ノーウェア・トゥ・ステイ

赤魂緋鯉

前編

「これじゃ教師と事務員の兼業じゃねえかよ。つか、使い回しすんだからテンプレでとっとけっつの」


 自分以外は誰も残っていない職員室で、20代後半の女性国語高校教師の木野川きのかわ充希みつきは、ノートパソコンをシャットダウンしつつやや大きめの声でぼやいた。


 つい先ほどまで、彼女は翌日に配布する保護者への手紙を各学年分、全て作らされていたせいで時刻は午後8時をとっくに回っていた。


「んで、あのクソババアトリオ覚えとけよ……」


 本来、4人で分担して作業するように頼まれていたが、同僚の教師3人はそれぞれ何かしら理由を付けて木野川に押しつけ、そそくさと3人で外食へ出発してしまっていた。


 こんなこともあろうかと、木野川はその現場を隠し撮りしていて、提出用の共有フォルダに手紙のファイルと共に映像を保存しておいた。


 ちなみに、最終チェックをする教頭は必ず朝一番に来るので、教師3人に消される恐れはない。


 ほくそ笑みつつ、職員室のエアコンを消して戸締まりを確認した木野川は、セキュリティを入れて、庇にあるタイマーで消える照明だけが薄暗く照らす職員玄関を出た。


 カードキーをタッチして、ロックがかかった事を確認した木野川は、深みのあるブルーに塗装された、愛車の国産クーペに乗って帰宅の途についた。


 酒でも買うか……。


 ちょっとムカつきが残っていた木野川は、自宅マンションがある駅周辺のコンビニで、パック入りの鳥軟骨唐揚げと缶チューハイを2本購入し、少し表情をほころばせて退店した。


 帰宅ラッシュのピークが過ぎてやや閑散としつつある、駅前通りの広い歩道を、車を停めたコインパーキングへ向かって歩いていると、


「ん?」


 だが、通りを挟んで反対側の商用ビルの前に、ロングコートで分かりにくいが、勤務している女子校の制服を着た少女が、携帯電話片手に立っている事に気がついた。


 あーあ、こりゃ帰りは日付跨ぎてっぺんごえ確定だな……。


 一応、クラス担当兼生徒指導の担当ではある木野川は、眉間に深いしわを刻みつつ、安全確認をしてから信号がない横断歩道を素早く渡り、茶髪に髪を染めた彼女へ接近する。


「おーい、ちょっといいか?」

「あっ」

「ゲッ。しかもお前かよ嶋本しまもと羽瑠はる


 気配を消して近寄った木野川は、その生徒が、自分の受け持つクラスで制服着用の校則違反常習犯である嶋本羽瑠と気がついて、いよいよゲンナリした様子で顔をしかめた。


「……普通、反応逆じゃないです?」


 先生に見つかった不良染みた木野川の反応に、やや親しげに苦笑いしながらそう言う羽瑠へ、彼女はツカツカと歩み寄り、


「お前、まさかそこまでとはなぁ……」


 目を細めてため息を交え、心底失望した冷たい視線を上から羽瑠に突き刺す。


「まって、みっちー誤解してる」

「あ? しれっと担任をあだ名で呼ぶな」

「そういうのじゃなくて、迎えを待ってるの」

「言い換えても無駄だぞ? 全く、余計な仕事増やしやがって……」

「隠語じゃなくてそのままの意味っ」

「ほう。まだシラを切るか」

「ほらっ、これっ! 普通に友達!」

「あーん?」


 右足に体重を乗せて腕組みする木野川へ、羽瑠は先ほどまで眺めていたメッセージアプリのトーク画面を見せた。


「なになに? 〝ほんとーにごめん、私虫垂炎もうちようで病院だから迎えにいけなくなっちゃった〟?」

「ほら、いかがわ――えっ!?」


 それで木野川の追求を逃れた、と思って、口元にやや引きつった笑みを浮かべていた羽瑠は、ギョッと目を見開きつつ自分の方へ画面を向けた。


 ポコン、と送られてきた謝るスタンプをガン見したまま、羽瑠は口を半開きにして固まってしまった。


「あー、なんだ。疑って悪いな」


 あらぬ疑いをかけた事に木野川は小さく頭を下げて謝り、


「お前んちの最寄り、確かもう最終便行ったぐらいだろ? タクシー代ぐらいは出してやるから、変なのに絡まれない内に帰れよ」


 ほれ、と肩にかけていたバックを探り、財布から5千円を差し出した。


「……あの、えっと」

「あ? あの辺は5千で足りるだろが」

「いやその、――あんまり、帰りたくなくて……」


 凄まじいフリック操作で素早く返事を送って、携帯をスカートのポケットにしまった羽瑠は、目線を下の方に向けて両手を握りつつ嫌そうに言う。


「へ?」

「いやその、お母さんが……、男の人を居候させてるっていうか……」

「カレシくんってやつか」

「そう。で、部屋に鍵は付けてくれてるんだけど……。リビングを通るときに目線がちょっと……」

「分かった。皆まで言うな」


 さらにうつむいて軽く下唇を噛んでいる羽瑠を見て、木野川は右の掌を出して発言を遮り、かったるそうな顔を引っ込めて目線の高さを少しかがんで合わせる。


 羽瑠は父親が蒸発したため母子家庭で育っていて、しっかりした子であるから、という理由で母親からは本当に最低限度しか世話をされていなかった。


 ここでするような話じゃねえから、と、とりあえず羽瑠を自分の車まで連れて行って助手席に座らせた。


「お前さっきのアレ、ちゃんとお母様に言ってるか?」

「言ってない」

「言えよ」

「……だってお母さん、その人といると幸せそうでね……」

「ばーか。お前の気持ちの方が大事だろうがよ」


 太ももの上辺りで拳を握って、不自然に笑みを交えて言う羽瑠に、木野川はその額へデコピンしつつ心配そうに眉を寄せて言う。


「心配してくれるんだ。水商売? とか勤めだし、まともに対応したら面倒くさい家庭なのに」

「そりゃ担任だからな。あたしの胃が痛くなるぐらいで、生徒が不幸になるのを防げるなら安いもんだ。あと、冷笑クズになる前に職に上も下もねえってのは学んどけよ」

「なんかすごい真面目な教師みたいなこと言ってる……」

「ケンカ売ってんのかお前は」


 頼りがいのある笑みを浮かべていた木野川は、口元を両手で隠した羽瑠から目をパチクリさせつつそう言われ、一気にムスッとした顔になった。


「まあとりあえず保護したっつう事で、親御さんには言うからな」

「どうだろ、携帯出られるかな」


 じゃあまあ職場にかけるか、と木野川は羽瑠の母が勤めているクラブに電話をかけ、取り次いで貰い、諸々説明したはいいが、


「――いやちょっとそれは……。って、切りやがった」

「なんて言ってた?」

「すぐに対応できないんで、とりあえずあたしに2、3日預かれってよ」

「いいの、それ? その、法律とか」

「略取云々か? お前の母ちゃんが警察に訴え出なきゃ、まあグレーだな」

「そうなんだ」

「つったっていくらなんでもヤベえだろ。教師だから安全とか言ってたが、いかがわしい事やってたりもあんだぞ。お前の母ちゃんの思考回路どうなってんだよ……」


 声の調子からして地に足が着いていなさそうな、羽瑠の母の物言いを思い出し、木野川は頭が痛そうに眉間を指で押さえた。


「まあ、考えが甘い人ではあるにはあるかな……」


 あんまり後先考えない行動をとられて、何度も迷惑を被っている羽瑠は、なんとも言いがたい引きつった笑みを浮かべていた。


「もうしゃーねえ。今日のところはウチに泊めてやる」

「えっ」

「安心しろ。あたしはファミリー向けに一人暮らしだ」

「それはありがたいんだけど……」

「寝る部屋と仕事場とリビングを分けてえんだよ。なんか文句あっか」

「あ、そういうこと」


 不審者でも見かけた様な顔をされた木野川は、ムスッとした顔でやや荒っぽく説明した。

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