天国はどこにある?【一話完結】
望月 彩生
第1話
橋の下のねぐらに戻ると、男の家は無残に破壊されていた。
段ボールで作った壁は引きちぎられ、柱にしていた木の枝は折られ、雨避けのシートは引き裂かれて泥まみれになっていた。中にあったわずかな荷物――毛布や、ビニール袋に入れた着替え、食器や鍋などの生活用品――も、散乱していた。
「あ、いたぞ!」
声がした。
振り向くと、中学生が五人、棍棒を手に立っていた。
木の棒や、金属バットを手にしているのは、制服を着た普通の少年たちだった。
「汚ねえ浮浪者が! ここはお前の場所じゃねえんだよ」
一人が吐き捨てるように言った。
「成敗してやる!」
男は何も言わなかった。逃げもしなかった。
ただ、壊された家を見つめていた。
それが少年たちの癇に障った。
「無視してんじゃねえよ!」
最初の一撃が腹に入った。
息が詰まる。膝をついた。
蹴りが背中に、脇腹に、次々と叩き込まれる。顔を殴られた。地面に倒れた。
「気持ち悪いんだよ、お前!」
「いつも、ゴミ漁りやがって!」
「おまえがいると、この町が汚れんだよ!」
蹴られ続けて、息ができない。
気が遠くなる。
次の瞬間、棍棒が頭に振り下ろされた。
ガツンという手応えに、棍棒を持った少年の手が止まった。
その気配に他の少年の動きも止まった。
少年たちの目の前に、頭や口から血を流している男がいた。
「やべえ!」
「これ、死ぬんじゃねえか・・・・・・」
「逃げろ!」
少年たちの足音が遠ざかっていく。
不思議と痛みはなかった。
男は冷たい地面に横たわったまま、動かなかった。
ああ。
これで終わるのか・・・・・・。
記憶が、断片のように浮かんでは消える。
時間も、順序も、もうよく分からない。
***
人生最初の記憶は恐怖。
父の怒鳴り声、母が殴られる音、泣き声、幼い自分は押し入れの中で震えていた。
五歳の時、母が僕を連れて逃げた。夜中だった。
「大丈夫よ。もう大丈夫」
母は何度もそう言った。
教会が運営するシェルターに辿り着いた。
でも、母はすでに病に侵されていて、数か月後、血を吐いて死んだ。
葬儀の翌日。
シスターがやってきて、身の回り品を整理しながら言った。
「どんなに辛いことがあっても、人を恨んではいけませんよ」
六歳になったばかりの僕は、小さく頷いた。
「神様はちゃんと見ておられますからね。良い子で頑張っていれば、いつかは必ず、幸せにしてくださいます」
いつか必ず、幸せになれる。
頑張れば、幸せになれる。
その言葉が、呪文のように僕の心の中に残った。
***
養護施設は寒かった。
古い建物で、冬は隙間風が入った。職員は最低限のことしかしなかった。
入所した僕はおとなしかった。
気弱な僕は、いつも誰かに命令された。
「これ、持っていって」
「あれ、やっといて」
「このペン、俺にくれよ」
断れなかった。断ったら、もっと酷い目にあう。
食事のパンを取られても、黙っていた。
お腹は空いた。けれど、我慢した。
恨んではいけない。
神様は見ている。
我慢すれば、いつか、きっと幸せになれる。
***
意地悪な子ばかりの施設の中で、彼女だけは違った。
二つ年上の女の子。いつも明るく、誰にでも優しかった。施設の中で、太陽みたいな存在だった。
ある日、パンを取られた僕の前に、彼女が座った。
「はい、これ」
自分のパンを半分、差し出してくれた。
「いいの?」
「うん。私、もうお腹いっぱいだから」
優しい嘘。これしかないのにお腹いっぱいなわけがない。
「ありがとう」
そう言うと、彼女は微笑んだ。その笑顔はとても眩しかった。
彼女が施設を出る日が来た。
子どものいない裕福な夫婦が、彼女を養女に迎えるという。
みんなで見送った。新しい服を着た彼女は、別人のように輝いていた。
「またね! 元気でね!」
手を振る彼女に、僕も手を振った。
彼女の人生は、きっと幸せだ。
そう思った。そう思えた。
誰にでも優しい良い子だったから。
神様は、ちゃんと見ているんだね。
僕も頑張ろう。
***
なぜか僕には友達ができなかった。
学校に通うようになると、学校でも虐められた。
「捨てられっ子」
そう呼ばれた。
靴を隠された。教科書に落書きされた。上履きを便器に突っ込まれた。
それでも、耐えた。
やり返さなかったし、言い返すこともしなかった。
恨んではいけない。
堪えるんだ。
そうしていれば、いつか、きっと幸せになれる。
***
十八歳で施設を出た。
小さな町工場に就職した。住み込みで働かせてもらえることになった。
真面目に働いた。丁寧に仕事をした。遅刻は一度もしなかった。言われたことは必ずやった。
社長は「お前は真面目だな」と言ってくれた。
でも、他の従業員とは、なぜか距離があった。
入社時の歓迎会。それが最初で最後だった。忘年会も新年会も、一度も誘われなかった。
休憩時間、みんなは固まって話している。僕はいつも一人ぼっち。
何か悪いことをしただろうか。
分からなかった。
***
三年が過ぎ、五年が過ぎた。
後輩たちに仕事を教える立場になった。
できるだけ親切に教えたのに、後輩たちは、他の先輩の所に行く。
なぜだろう。
ある日、養護施設で一緒だった男が訪ねてきた。
「久しぶり! 元気そうだな!」
親しかったわけではないが、いじめられたわけでもない。
寂しかった僕は、訪ねてくれたことが、とても嬉しかった。
「店を出すんだ。ラーメン屋。ずっと夢だったんだよ」
目を輝かせて語る彼の話は、楽しかった。
「それで、お願いがあるんだけど――」
保証人になってほしいという。
「銀行から一千万借りるんだ。保証人が必要で」
「一千万?」
「大丈夫だよ。他にも何人か連帯してもらうから。それに、俺、絶対成功させるから」
僕は躊躇した。
「友達だろ?」
彼は僕の肩を叩いた。
「俺たちは家族みたいなもんじゃないか。施設で一緒に育った仲間だろ」
家族。仲間。
その言葉が、胸に突き刺さった。
「――分かった」
僕はサインした。
半年後。
封書が届いた。貸金の返済を求める督促状だった。
電話をかけた。相手は闇金だった。
「これあんたのサインだろ。本人と連絡取れないんだから、あんたが払ってくれ」
月々の支払いは利息だけでも三十万円。
僕の給料ではとても払えない。
貯金を全て下ろした。払えるだけ払ったが滞納の利息分にしかならなかった。
コンビニで夜中のバイトを始めた。工場が終わってから、深夜遅くまで働いた。
休日も働いた。引っ越しのバイト、建設現場の日雇い、何でもした。
毎日の睡眠時間は、二、三時間。
体が悲鳴を上げた。
バイトで、お寺に荷物を運び入れていた時、くらっとして、その場にくずおれた。
お寺の奥さんらしき人が、駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか! 救急車呼びましょうか」
「いえ、大丈夫です・・・・・・」
僕は慌てて、止めた。
僕には、病院に払えるお金がない。
「少し貧血で・・・・・・すぐに良くなります・・・・・・少しだけ、休ませてください」
奥さんらしき人は、「ちょっと待ってね」と言って、家の中に入っていった。
年配の、穏やかな顔をした住職が出てきた。
「そこは冷えます。中で休みなさい」
住職に支えられながら、僕は応接間に案内された。
ソファに横になると、毛布をかけてくれた。
「少し寝なさい」
その優しさに、涙が出た。
大人になって初めてだった。
人から親切にされたのは。
目が覚めると、辺りは暗くなっていた。
何時間眠ったのだろう。
気配に気づいた住職が、部屋に入ってきた。
「起きましたか。夕食を用意したので、食べて行きなさい」
温かいご飯に味噌汁、煮物。
手を合わせて、食べた。
涙が止まらなかった。
「食べたら、少し話をしましょう」
住職はそう言った。
すべてを話した。
母のこと、施設のこと、いつも我慢してきたこと、友達が一人もいないこと、保証人のこと、借金のこと。
住職は黙って聞いてくれた。
「苦労されましたね」
そう言って、住職は慈愛に満ちた目で僕を見つめた。
「まずは借金を何とかしなければなりませんね。その金利は違法ですから」
住職は、少し考えていた。
「檀家の中にその手のことに詳しい弁護士がいます。明日、紹介しましょう。顔の広い人なので解決策を考えてくれると思います」
「いいのですか」
「うまく解決するかは分かりませんが、相談してみましょう」
僕は救われた気分になった。
***
弁護士先生のおかげで、借金は正規の金融機関に借り換えることができた。
金利は大幅に下がり、返済の目処も立った。
バイトも無理のない程度に減らし、眠れるようになった。
ああ、神様はやっぱりいたのだな。
僕は安堵した。
お礼にお寺を訪れた時、掲示板に貼られた『徳を積む』という言葉が目に入った。
「これは、どういう意味ですか?」
「それは――善い行いを重ねれば、善い結果が生まれるということです。――逆に、悪い行いをすれば、悪い結果が生まれます」
住職は少し間を置いて、続けた。
「その結果は今世で現れるかもしれないし、来世で現れるかもしれない。もっと先かもしれない。けれども、いつかは巡り巡って、必ず還ってきます」
「来世――」 考えたこともなかった。
「種を蒔くようなものです。今蒔いた種は、すぐには芽を出さない。でも、いつか必ず、花を咲かせます。――ただし、前世で土壌を荒らしてしまっていたら、これは時間がかかります。悪い行いも、すべては巡り巡って還ってくるのです」
巡り巡って、還ってくる・・・・・・その言葉が、僕の心に響いた。
今の僕は過去の結果なのだろうか・・・・・・
今は辛くても、徳を積み続ければ、いつかこの苦しみから抜け出せるのだろうか。
今世で報われなくても、来世で。
僕はボランティアにも参加するようになった。
休日は福祉施設で清掃を手伝った。募金があれば、わずかでも寄付した。
できる限りのことをした。
誰かのために。
自分のために。
僕は善行を意識するようになった。
***
それから二年が過ぎた。
ある日、出先から工場に戻ると、重苦しい雰囲気が漂っていた。
そして、僕を見るみんなの目が、冷たかった。
「社長が呼んでる。すぐに社長室に行け」
社長室に入ると、社長と専務が険しい顔で座っていた。
「お客さんから預かった金を、お前、どこにやった」
「え?」
「とぼけるな。四十七万円だ」
「いったい何のことですか?」
僕は預かったお金を着服したと思われていた。
必死に否定したが無駄だった。
「この仕事を担当していたのはおまえだろ! やれるのは、お前しかいないんだよ」
「お前、借金を抱えてるんだろう。――みんな言ってるぞ。お前しかやる奴はいないって」
「違います。本当に、僕は」
「強情な奴だな。――長年のよしみで、四十七万を返すなら、今回は見逃してやると言ってるんだ。さっさと返して、今すぐ出て行け!」
「ほんとに僕じゃない! ちゃんと調べてください!」
「調べた! お前以外にありえない」
何を言っても聞く耳を持ってもらえなかった。
今月の給料は没収、給料で賄いきれない残金は無理やり支払わされた。
しかも、クビを理由に、退職金は一銭も、もらえなかった。
なぜか、盗みの噂は町中に広がっていた。
バイト先から、信用できないから辞めてくれと言われた。
次の仕事を探すも、どこも雇ってくれなかった。
働き口が見つからない。
だが、借金の返済は待ってくれない。
日雇いのバイトで稼いだ金も、すぐに返済に消えた。
家賃も払えなくなった。
大家に頭を下げたが、出て行けと言われた。
借金を抱えたまま、住む場所もなく、仕事も見つからない。
住職の顔が浮かんだが、これ以上の迷惑はかけられない。
僕は最小限の荷物を持って、夜逃げした。
行く当てはなかった。
***
知らない町に行き、日雇いの仕事で食いつないだ。
建設現場。倉庫の荷物運び。ゴミ処理場。
どれも一日限りの仕事。
夜は河原で寝た。
段ボールで家を作った。
雨を凌げるように、橋の下に。
木の枝を柱にして、拾ってきたシートを屋根にした。
それでも、徳を積む努力は続けた。
自分にできる善行は少ないが、道路や河原のゴミぐらいは拾える。
誰かのために、何かをしなくては、この地獄からは抜け出せない。
いつものように町に出てゴミを拾っていると、風に飛ばされたチラシが街路樹に引っかかっていた。
背伸びして取ると、見覚えのある女性がバイオリンを弾いている写真が載っていた。
その女性は養護施設にいた少女によく似ていた。
下の名前を見ると、少女の名前だった。
彼女は、いつの間にか、世界に羽ばたいていた。
輝いている彼女の写真から、僕は目を離せなかった。
ゴミ袋を横に置いて、チラシを見つめ続ける僕。その横を、避けるように人が通り過ぎて行った。
***
何年経っただろう。
寒さが身に堪えるようになった。
日雇いの仕事も、体力的にきつくなった。
疲れた体を引きずりながら、橋の下のねぐらに戻ってきた僕の目に、信じられない光景が飛び込んで来た。
破壊された段ボールの家。散乱した荷物。
制服を着た少年が五人、棍棒を手に立っていた。
「汚ねえ浮浪者が」
そう言いながら近寄って来た少年の最初の蹴りが腹に入った。
次の蹴りが背中に。
何度も、蹴られ、殴られた。
「気持ち悪いんだよ!」
「ゴミ漁りやがって!」
棍棒が振り下ろされた。
頭に当たった。
ガツンと、嫌な音がした。
「やべえ!」
「死ぬんじゃねえか・・・・・・」
「逃げろ!」
足音が遠ざかる。
僕は冷たい地面に倒れたまま、動けなかった。
このまま、死ぬのかな・・・・・・。
意識が遠のいていく。
走馬灯の中に、奇妙な映像が混じる。
知らない顔。
知らない場所。
「頼む、返してくれ」
泣きながら懇願する男の顔。
「家族が・・・・・・主人が死んでしまう」
僕にすがりついて、泣き叫ぶ老女。
「お前のせいで、お前のせいで」
怒りで身を震わせる男。
みんなが僕に憎しみの目を向けている。
だけど、僕は、この人達を知らない。
いったい――誰の記憶?
思い出せない。
いや、思い出したくない。
「因果応報」
誰かの声が聞こえた。
住職だろうか。
いや、もっと遠い昔のような・・・・・・
自分の人生が、走馬灯のように流れていく。
シスターの顔が浮かんだ。
最期まで、人を恨まなかったよ。
僕は、天国に行けるかな・・・・・・
住職の顔が浮かんだ。
僕は、徳を積めただろうか・・・・・・
来世は――
一筋の涙が、頬を流れた。
***
暗闇。
そして、光。
「オギャー!」
小さな命の誕生。
元気な泣き声が、産院に響いた。
「元気な男の子ですよ」
明るい声、温かい手、清潔な白い部屋。
枕元に寝かされた赤ちゃんを見つめながら、母親は優しく赤ちゃんに話しかけた。
「ママと二人だけど、頑張って幸せになろうね」
バイオリンの音色が聞こえてきた。
廊下に貼られたポスター。『慈善コンサート 小児病棟にて』
世界的に有名なバイオリニスト。
そのポスターを見て、看護師が言った。
「素敵な方ですよね。この方、昔は養護施設にいらしたんですって」
「まあ、そうなの」
「今は恵まれない子ども達のための活動もされているそうですよ。本当に立派な方」
美しい音色が、すべての命を優しく包み込んでいく。
バイオリンを奏でる女性の姿は、太陽のように輝いていた。
ミニコンサートの見学者の中に住職の姿があった。
彼女のことは、檀家の家に養女に入った頃から知っている。
誰からも好かれる彼女の人生は明るく優しさに満ちていた。
そんな彼女を見ていて、真逆のような人生を歩んでいる男の顔が浮かんだ。
重い業を背負った男。
『蒔いた種は、いつか芽吹く』という言葉にすがった男。
『徳を積む』の言葉に、天国を思い浮かべた男。
天国とは何か、天国はどこにあるのか――彼は気づいただろうか――
美しいバイオリンの音色を聴きながら、住職は願った。
どれほど険しい道であろうと、彼が正しい道を歩き続けることを。
そうすれば、いつかきっと・・・・・・
天国はどこにある?【一話完結】 望月 彩生 @Ayase-Mochizuki3
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