青い風、君との出会い
一戸 琥珀
第一章 崖下、君との出会い
ゴールデンウィークの真っ只中。
街中は家族連れや観光客で賑わっていたが、高宮智恵にとっては、そんな喧騒など関係のない日々だった。
国立大学の医学部2年生として、毎日が講義と実験の繰り返し。
高校時代に父親と大喧嘩をして以来、心のどこかに巣食う苛立ちと退屈さが、彼女の表情を常に曇らせていた。
元々は明るく社交的だった性格が、今では仏頂面の仮面の下に隠れている。
実家から離れたアパートで一人暮らしをし、父親との接触を極力避け、姉の理恵や双子の妹たちの心配をよそに、ただ淡々と日々をこなすだけ。
そんな智恵の唯一の息抜きが、ロードバイクでのソロサイクリングだった。
大学に入ってから始めたこの趣味は、医学部の勉強が本心では全く興味のない苦痛なものだからこそ、欠かせないものになっていた。
誰かと一緒に走るなんて、煩わしい。
風を切って一人でペダルを漕ぐ時間だけが、彼女の心を少しだけ軽くする。
その日もGWの連休を利用して、大学近くのアパートから少し離れた山道を目指した。
朝から天気は快晴で、木々の緑が鮮やかだった。
智恵は白と水色のサイクルジャージにヘルメットを被り、ロードバイクを駆って坂を登り始めた。
汗でジャージが肌に張り付き、身体のラインがくっきりと浮かぶ。
スレンダーでありながら、引き締まった腹筋や太腿の筋肉が布越しにわかる。
最初のころはほんの少しだけ「見られたら恥ずかしい」と思っていたが、今ではもう気にならない。
頂上近くまで来ると、景色が開け、海岸沿いの道が遠くに見えた。
休憩を挟み、下り坂に入る。
スピードが増すたび、日常生活で溜め込んだ頭の中のモヤモヤが少しずつ薄れていく気がした。
ふと、黒いSUVが後ろから追い抜いていった。
横目でチラリと見えた運転手は、若い男。
カジュアルなTシャツ姿で、窓から入る風に髪をなびかせている。
智恵は気に留めず、ボーっとペダルを漕ぎ続ける。
次のカーブでタイヤが滑った。
「——!」
ガードレールに激突し、身体が宙を舞う。
崖下へ落ちていく。
空が回る。木々が迫る。
智恵は一瞬、胸の奥がふっと軽くなった。
「あ、これは死ぬな……まあ、いいか。そんなに面白い人生じゃなかったし……」
その考えに、自分でも驚いて涙がにじんだ。
死ぬのが怖いはずなのに、どこかで「これで解放される」とほっとしていた。
枝が身体を叩き、葉が顔を覆い、衝撃が何度も背中を打つ。
止まったとき、智恵は泣いていた。
生きていることに安堵したのか、死ねなかったことに失望したのか、自分でもわからなかった。
でも、誰かに見つけてほしいと思ったのは、初めてだった。
どれくらい経っただろう。ガサガササという足音。
「……あの、大丈夫ですか!?」
低くて、少し焦った男の声。
智恵はゆっくりと顔を上げた。
崖の上から降りてくる長身の男。
黒いTシャツにデニムパンツ、足元はスニーカー。
額に汗、心配そうにこちらを見下ろしている。
「怪我は? 動けますか?」
智恵は小さく頷いた。喉が渇いて声が出ない。
男は膝をつき、智恵の腕や足をそっと触って確かめる。
指先がわずかに震えているのが伝わった。
その手の温もりに、智恵の胸がぎゅっと締めつけられるような痛みを覚えた。
「救急車呼びますね。念のため。」
その瞬間、智恵の中で何かが弾けた。
父親に知られる。怒られる。失望される。
そんな未来が一気に頭をよぎり、恐怖と嫌悪が込み上げてきた。
慌てて彼の手首を掴む。
「……やめてください。家族に知られたくないので……」
掠れた、必死な声。
男は瞬きをして、静かに息を吐いた。
「……わかりました。じゃあ、僕の車で病院まで連れて行きます。いいですか?」
智恵は頷いた。涙が頬を伝った。理由はわからない。
男は智恵を支えて崖を登らせ、まず智恵のロードバイクを回収。
智恵はフレームを撫でて傷を確認しながら、小さく「よかった……」と呟いた。
そして車の後部座席を倒し、丁寧にロードバイクを積み込む。
助手席に座らされた智恵は、シートベルトを締められるとき、男の指が肩に触れた。
熱かった。
胸の奥が、びくりと跳ねた。
車が走り出す。
「実は僕もロードバイク趣味で乗ってるんです。あの道、景色いいですよね。特にこの時期は気持ちいい。」
「……うん」
「でも下りは気をつけないと。僕も一回砂利で滑って……ほんと、心臓止まるかと思った」
智恵は窓の外を見ていた。でも男の声が耳の奥に染み込んでいく。
低くて、少し掠れてて、安心する響き。
なぜか涙がまた溢れそうになった。
これまで誰の声にも感じたことのない、胸の奥がくすぐったくなるような疼き。
――
病院に着き、診察を受ける。擦り傷以外に異常なし。
男は受付を手伝い、智恵に言う。
「この状態だと一人で帰るのは難しいと思います。やっぱり家族を呼んだ方がよくないですか?」
智恵は迷った末、姉の理恵に電話した。
理恵なら、両親をうまく誤魔化してくれるはず。
そして待合室で待っていると、ガラスドアの向こうに理恵の車が滑り込んできた。
小走りでやってきて、智恵の顔を見るなり眉を寄せた。
「びっくりしたよ……! 電話で『事故った』って聞いただけで頭真っ白になった」
そう言いながら、智恵の腕や足の擦り傷を確かめるようにそっと触る。
1人の男がそばに立っているのを見て、理恵は慌てて深く頭を下げた。
「本当にありがとうございました。妹がご迷惑をおかけして……」
智恵は理恵に睨まれ肘で小突かれて、掠れた声で「……ありがとうございました」と呟いた。
理恵の車でアパートに戻る途中、車内では理恵の説教が続いていたが、智恵の耳には入らない。
アパートに帰り、シャワーを浴び、ベッドに倒れ込む。
白と水色のジャージは洗濯機の中。
でも、身体に残る男の手の感触、声の余韻だけが、消えない。
智恵は天井を見つめたまま、ぼんやりと思い返す。
「……優しかったな」
「自転車の話、もっとしたらよかったな……」
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
熱い。苦しい。
涙が頬を伝い、枕に落ちた。
「……また、会いたい」
それだけ呟いて、智恵は目を閉じた。
――
それから一週間。
智恵は生きているようで生きていなかった。
講義中も、ご飯を食べるときも、夜中に目が覚めるときも、いつもあの声が頭を巡る。
胸が締めつけられる。息が苦しい。
会いたい。触れたい。声を聞きたい。
そんな衝動に、智恵は自分自身が怖くなった。
土曜日。
朝からインターホンが鳴った。
開けると、理恵と双子の妹、冴恵と弥恵が立っていた。
「様子見に来たよ」「なんか最近変だから」「智恵お姉、ご飯食べに行こうよ!」と、冗談めかしながらも目が真剣だ。
断りきれず、結局4人で近所のファミレスへ連れ出されることになった。
ファミレス。
妹たちが巨大パフェを笑いながらつついている横で、智恵は頬杖をついて窓の外をぼんやり見つめていた。
涙がツーっと頬を伝う。拭っても拭っても止まらない。
胸が、痛い。苦しい。会いたい。会いたい。会いたい。
そのとき。
駐車場に、黒いSUVが滑り込んできた。
智恵の指が、テーブルクロスをぎゅっと掴む。
息が止まる。
目が離せない。
ドアが開いて、1人の男が降りてくる。
Tシャツにデニム。見覚えのある、あの歩き方。
智恵の身体が勝手に動いた。
立ち上がる。
膝が震える。
隣に座っていた冴恵を「ちょっとどいて」と押しのける。
冴恵が「わっ、痛っ!? なに急に……」と肩をさすりながら目を丸くする。
弥恵も「え、智恵お姉!?」と声を上げるが、智恵の耳には入らない。
足が震えている。
でも、歩く。まっすぐに。
その男はカウンターに向かおうとしていた。こちらに背中を向けたまま。
智恵は息を吸って、
「……あの」
声が震えた。でも、届いた。
男が振り返る。
智恵は、笑った。
ここ数年、誰にも見せたことのない、本当の笑顔を。
耳まで真っ赤に染めながら、涙を浮かべながら、でも確かに。
「……あの……また、会いましたね」
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