第4章 街には、気づかれない声がある


昼休みが近づくころ、私はふとデスクの引き出しを開けた。

そこにあるはずの紙切れは、もちろん戻っていなかった。


仕事は順調だった。

メールの返信も会議の段取りも、いつも通り。

でも、心のどこかに、細い針のような空白だけが残っていた。


……あの老人は、拾った人を探せと言っていた。


拾った人。

本当にそんな人がいるのだろうか。


午前中の仕事を終えた私は、昼休みにビルの近くの古本屋へ足を向けた。

社員食堂に行く気になれず、外の空気を吸いたかったのだ。


その古本屋は、小さなガラス扉の向こうに時間が溶けているような店で、

通りすがりの人が気づかずに過ぎていくほど静かだった。


扉を押すと、カラン、と鈴が鳴る。


店内には天井まで届く本棚が並び、古い紙の匂いがふわりと漂っていた。

薄暗い照明が、本の背表紙をやさしく照らしている。


私は特に目的もなく棚を眺めながら、

今の自分が探しているものが、本ではないことを知っていた。


店の奥から、かすかな声がした。


「……よし、これでいい、かな」


小さなテーブルに、小柄な少女が座っていた。

年は中学か高校の初めくらいだろうか。

髪をざっくり束ね、指先を器用に動かしている。


よく見ると、彼女は購入された古本を一冊ずつ紙で包んでいた。

店のロゴ入りの薄い包装紙。

丁寧に折り目をつけ、テープを貼る。


その手つきが驚くほどやわらかく、

本に対する愛情そのものが滲み出ていた。


「……すみません、見ていていいですか?」


気づけば声をかけていた。

少女はぱっと顔を上げ、少し驚いたように笑った。


「あ、はい。全然いいですよ。

これ、好きなんです。包むの」


「好きなんですね」


「はい。本がだれかに渡る瞬間って、なんか嬉しくて」


渡る瞬間。


その言葉が、胸のどこかを揺らした。


「どうして包んでいるんですか?

ここはセルフじゃないんですか?」


「うん。本当はセルフなんですけど……

だれかへの贈り物みたいにして渡したくて」


「贈り物?」


「はい。知らないだれかに、ちょっとだけ嬉しい気持ちが届けばいいなって。

開けたとき、こころがふわっとするでしょう?」


少女の笑顔は、街の空気よりずっと透明だった。


「私、上手くないけど……

この本、あなたに届きますようにって思いながら包むんです」


無意識に、胸の奥がざわり、と揺れた。


その気持ち──

昔、誰かが私にくれた言葉と似ていた。


――優しさを忘れないでね。


少女は、包んだ本を両手でそっと持ち上げた。


「はい、できあがり。

こういうの、変ですか?」


「……いえ。すごく、いいと思います」


言いながら、自分でも驚いた。

こんなふうに、人の優しさを素直に認める言葉が、

自然に出てきたことに。


少女は照れくさそうに笑い、指先でテープを押さえた。


「よかった。

あの……お姉さん、探し物してます?」


「え?」


思わず聞き返すと、少女は目を丸くした。


「あ、ごめんなさい。

さっきから、なんとなく……そんな顔をしていたから」


「探し物……してるかもしれません」


「なくしちゃったんですね?」


「はい」


少女は少しだけ考える素振りを見せた後、

包んだばかりの本を撫でるようにして言った。


「なくしたものって、だれかの手に渡ることも多いですよ。

街って、いろんな人が通るから。

もし、やさしい人が拾ったら……

きっと、大事にしてくれてます」


その言い方は、まるで拾い主を知っているようだった。


「大事に……?」


「うん。そのほうが、安心でしょう?」


少女が言うと、不思議と胸の痛みが少し薄れた。

言葉は簡単なのに、そこには何かが宿っていた。


「ありがとう。……少し、元気が出ました」


「よかった!」


少女は、ぱっと花が咲くように笑った。


「探しもの、見つかるといいですね。

見つからなくても……誰かに届いてたら、それはそれで素敵です」


その言葉は、静かに胸へ落ちていった。


――なくしたものは、拾った人を探すといい。

――だれかに届いてたら、それも素敵。


老人の言葉と少女の言葉が、心の中で重なる。


私は深く息を吸い、本棚の匂いを胸いっぱいに感じた。

古本のページがどこかでめくれる気配がして、

この店そのものが、誰かの優しさで満ちているように思えた。


「また来てもいいですか?」


「もちろん!」


少女は、迷いなくそう言った。


私は軽く会釈をして、店を出た。

外の光が少しまぶしく感じる。


歩き出してすぐ、気づいた。


胸のざわつきが、ほんの少しだけ消えている。


まだ何も見つかっていないのに。

なくしたものは戻っていないのに。


それでも、なぜか昨日より息がしやすかった。


――優しさって、こんなふうに漂っているのかもしれない。


そう思いながら、私は午後の仕事へ戻っていった。

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