中の警備員が発見しまして、救急車と警察に連絡したようです。発見されたのは九時頃です。救急で帝都病院に運び込まれて緊急のオペになり、現在、手術中です。ひどい怪我で、怪我の状態から転落したんじゃないかと……」
「ビルから転落したって……帝都銀行本店は二十階建てですよ……」
声をふり絞るように肇が言うとゆり子が泣き出した。恵子はそんなゆり子に寄り添った。
「通路脇に樹木があり、そこに落ちてから花壇にバウンドしたようですので、もしかしたら……」
鈴木秘書がそう説明するとゆり子が絶句した。
「鈴木さん、いまは……」
と恵子が鈴木を遮った。
「そうですね……」
と言い淀んだ鈴木を
「鈴木、ちょっと……」
と正憲が招き、正憲に連れられて鈴木秘書が去って行った。入れ替わりに男二人がやってきた。一人は五十代半ば、もう一人は三十代半ばの若い男だった。二人とも背広姿だったが、カジュアルな靴を履いていたのが変わっていた。年上のほうの男が言った。
「奥さまは……」
ゆり子が答えた。
「私です。御手洗ゆり子と申します」
年上の男は手帳を掲げながら答えた。
「警視庁のものです。岩田と言います」
男たちが刑事とわかってゆり子が尋ねた。
「主人は自殺なんですか? 今朝もいつも通り出かけて……とても自殺なんてするようには思えません」
若い方の刑事がゆり子に答えた。
「警視庁の宮崎です。われわれも事故と事件の両面から捜査しています」
岩田刑事がゆり子に聞いた。
「現場に封筒があったということですが……」
ゆり子がビニール袋に入った封筒をバッグから取り出した。
「はい、これです。倒れていた主人の近くにあったようで……現場にいた警備の方が病院まで届けてくださいました。警備の方が、念のためにビニール袋に入れてくださって……中を読むのは警察の鑑定が終わってからの方がいいだろうとおっしゃっていたので、私も中を見ていません」
宮崎刑事がビニール袋を受け取りながら言った。
「それはありがたい。指紋採取が楽になります」
それまで黙って見ていた憲次が得意そうに言った。
「帝都グループの警備を担っている帝都セキュリティには警察OBが多いですからな。警察の捜査に協力するにはどうしたらいいか熟知したものが多いし、講習会もよく開いているから」
岩田刑事が憲次にあわせるように
「ああ、帝都セキュリティの御手洗憲次社長ですね」
と言った。
「ああ、そうだ。警視庁のみなさんにはじゅうぶんな捜査をお願いします」
という憲次の答えに、宮崎刑事が無礼にならない程度に慇懃に答えた。
「もちろんです。予断を持つことなく慎重に捜査します。今日はとりあえずこの封筒だけ預かって、明日以降あらためて事情聴取にご協力いただきますのでよろしく」
刑事たちは会釈をしてから去っていった。
午前三時を過ぎたころ、帝都病院の手術室の前では、御手洗ゆり子が義弟の肇やその妻恵子、叔父の憲次と共にいた。みんな長椅子に座っていたが、ゆり子の二人の子供は疲れてしまい長椅子で眠っていた。憲次も居眠りしている。手術室の「手術中」のランプが消えた。ドアが開き、手術着の医者が出てきた。みんな立ち上がり医者を囲んだ。
「先生、兄の容体はいかがでしょうか? 手術は成功したんでしょうか?」
肇が勢い込んで質問した。医師は首を振った。
「申し訳ありませんが、手の施しようがありませんでした。それでもできるだけのことはしたんですが……」
ゆり子が泣き出した。子供たちも訳もわからず泣き始めた。恵子ももらい泣きした。正憲と鈴木秘書が遅れてやってきて呆然と立ち尽くした。
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