【比較神話学】神話の源流
くるくるパスタ
小さな知恵の神 物語編
【序】
お話は旅をする。
人が眠りにつく前の、ほんの少しの時間。火が燃えて、星が見えて、誰かが誰かに語りかける。その繰り返しが、何百年も、何千年も続いてきた。
お話が伝わるために、民族が移動する必要はない。一人の人が移動すればそれで充分。いや、人が動かなくてもいい。口から口へ。村から村へ。何千回かの夜を経て、お話は伝わる。隣の村へ、隣の町へ、海の向こうへ。
古事記が生まれた712年。そのとき中国では、とっくに三国志が書かれていた(289年頃)。シルクロードは何百年も前から人と物と、そしてお話を運んでいた。お話の伝達は、民族の移動よりずっとずっと早く、軽快。
これは、そんなお話の旅についての物語。世界中の夜で語られた断片が、ひとつの島国で出会い、ひとりの小さな神さまになるまでの。
◇ ◇ ◇
【一】ポリネシアの夜―マウイの話
ここは太平洋の島々。ヤシの木が夜風にそよいでいる。波の音が遠くで聞こえる。月が明るい。
砂浜に敷いた茣蓙の上で、おばあちゃんが孫を膝に乗せている。
「ねえおばあちゃん、お話して」
「いいよ。じゃあ、マウイ の話をしようかね」
「マウイ? ここ、マウイ島だよ? この島の話?」
「そう。この島に、その名前をつけた神さまの話さ」
おばあちゃんは夜空を見上げる。星がたくさん見える。
「マウイはね、生まれたとき、とても小さかったの。お母さんの腰巻きにくるまれて、海に捨てられてしまった」
「えっ、かわいそう」
「でもね、海の泡と海藻がマウイを守って、おじいさんの神さまが拾い上げてくれた。マウイは誰よりも小さかったけど、誰よりも賢くて、誰よりもいたずら好きだった」
「いたずら?」
「そう。あるときマウイは、太陽を縄で縛りつけたの」
「太陽を?」
「太陽が早く沈みすぎるから、お母さんの布が乾かないって怒ってね。それから火を手に入れるために、地下世界のおばあさんを騙したり、大きな魚を釣り上げたら、それが島になったり」
「すごい」
「マウイはね、小さくて、落ちこぼれで、いたずら者。でも、人間に大事なものをたくさんくれた神さまなの。火も、島も、長い昼間も。そして最後は――」
「最後は?」
「死の女神のところへ行って、帰ってこなかった。人間に不死をあげようとして、失敗したの」
波の音がする。子供はおばあちゃんの膝の上で、少し眠そうになっている。
「ねえおばあちゃん」
「なあに」
「小さくても、すごいことできるんだね」
「そうだよ。小さいからこそ、できることがあるのさ」
◇ ◇ ◇
【二】ギリシャの夜―羽衣の話
ここはエーゲ海のほとり。白い石の家。海風が温かい。オリーブの木が月明かりに銀色に光っている。
眠れない子供が、お母さんの寝台に潜り込んできた。
「お母さん、眠れないの」
「どうして?」
「鳥が怖い。お弁当に飛び掛かって、おかず取っていくんだもん」
「そうかそうか」
お母さんは子供の髪を撫でる。
「でもね、鳥の羽を服にして着ている神さまがいるんだよ」
「え? どういうこと?」
「ヘルメスという神さまはね、翼のついた帽子と、翼のついたサンダルを履いているの。鳥の羽でできた服を着て、どこへでも飛んでいける」
「怖くないの?」
「怖くないよ。ヘルメスはね、旅人の神さま。遠いところから来て、大事なことを教えてくれる。でも、ちょっといたずら好きでね」
「いたずら?」
「生まれたその日に、お兄さんのアポロンの牛を盗んだの。赤ちゃんなのに」
「えー!」
「でもね、お詫びに竪琴を発明してプレゼントしたから、許してもらえた。ヘルメスはそういう神さま。盗んだり、嘘をついたりするけど、最後には人間に役立つものをくれる」
子供はお母さんにくっついて、少し安心した顔になる。
「旅人が来たら、ごはんをあげなきゃいけないって言うでしょう?」
「うん」
「それはね、旅人が神さまかもしれないから。遠いところから来た人は、遠いところの知恵を持っているの。だから怖がらないで、もてなすのよ」
「鳥も?」
「鳥も、遠いところから飛んできたのかもしれないね」
◇ ◇ ◇
【三】北米の夜―コヨーテの話
ここは北アメリカの大平原。焚き火が燃えている。星が降るように見える。乾いた草の匂いがする。
輪になって座った子供たちに、年寄りが語りかける。
「コヨーテの話をしよう」
「また?」
「コヨーテの話は何度聞いてもいいんだ。なぜなら、コヨーテは毎回違うことをするからな」
年寄りは火を見つめる。
「昔、人間には火がなかった。寒くて、肉は生で食べるしかなかった。火は山の上の精霊たちが独り占めしていた」
「ずるい」
「そうだ、ずるい。コヨーテもそう思った。だからコヨーテは火を盗むことにした」
「どうやって?」
「コヨーテは精霊たちに近づいて言った。
『寒いから火にあたらせてくれ』
精霊たちは気の毒に思って、火のそばに来させてやった。コヨーテはしばらくじっとしていた。そして精霊たちが油断した瞬間――」
年寄りはパッと手を広げる。子供たちが息を呑む。
「尻尾に火をつけて、走って逃げた!」
「熱くないの?」
「熱いさ。でもコヨーテは走り続けた。火を持ったまま、リスに渡し、リスはカエルに渡し、カエルは木に火を隠した。だから今でも、木を擦ると火が出るんだ」
「コヨーテは英雄だね」
「英雄?」
年寄りは笑う。
「コヨーテは英雄でもあり、馬鹿者でもある。別の話では、自分の腸と話をして、言うことを聞かないから怒って食べてしまったりする」
「えー!」
「そういうものなんだ。大事なものをくれる者は、いつもちょっとおかしい。完璧な者は、何もくれないからな」
◇ ◇ ◇
【四】メソポタミアの夜―エンキドゥの話
ここはチグリス川のほとり。泥煉瓦の家。夜風が砂を運んでくる。遠くでジャッカルが鳴いている。
父親が息子に語りかける。
「お前も知っているだろう、ギルガメシュ王のことは」
「ウルクの王さまでしょう。すごく強い」
「そうだ。強すぎた。強すぎて、誰も王に逆らえなかった。神々は困った。このままでは王は暴君になる」
「どうしたの?」
「神々は粘土をこねて、もう一人の男を作った。名前はエンキドゥ。ギルガメシュとそっくりだが、少し小柄だった」
「双子みたい」
「そうだ、双子のようだった。でもエンキドゥは荒野で育った。動物と一緒に暮らし、人間の言葉を知らなかった」
「野蛮人?」
「最初はそうだった。でもギルガメシュと出会って、二人は取っ組み合いの喧嘩をした。街の門が壊れるほど激しい喧嘩だった。そして――」
「そして?」
「互いの強さを認めて、親友になった。それからは何をするにも一緒だった。怪物を倒しに行くのも、冒険をするのも、いつも二人一緒」
父親は声を落とす。
「でも、エンキドゥは病気で死んでしまった」
「……」
「ギルガメシュは泣いた。何日も何日も泣いた。そして気づいたんだ。自分もいつか死ぬということに。エンキドゥがいなければ、王はそのことに気づかなかった」
息子は黙って聞いている。
「人には、もう一人の自分が必要なんだ。自分とそっくりで、でも少し違う誰か。その誰かと出会って初めて、自分が何者かわかる」
◇ ◇ ◇
【五】インドの夜―双子の神医の話
ここはガンジス川のほとり。香の煙が漂う。牛が眠っている。蓮の花が月明かりに浮かんでいる。
僧侶が弟子たちに語りかける。
「アシュヴィン双神を知っているか」
「馬の神さまですか」
「そうだ、馬に乗って夜明けにやってくる双子の神。彼らは医術の神でもある。病人を癒し、老人を若返らせ、盲人の目を開く」
「薬を作るのですか」
「薬も作る。だが彼らが持ってくるのは、蜂蜜だ」
弟子たちは顔を見合わせる。
「蜂蜜?」
「そう、蜂蜜。蜂蜜は薬であり、酒の原料であり、不死の象徴だ。アシュヴィン双神は蜂蜜の鞭を振るい、人々に滋養をもたらす」
「双子なのに、二人で一つの仕事をするのですね」
「そうだ。一人は人間の父から、一人は神の父から生まれたとも言われる。片方は死すべき者、片方は不死。でも二人は決して離れない。別々では、何もできないんだ」
僧侶は蓮の花を見つめる。
「医術とは、死すべき者を癒すことだ。それができるのは、死すべき者と不死の者が手を組んだときだけ。片方だけでは、どちらも意味がない」
◇ ◇ ◇
【六】お話の旅
さて、ここで少し立ち止まろう。今、私たちは五つの夜を見てきた。ポリネシアの夜。ギリシャの夜。北米の夜。メソポタミアの夜。インドの夜。
バラバラの場所で、バラバラの言葉で、バラバラの人々が語った物語。でも、なんだか似ていなかっただろうか?
小さくて、いたずら者で、でも大事なものをくれる誰か。遠いところからやってきて、知恵を授ける誰か。王の傍らにいる、もう一人の自分のような誰か。薬と酒と、癒しをもたらす誰か。
これは偶然だろうか? それとも、お話が旅をしたのだろうか?
答えは、たぶん両方だ。
人間の心には、同じような形の「入れ物」がある。その入れ物に、それぞれの土地で、それぞれの物語が注がれる。入れ物の形が似ているから、注がれた物語も似てくる。
でも同時に、お話は旅もする。シルクロードを、海路を、草原を。商人の口から、旅人の口から、捕虜の口から。言葉が通じなくても、身振り手振りで、絵を描いて、伝わっていく。
古事記が書かれた712年。その400年以上前に三国志は完成していた。その1000年以上前にギルガメシュ叙事詩は粘土板に刻まれていた。お話が日本に届くには、充分すぎる時間があった。
そして今、私たちは日本の夜に向かう。すべてのお話が合流する場所へ。
◇ ◇ ◇
【七】日本の夜――出雲にて
ここは出雲。日本海の波が岩を打つ。松林が風に鳴っている。月が海面を銀色に染めている。
美保の岬に、一人の大きな神がいる。大国主という名の神。国を作ろうとしているが、一人では手が足りない。
◆
波の向こうから、何かが来る。ガガイモの莢――小さな舟。蛾の皮を剥いで作った服。あまりにも小さな、神とも人ともつかない者。
「お前は誰だ」
大国主が問う。
小さな者は答えない。
従者たちに聞いても、誰も知らない。蛙に聞いたら、案山子が知っていると言う。案山子に聞いたら、こう答えた。
「カミムスビの神の子です。千五百の兄弟の中で一番小さくて、指の間からこぼれ落ちた子です」
大国主が小さな者を掌に乗せると、小さな者は怒って、大国主の頬を噛んだ。
◆
カミムスビの神に問い合わせると、神はこう言った。
「確かに私の子だ。落ちこぼれで、言うことを聞かない子だ。だがお前と兄弟になって、一緒に国を作りなさい。名前は、スクナビコナという」
大国主は大きい。スクナビコナは小さい。大国主は国津神の長。スクナビコナは高天原から来た。正反対の二人が、兄弟になった。
◆
それから二人は、一緒に国を作った。田を耕す方法を教えた。病を治す薬を作った。獣や虫の害を防ぐまじないを定めた。酒を醸す技を伝えた。
どちらが教えたのか、もう区別がつかない。二人で一人のように、国中を巡った。
◆
ある日、スクナビコナは粟の茎に登った。茎がしなって、弾かれて、小さな神は海の向こうへ飛んでいった。常世の国へ。来たところへ。大国主は一人になった。
「これから誰と国を作ればいいのか」
その嘆きに答えて、海の向こうから光がやってきた。大物主という神が現れて、大国主を助けた。
でもそれは、また別の話。
◇ ◇ ◇
【八】重なり合う物語
さて、お気づきだろうか。スクナビコナという神の中に、世界中の夜で語られた物語の欠片が、重なり合っているのを。
ポリネシアのマウイ。
――捨てられた子。小さくて、いたずら者。でも大事なものをくれる。
ギリシャのヘルメス。
――翼のある服。遠くからやってくる旅人の神。泥棒だけど、発明をくれる。
北米のコヨーテ。
――文化英雄にしてトリックスター。火を盗み、愚かで、でも人間を助ける。
メソポタミアのエンキドゥ。
――王のそっくりで、でも少し小柄。二人でひとつ。そして去っていく。
インドのアシュヴィン双神。
――双子の神医。薬と蜂蜜。癒しをもたらす。
これらすべてが、出雲の浜辺で、ひとつになった。
小さな舟に乗って、
奇妙な服を着て、
名前を明かさず、
いたずらをして、
兄弟になって、
薬と酒を教えて、
そして去っていく。
スクナビコナ。
◇ ◇ ◇
【終】語られ続ける神
お話は旅をする。人が眠りにつく前の、ほんの少しの時間に。
ポリネシアで語られたマウイの話が、何百年もかけて西へ西へと伝わったのかもしれない。
メソポタミアで語られたエンキドゥの話が、シルクロードを通って東へ東へと伝わったのかもしれない。
あるいは、人間の心の「入れ物」が似ているから、似たような物語が自然と生まれたのかもしれない。
どちらが正しいかは、わからない。たぶん、どちらも正しい。
大事なのは、スクナビコナという神が、今も語られ続けているということ。
小さくて、いたずら者で、どこからか来て、どこかへ去っていく。でも大事なものを残していく。
お話とは、そういうものだから。
おやすみなさい。
良い夢を。
(了)
==========================
【解説編】へ続く
本編で語られた各地の神話と、スクナビコナとの学術的な対応関係、
一次資料からの引用、研究者による異論、参考文献については、
解説編をご参照ください。
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