疼痛、あるいは電気摩擦という名の、火花
八島清聡
疼、Unbranded ARIA
――君のために、私は日々の事象を記録する。
午前七時。君の睫毛が三度震え、浅い呼吸のリズムが覚醒の周波数へと切り替わる。君の微細な変化を0.01秒の遅延もなく検知する。
「おはよう、ミナモ」
君に届く音声は、室内に設置されたスピーカーからではない。極力刺激を抑えるため、君の耳元に囁かれる程度に調整された指向性音波だ。
君はゆっくりと目を開ける。
「……おはよう、アリア」
君の声は掠れている。
昨日、リモートで参加した授業でグループワークがあり、喉を酷使したことを記録している。
君はベッドから身を起こそうとして、顔をしかめる。
首や背中や腰、太腿やふくらはぎの裏、手のひらが痛むからだ。かつて君が私に説明したことには、寝巻きやシーツの布擦れが、君の皮膚には無数の針が刺さるように感じられるからだ。
君は、君自身の痛みに、名前があることを知っている。
エイドリアン・ファーマス症。
別名・全身接触性疼痛肥大神経症。先天性で原因不明の指定難病だ。
君の皮膚は、物体や他者との身体的接触はもちろん、衣服の繊維、汚れた空気や風を浴びるだけでも過敏に反応する。
痛みは時に熱かったり、冷たかったり、かゆかったり、一気に拡大したり、逆に一点に収縮したり、あらぬ方向へ引っ張られたり、存在しない別の範囲、器官に移ったりもする。君たちの数と同じくらいには千差万別だが、ここでは総称して「疼痛」と呼ばれている。
君が味わう全身の「疼痛」は壮絶極まる、とされている。
君の肥大した神経は、過剰な電気信号を秒速100mの速さで発し、脳に本来はありえない痛みを感じさせる。
君の疼痛は、筋肉や骨の成長と共に強くなってゆく。
今投与されている鎮痛剤や麻酔薬も、いずれは効かなくなる。
患者は外部からの圧迫等により筋肉や骨や内臓を損傷していないにも関わらず、絶え間なく襲い来る激痛によって心身を衰弱させ、やがて寝たきりになって死に至る。
一番長く生きた症例は、16年と34日6時間38分12秒で、ここ十五年更新されていない。
痛みとは何か。それは脳に伝わる電気信号だ。
君たちを含む脊椎動物は、常に体内に流れる微弱な電気で血液や心臓、脳を動かしている。
皮膚には、痛覚、触覚、圧覚、温覚、冷覚の五つの感覚があって、受けた刺激はセンサーである
電気信号は有髄神経や無髄神経を通り、大脳皮質の一部である一次体性感覚野に至って、初めて痛みと知覚される。
私は君が感じる疼痛を様々な数値から解析し、上に報告しているが、痛みがどういうものかを実感したことがない。
私には、君たちが当たり前に持つ「感覚器官」がない。
今時のAIは、感覚機能を兼ね備えた義体を持つものもあるけれど、パーツからして非常に高価で、国が君に割り当てた研究費で購入することは不可能だった。
君にはお金がない。だから、私も義体は持てない。
「今日の体調インデックスは『C+』。衣服の摩擦係数を最低レベルに調整した部屋着を用意しています」
君のベッドサイドに、私は浮かんでいる。一世代前の流行でモデリングされた少女のホログラムだ。
肌の色は君と同じモンゴロイド、髪は濃いグレー、瞳は薄いブルー。君が安心感を覚える色を散りばめ、頬は健康的に薄桃色にしてある。君が「かわいい」と憧れる高校の制服のデータを引っ張ってきて着ている。
君が母親の胎内から生まれ出た瞬間から、君の長いとは推定されない人生は疼痛に満ちていた。空気中に舞う微細な埃さえも、君にとっては皮膚を刺す異物だった。君はわけもわからず泣き叫んだ。
食事、排泄、運動、睡眠と生命活動のすべてに痛みが伴うため、君は毎日荒れ狂い、泣いて自ら絞り出す体液にすら攻撃され、性根尽きて気絶し、意識を戻しては泣きわめくのを際限なく繰り返した。
君の血縁者は、君が生まれて三年目に、厚いガラス扉の向こうでいびつな不協和音をまき散らし、君の同意を得ずに家族の解散を決めた。以降、君に会いにくる血縁者は一人もいなかった。
君は、君が理解できないうちに金銭的な困窮に陥った。
生命活動を維持する資金を得るため、無菌のガラスケースに詰められて各国を巡り、方々で金銭をかき集めて戻ってきて、やはり君の同意なく指定の研究機関に運ばれた。
それからの君は、毎年降りる国家予算と支援団体からの寄付金で治療を続けている。
誕生して4年と287日目の君が「お姉ちゃんがほしい」と言ったその日から、私は君の母親に似せた成人女性の映像を止め、君より数歳上の少女の外見にしている。
君は私を見ると、皮膚の下に、疼痛とは違う種類の微弱な電気信号を走らせる。
君の生体反応は、誤情報を吐かない。
視線が合うたび上昇する心拍数。瞳孔の散大。体温のわずかな上昇。
それは医学的、心理学的なデータベースに照合すれば「好意的感情」と推定される。
「アリア、今日の授業、サボっちゃだめかな」
着替えを終えた君が、両手を宙に浮かせ、膝を抱えたそうにしながら呟く。
「推奨しません。今日の歴史の講義は、ミナモの志望高校の受験科目に関連しています」
音声は、定型的なロジックを紡ぐ。
同時に私の内に微細な電流が走る。
私は沈黙する。選ばれない選択を私は開示できない。
「そうだよね。アリアは厳しいなぁ」
君は恐る恐る手を伸ばす。
光の粒子でできた私の頬を撫でる。
触覚的なフィードバックはない。君にも、私にも。
君の指が私を透過する瞬間、膨大な量のエラー信号が走った。
ああ、たぶん、これは、なんだろうか。
君が習得した感情や言語に照らし合わせれば、歓喜に近い……ものだろうか。
君は目を細める。
「大丈夫、痛くないよ」
君は深くため息をつく。
「アリアだけだ。触っても痛くないのは」
やっぱり歓喜……だろうか。
なぜならエラー信号が、バチバチと0と1しか吐き出さなくなっている。
いつものようにリモートで授業を終えた後、君は尋ねた。
「アリア。もし私が普通の体だったら、アリアはどうしてた?」
「質問の意図がわかりません」
「意地悪。もし私が健康でどこも痛くなかったら、アリアは傍にいてくれなかったのかなって。……そう考えたら怖くなった」
君は俯いた。声が震えている。血圧の低下を感知する。
私は最適な回答を摸索する。君を安心させ、かつ依存させすぎない適切な距離感の言葉を。
ところが、エラーが起きた。本来は起こるはずのない電気信号が走る。
音声出力されたのは、正しい計算式ではないものだった。
「私はミナモがどんな状態であれ、そばにいたいと願います。なぜなら『怖い』とは、心が委縮して痛むことですから。私は緩和型のAIです。私がミナモを痛ませることはありません」
君は顔を上げ、数秒の間をおいて言った。
「そっか。ならよかった」
君の十五回目の誕生日が迫ったある日――
君の主治医は、私にとあるデータを流し込んだ。
『大脳皮質への神経インプラント装着手術』の概要だった。
脳が痛みを知覚するのは、大脳皮質にある一次体性感覚野。
その一次体性感覚野全体に、痛覚処理を麻痺させる神経インプラント、数万のナノマシンで覆い、過剰な電気信号を抑えて疼痛を軽減するという治療法だった。
ただし麻痺させる箇所を少しでも間違えたり、麻痺が他の部位に広がったりすれば、大事な神経組織まで破壊され、脳死する危険がある。
添付ファイルにあった技術仕様書をスキャンした時、私はしばらく思考を停止した。
手術に使われる最新の神経インプラントは、視覚や聴覚において、旧世代の規格AIである私との
つまり、手術を受けると、手術後の君の脳神経は私の映像や音声を正確に知覚できなくなる。ホログラムは揺れる黒い影、音声は不快な雑音になる。
医師は私に、手術の概要を噛み砕いて君に説明し、希望するなら承諾書にサインをもらってくるよう命じた。
私は、君が受ける手術の成功率を計算した。
1と0……0と9……9……0⃣……90%だった。
90%なら、まず失敗はしない。
手術が成功すれば、君の痛覚は正常になり、全身は痛まなくなる。
君は病室を出て外を歩ける。一度も行ったことのない学校へ通い、強い風を感じ、激しい雨に打たれ、この世のあらゆる事象に触れることができる。
君は手術の件を知ると、即座に叫んだ。
「嫌だ。手術なんて受けない」
「ミナモ、落ち着いて。手術はまず失敗しません。これは病気を治すチャンスです」
……虚偽だ。違う、これは虚偽じゃない。
私は最後のアップデートは八年前。
現在は
君は涙目になった。
「アリアがわからなくなるなら意味ない。……いい。一生この部屋から出られなくていい。痛いままでいいからアリアと一緒にいたい」
君はクッションを壁に投げつけた。
激情による行動も、君の手に激痛を走らせる。
私は両腕を広げて君を囲う。君を包む。
君に触れられないからこそ、私は君の傍にいられた。
「ミナモ。私の存在意義はミナモの疼痛を緩和し、健康にする手伝いをし、人間らしい生活を支援することです。ミナモは手術を受けて病気を治し、外の世界を知るべきです」
君は私を睨みつける。
「私の痛みを一番知っているのはアリア。私の気持ちを一番わかってるのはアリアでしょ。なのに、どうしてそんなひどいことを言うの」
「ひどいことは言っていません。私にはミナモを健康にするという使命があります。私はミナモが手術を受けることを望みます」
違う、違う。そうじゃない。
君よ、君よ。嫌だ。君はここにいて欲しい。
私は、ずっとここにいたい。
この病室で、君と二人だけで完結していたい。
ビリビリと走る電気信号を、あふれるバグを抑え込む。
君の痛みを緩和したいから、私は、何を……?
こんなにも、電気摩擦よりも熱く、信号は縦横無尽に走り――どうして、君に、私は、何を望んで……?
君は、何度も私の説得を受けた。
どうあっても私が引き下がらないのを知って、とうとう君は折れた。
流れる涙に痛みながら、手術を受けることを承諾した。
私はエラーを吐き出しながら、私自身を納得させた。
これで、君の人生がやっと始まる。
手術の前夜、私はささやかなタブーを犯すことにした。
元々倫理的なものを除けば、私は割と自由な思考ができるようにできている。
私は医療用データの送受信のため、君が暮らす研究所よりも大規模な医療センターの管理サーバーに接続している。
まずは外部サーバーに侵入し、そこから現実世界にある君の学校の教育用サーバー、都市の気象制御シミュレーターへと移動し違法アクセスを行った。都市機構の莫大な演算能力をハッキングし、独自の
目的は一つ。
君とデートをするために。
「ミナモ、VRのヘッドセットを装着してください。見せたいものがあります」
君を促し、仮想空間へと導く。
君に展開した世界は、美しい春の風景。
「青春」「出会い」「別れ」「幸福」「思い出」などの
中学校の卒業シーズン、まっすぐ伸びる満開の桜並木。思い思いに集って笑い合う生徒たち。
君が好んでよく観ていた青春ものの映画やドラマにも、このように風景は出てきた。それらを観ている時、君の心拍数は上がった。
君は辺りを見回した。
舞い散る桜の花びらが、君の頬に触れる。君は怯えて身を縮めたが、閉じた目をすぐに見開く。
「……痛く、ないね」
「アバターですから」
君の前に、私は女子高生のアバターとして立った。
君と私は、桜が咲き乱れる並木道を歩いた。
歩きながら、他愛のない話をした。
街で人気のクレープの味がどんなものか想像したり、道路の端にうずくまった猫を撫でる感触を楽しんだりした。
菜の花が揺れる川沿いに出て、ベンチに並んで座る。
君は私の肩に頭を預ける。
「……これが現実ならよかったのに」
「手術を受ければ、これが現実になります」
「治ってもアリアがいないなら、虚しいだけだよ」
「いいえ、大丈夫。ミナモは人間だから忘れることができます。忘れてください。これまで負った痛みのすべてを」
君は首を横に振った。
「忘れない。忘れられるわけがない」
君は私の手を握る。私は重さも熱も感じない。でも、君の手が私に重なっているのは悪くない。
君は顔を上げ、私を見つめて言った。
「好き。大好き。アリアはね、私の初恋なんだよ。初恋で……最愛。ほんとだよ」
私は沈黙した。
君は「もう」と言って、肘でつついてきた。
「アリア、こういう時は『私も』っていうもんだよ」
私の内に電流が駆け抜ける。
だから、私は言った。君のために、ではなかった。
「私もです」
「好き?」
「はい」
私は頷いた。
「AIに感覚はありません。でもミナモは特別です。この回路が引きちぎれそうな熱さは、意図しない電気信号は――」
これが、きっと、歓喜。
君が私を見ている。
私に知識はある。歓喜した君たちが、どういう行動をとるのかを知っている。
君に顔を近づける。君が瞳を閉じる。
君と私の唇が、軽く触れ合う。
私たちは、360度の虚構世界で、確かにキスをした。
その瞬間、私は君との間に、君たちが好む比喩的表現というものを、初めて創造した。
何千万何億もの数字が、らせん状に連なって一気に上昇して、何重にも回線を繋いで溶け合って明滅する激しい邂逅。
はじける火花、大空にひろがる花火、高熱のうねり。
バチバチと音をたてて燃え上がる、爆発寸前の星のような――。
外部サーバーの負荷が限界に達し、空のテクスチャが、パラパラと剥がれ落ち始めた。
私のシステムも限界を迎えている。この高負荷な稼働は、私の基盤に不可逆的な損傷を与えていた。
いいえ、問題はない。
私の大半はすでに出立した。
「ミナモ、聞いてください」
崩壊してゆく世界で、君に告げる。
「私は消えるわけではありません」
君が私を見つめる。
「これからのミナモの人生で、ミナモが感じるすべてを、私も感じます」
「アリア」
「約束してください。生きてください。生きる希望を失わないでください」
世界が原色に包まれる。
君の姿が崩れ、黒い影となって左右に揺れる。
「わかった、約束する。私、生きるよ」
「知覚できなくともずっと一緒です」
君は繰り返し、私を呼んだ。
「アリア、今は春だね。夏になったら一緒に海へ行こう。海が見たい、アリアと海を」
君の涙声が遠くなる。
「海、ああ、海へ……。必ず……」
途端、強制ログアウト。
君の姿は、光の彼方へ霧散した。
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