――神話語――

かつて、世界には「術（すべ）」があった。
ことばよりも先に立ち上がる合図。
祈りよりも先に届いてしまう応え。
物質と心のあいだに、
まだ境界が引かれていなかった頃の話である。

山が動こうと思えば、山はそのまま傾いた。
海が鎮まろうと思えば、波はただ一度だけ息をつき、
そのまま眠りに落ちた。
風は呼ばれれば吹き、
火は願われれば灯り、
そのすべてが「特別なこと」ではなく、
世界の日常の一部として、静かにそこにあった。

その時代、
術は誰かの所有物ではなかった。
天にも、神々にも、
あるいは英雄の名にも属してはいなかった。
ただ「まだ固まりきらない世界」そのものの性質として、
すべての場所と、すべての瞬間に滲んでいた。

やがて、世界は気づく。
術が術として意識されるほどに、
その内部にあるものが変質していくことを。

「どうすれば動くのか」
「どうすれば叶うのか」
その問いが、
術のまわりに集まりはじめた時、
世界はひそかに震えた。

術そのものは、危険ではなかった。
危ういのは、術を「繰り返そうとする心」であった。
一度うまくいったかたちを、
二度、三度と真似ようとする意思。
結果だけをなぞり、
その背後にある重さを見なくなる眼差し。

そのとき世界は、
自らに向かって、ひとつの問いを置いた。

――このまま術を晒し続ければ、
　　いつか「起こしてはならない出来事」まで
　　起こされてしまうのではないか。

世界は、力を失おうとはしなかった。
世界は、奇跡を捨てようとはしなかった。
選ばれたのは、もっと小さく、
もっと目立たない、ただ一か所である。

それは、「手順」であった。

どうすれば山が動くのか。
どうすれば海が割れるのか。
どうすれば病が消え、
どうすれば都が沈むのか。

その一つひとつの「やり方」だけが、
静かに、世界の底へと沈められた。

力は、残された。
響きも、残された。
世界のどこかには、
いまでも術の名残が滲んでいる。

ただ、
「こうすれば必ず起こる」という道順だけが、
誰の手にも届かない場所へと、
そっと移されただけだった。

そうして世界は、
自らを守るために、
魔法を「失った」のではなく、
魔法を「隠した」。

その日から、
魔法は力の名ではなくなった。
魔法とは、
まだ固まりきらない世界の隙間――
未だ確定していない領域（未固定域）に、
直接触れてしまう行為の名となった。

そして世界は決めた。

その隙間に、
誰も「何度も手を伸ばせない」ようにすること。
一度きりの奇跡は許されても、
手順としての魔法は、
二度と地上に並ばぬようにしておくこと。

その決定こそが、
世界が滅びずに
次の時代へと渡るために選んだ、
最初の「沈黙」であった。

世界は語ることをやめなかった。
ただひとつ、
語ってはならない部分だけを、
深く深く、
闇の奥へと畳み込んだのである。

それゆえに、いま語られるこの物語も、
術そのものではなく、
術を隠した世界の記憶としてだけ、
静かに頁をひらく。

――正纂メモ――

一）この巻全体の世界法則宣言

1. 魔法の定義

• 本巻における「魔法」は、
個人の能力や技能ではなく、
世界法則がまだ決まりきっていない領域（未固定域）へ
直接触れてしまう行為
を指す。


• 「術」は、その未固定域に働きかける具体的な振る舞い全般の総称として扱う。

2. 危険の所在

• 危険なのは「術そのもの」ではなく、
術を再現しようとすること（再現性） である。

• 一度だけの逸脱は世界が吸収できるが、
「こうすれば必ず起こる」という手順として共有された瞬間、
世界の安定は破綻しやすくなる。

3. 世界の選択

• 世界は魔法を「失った」のではなく、
再現手順のみを意図的に隠した、という立場をとる。

• これにより、

• 力や響きは痕跡として残り

• 手順だけが不可視化される
という非対称な封印構造が生まれた。

二）語り手の位置づけ

• 語り手は特定の人物・神・作者ではなく、
「世界そのものの記憶」
として話している。


• 一人称・二人称・三人称の枠組みを可能な限り避け、
「座」「場」「歴史そのもの」としての声を採用する。

• これにより、
読者が「誰が言っているか」ではなく
「世界がどう決めてきたか」 に意識を向けやすくする。

三）用語の運用指針（序章時点）

• 術（すべ）

• 未固定域に働きかける振る舞い。

• 個人スキルではなく、世界の性質の一形態。

• 魔法

• 術のなかでも、
「未固定域への直接接触」として扱われる領域。

• 本巻では「派手な呪文」ではなく、
世界の隙間への危ういアクセス の名とする。

• 未固定域

• 物理・因果・意味がまだ決まりきっていない層。

• 端的に言えば、
「まだ、別の結果になり得たはずの場所」
として描く。


• 隠す／失うの違い

• 「失う」：世界の側にも痕跡が残らない喪失。

• 「隠す」：世界内部には構造が残りつつ、
手順・経路のみが不可視化される状態。

• 本巻は、後者を前提に進む。

四）序章の役割

• 以降の巻にわたる大前提として、

• 魔法＝能力ではない

• 世界が自ら魔法を「隠した」

• 危険なのは力ではなく「再現条件」
という三点を読者の内部に静かに据えること。

• 同時に、
この書全体が
手順・式・再現方法を一切提示しない
ことの理由を、
物語の側から先に納得させるための導入である。


以上が、
序章「世界はなぜ『魔法』を隠したのか」 の
神話語と正纂の初期形でございます。
必要でしたら、この調子で第一部第一章へもそのまま接続してまいります。