政略結婚した王子に嫌われるため、私は悪役令嬢を演じることにした
常陸 花折
日常と違和感
叶わない恋の話
――私は、窓辺の長椅子に腰掛けながら、手の中のティーカップをくるくると回していた。
午後の陽射しが照らす庭園は、いつもより静かだ。
公務の合間、限られた者しか立ち寄らないこの場所で、彼女が向かい合っているのは、フォルテン家の令嬢――ヴェリーナだった。
「ねえ、ヴェリーナ様って……誰かを好きになったこと、ある?」
口に出した瞬間、少しだけ胸が跳ねた。
こういう話をできる相手は、彼女の周りにはほとんどいない。身分の違いを考えれば、なおさらだ。
けれどヴェリーナ嬢は、いつもと変わらない落ち着いた仕草で紅茶を口に運び、わずかに唇の端を上げた。盛り上がるわけでもないが、馬鹿にするでもない冷静な態度。
「どうしたの、急に。恋の相談?」
「そ、そういうわけじゃ……でも、その……」
言葉を濁す私に、彼女は急かすことも、からかうこともしない。ただ、先を待つように視線を向けてくる。
その態度が、私には嬉しかった。
彼女は、フォルテン家の令嬢だ。王家とも深く関わる、上流貴族。私にとっては本来雲の上の存在。
一方で私の生まれのメルアン家は貴族ではあるものの一つも二つも格が落ちる家系だ。
それなのに、物心ついて初めて社交の場に出た私を気遣うように話しかけてもらって以来、ずっとこうして自分の拙い悩みに耳を傾けてくれる。
いつも冷静に、私のことを考えて答えを一緒に探してくれる。だからこそ、私は彼女を「親友」だと信じて疑わなかった。
「……王子殿下って、優しいよね」
ぽつりと漏れた言葉に、ティーカップを持った彼女の手が一瞬だけ止まった。
ローエン=ヒルダガルデ王子、この国、リーヴェン王国の第一王子だ。
私は、彼に恋をしている。
「誰にでも分け隔てなくて、ちゃんと話を聞いてくれて……
私みたいな家の者にもしっかりと気を使ってくれる」
「そうね」
相槌は穏やかだった。でも、次の瞬間。
ヴェリーナ嬢は窓の外へと視線を逸らした。
そこにあったのは、ほんの一瞬の違和感だった。
笑みは浮かべたままなのに、どこか遠くを見るような眼差し。触れれば壊れてしまいそうな、寂しさとどこか緊迫感を隠した顔。
――あれ?
彼女のその表情に、胸の奥がちくりと痛んだ。
どうしてそんな顔をするの?
私は彼女に聞けなかった。
「……でも」
私は、無意識のうちに取り繕うように続けていた。
「私なんかが想っても、叶わない恋だよね。身分も違うし……」
自嘲気味に笑うと、彼女はゆっくりとこちらを見た。
一切視線を逸らさない。彼女が真面目に話をする時はいつもそう。
「この世には叶わない恋も、あるわ」
その声は、静かで、冷静で――そして、妙に重かった。
「でもね」
「……?」
「壊さなきゃいけない関係もあるのよ」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
庭園には、紅茶の香りと沈黙だけが残る。
私は、その言葉の意味を測りかねたまま、曖昧に笑って話題を変えた。
その時、庭園の入口で数人の貴族令嬢がひそひそと話しているのが耳に入った。
「……王子の政略結婚、決まったらしいわよ」
「相手はまだ発表されてないけど、王家が動いたって」
その言葉が、胸に突き刺さる。足が止まり、息が詰まった。頭の中が真っ白になる。
元々叶わないと思っていた。それでもいざ、結婚されると聞くとどうしても苦しくなってしまう。本来、おめでたく思うべきなのに……
「……そんな」
私の動揺に気付いたのか、彼女がこちらを見る。その瞬間、彼女の表情がほんの一瞬だけ変わった。驚きとも、覚悟ともつかない、微かな歪み。
「ヴェリーナ様は……何か、知ってますか?」
上流貴族の彼女なら、何か情報があってもおかしくない。そう思って尋ねたのに、彼女はすぐに微笑んだ。
「いいえ。噂話よ。気にするだけ無駄だわ」
あの時の私は、まだ知らなかった。
あの言葉が、誰の恋を指し、誰の未来を壊す決断だったのかを。
――そして、その中心に、彼女自身がいたことを。
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