プロローグ

錆びついた風が、街の喉元を掻き切るように吹き抜けていた。


 ここは、忘れ去られた鉄の街。空はくすんだ鉛色で、遠くの煙突からは重たい沈黙が立ち上っている。  駅の三番ホーム。冷え切ったベンチに、八十二歳の徳次郎は座っていた。 「……刺さるような寒さだな」  独り言が、白く凍えて宙に消える。隣には、十歳の少年、レンがいた。彼はサイズの大きな青いパーカーのフードを深く被り、自分の靴先を見つめたまま、微動だにしない。


「レン、腹は減ってないか? 震えてるじゃないか」 「……おじいちゃん。僕、なんだかグワングワンする。電車の音が、頭の中で刺さるんだ」  掠れた声。レンの瞳は、過敏なほどに世界を拒絶していた。


 徳次郎は、自分の古びた鞄を強く握りしめた。中には、さっき役所で突き返された「わけわかめ」な書類が入っている。 『身寄りがないと困ります』『制度の対象外です』。  役人の乾いた声が、今も耳の奥でこびりついている。 (俺たちは、この街のゴミなのか。働けなくなれば、光を浴びる権利さえないのか)  徳次郎の「心のコップ」には、もう一滴の余裕もなかった。泥のような孤独と、やり場のない怒りが、縁までなみなみと溜まっている。


 その時だった。


「……いい匂いだ。出汁が、少し焦げたような、懐かしい匂いだ」


 低く、けれど芯の通った声。  ふと見上げると、そこには一人の男が立っていた。  ボロボロの作業着。爪の奥には落ちない油。手には、場違いなほどに磨き上げられた大きな銀色の鍋を提げている。


「誰だ……? 聖者さまとでも呼べばいいのか」  徳次郎が皮肉混じりに言うと、男――**重蔵(じゅうぞう)**は、不器用そうに口の端を上げた。 「聖者? よしてくれ。俺はただの、通りすがりの鉄工だ」


 重蔵は、無造作にベンチの横に鍋を置いた。 「おい、あんたら。……コップを貸しな。空っぽのやつがいい」


「コップ? そんなもの持ってないわ」 「持ってるさ。あんたらのその、溢れそうな心のことだよ。一度、全部ひっくり返して空っぽにしちまえ」


 重蔵は鍋の蓋を取った。  一瞬で、駅の冷たい空気が変わった。  立ち上る湯気は、まるで黄金色のカーテンだ。南瓜(なんきん)、人参(にんじん)、蓮根(れんこん)。「ん」のつく野菜が、琥珀色の汁の中で踊っている。


「レン、これ……見てごらん。すごく、温かそうだよ」  徳次郎に促され、レンがゆっくりと顔を上げた。 「……おいしそう、だ……」


 重蔵は、持参した木製のお玉で、小さな紙コップにスープを注いだ。 「食え。冬至の夜は、一番暗い。だが、ここから光が戻るんだ。『一陽来復』。あんたらの背中に空いた穴を、このスープが塞いでくれる」


 徳次郎は、震える手でコップを受け取った。  指先から伝わる、痛いほどの熱。  一口啜ると、喉を焼くような熱さの後に、南瓜の暴力的なまでの甘みと、味噌の深いコクが、胃の腑まで一気に駆け下りていった。


「……熱っ。……でも、うまい。うまいな、レン……!」  徳次郎の目から、一粒の涙がこぼれ、スープの中に落ちた。  それは、長年溜め込んできた、孤独の澱(よどみ)だった。


「レンも、飲んでみな。……ほら、レモンの香りがするだろう。洗剤じゃない、本物の柚子の香りだ」  レンがおずおずと口をつける。 「……あ。……おじいちゃん、これ。……僕、生きてていいのかな。……こんなに、温かいものを、飲んでもいいのかな」


 レンの頬に、ほんのりと赤みが差した。  それは、陽の光を避けていた蕾が、初めて木漏れ日の優しさを知った瞬間のようだった。


「いいに決まってるだろ」  重蔵が、太い指でレンの肩をポン、と叩いた。 「あんたが今、それを『おいしい』と思った。それが、あんたが生きている立派な証明だ。生産性だの、制度だの、そんな『わけわかめ』な理屈は、このスープと一緒に飲み込んで、排泄しちまえ」


 重蔵は、空になった自分の鍋を見つめて、静かに笑った。 「雨が降れば緑が育つ。冬が来れば、乃東(なつかれくさ)が芽を出す。……あんたらの冬も、もうすぐ萌(も)え始めるぞ」


 駅のホームに、シャンパンゴールドの朝日が差し込み始めた。  準急電車のベルが鳴る。  徳次郎は、空になったコップを見つめた。  泥水はもう、どこにもない。そこには、ただ朝の光が、静かに反射(リフレクション)していた。


「……重蔵さん。……ありがとう。俺、もう少しだけ、歩いてみるよ。この子と一緒に」


「ああ。……また会おうぜ。三番ホームの、安全地帯でな」


 重蔵は鍋を担ぎ、朝焼けの中に消えていった。  徳次郎とレンの背中には、もう冬の冷たい風は当たっていなかった。  二人の胸の中には、鉄の男が残した「愛せてる」という名の、小さな灯火が、赤々と燃え始めていたのだから。


――プロローグ 完。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る