第10話 始めの一歩
◆
依頼を受け付けるカウンターは広間の中央付近にあった。
銅色の冒険者証を提示し、木板を差し出すと、受付の男は手慣れた様子でそれを確認する。
「水汲みか。鍛冶屋のガッツ親方んとこだな。場所は分かるか?」
「いや」
「なら教えてやる。ここを出て南へ三つ目の角を右、そこから真っ直ぐ行けば煙突が見える。鉄を打つ音が聞こえてくるから迷うこたあねえよ」
受付の男は木板の裏に何やら印を押し、それをシャールに返した。
「終わったらこれを持って戻ってこい。親方から完了の署名を貰ってな。それで報酬が支払われる」
「分かった」
ギルドを出ると、朝の陽光が二人を包み込む。
シャールは受付で教えられた道順を頭の中で反芻しながら歩き出した。
「南へ三つ……」
「あちらですわね」
セフィラが通りの先を指差す。
石畳の道を進むにつれ、周囲の景色が変わっていった。
商店や宿屋が立ち並ぶ賑やかな区画から、次第に工房や作業場が目立つ一角へと移り変わっていく。
やがて、空気の中に鉄と炭の匂いが混じり始めた。
◆
規則正しく響く金属音が耳に届いたのは三つ目の角を曲がってからだった。
道の先に太い煙突がそびえ、そこから灰色の煙が立ち昇っている。
近づくにつれて熱気が肌を刺すようになり、シャールは思わず額の汗を拭った。
「鍛冶屋か……」
工房の入り口に立つと、内部の光景が目に飛び込んでくる。
真っ赤に燃える炉、その前で鉄を打つ屈強な男たち、壁に並ぶ様々な武具の数々。
王宮の武器庫とはまるで違う、生々しい鉄の世界がそこに広がっていた。
「おう、何の用だ」
奥から野太い声が響く。
声の主は禿頭に革の前掛けを纏った巨漢であった。
腕は丸太のように太く、顔には無数の火傷痕が刻まれている。
「依頼を受けてきた。水汲みの件だ」
シャールが木板を見せると、男は目を細めてそれを確認した。
「ああ、ギルドに出しといた奴か。俺がガッツだ。この工房の親方をやってる」
ガッツはシャールの全身を上から下まで眺め回す。
その視線には職人らしい鋭さがあった。
「あんたは……まあ、平気そうだな」
「どういう意味だ?」
「見りゃ分かる。鍛えてあるだろう、その身体」
シャールは答えなかったがガッツの観察眼は正しい。
王宮で過ごした日々、彼は誰に言われるでもなく己の肉体を限界まで追い込み続けてきた。
その積み重ねが今の体躯を作り上げている。
「問題はそっちのお嬢さんだがよ」
ガッツの視線がセフィラに移った。
華奢な体つき、細い腕、どう見ても重労働向きではない。
「わたくしも持てますわ」
セフィラは臆することなく答えた。
ガッツの眉がわずかに上がる。
怪訝そうな表情が顔に浮かんだのはほんの一瞬のことで、すぐにその目が何かを見抜いたように光った。
「ああ、魔術師か。だったらどうとでもなるか」
納得したように頷くと、ガッツは工房の奥を顎でしゃくった。
「ついてきな。説明する」
◆
工房の裏手に回ると、石組みの井戸が姿を現した。
その脇には大きな木桶がいくつも積まれている。
「仕事は簡単だ。この井戸から水を汲んで、あっちの水槽に運ぶ」
ガッツが指差した先には巨大な鉄製の水槽があった。
鍛冶仕事に使う冷却用の水を貯めておくためのものだろう。
「桶は十杯分。それで今日の分は足りる」
シャールは積まれた桶のひとつを手に取った。
思った以上に大きい。
両手で抱えてようやく持てるほどの代物で、これに水を満たせば相当な重さになる。
「……なるほど」
普通の人間なら一杯運ぶだけで息が上がるだろう。
十杯となれば半日仕事になってもおかしくない。
だからこそ銅貨二十枚という報酬が設定されているのだと、シャールは理解した。
「じゃあ、始めるぞ」
ガッツは工房の中へと戻っていく。
二人だけが井戸の前に残された。
◆
シャールは桶を井戸の縁に置き、釣瓶を降ろし始めた。
冷たい井戸の水が桶を満たしていく。
水を湛えた桶はずしりと重い。
だがシャールは顔色ひとつ変えずにそれを持ち上げた。
「ではわたくしも」
セフィラが目を閉じ、精神を集中させる。
彼女の周囲の空気がかすかに揺らいだかと思うと、残りの桶が音もなく宙に浮かび上がった。
三つ、四つ、五つ。
それぞれが井戸から水を汲み上げ、整然と列を成して空中に並ぶ。
「便利だな」
「ふふ、殿様商売と言われてしまいそうですわね」
セフィラの唇に微かな笑みが浮かんでいた。
シャールは自分の桶を担ぎ、水槽へと歩き出す。
その後ろを、浮遊する桶の列が静かについていった。
◆
水槽と井戸の往復を何度か繰り返すうちに、ガッツが様子を見に来た。
「ほう……」
浮遊する桶を見て、その目が感心したように細められる。
「余り見ない魔術だ。珍しいもん見せてもらったな」
「ご存知ですか?」
「昔、一度だけ見たことがある。
ガッツはセフィラの作業を眺めながら、腕を組んだ。
「制御も安定してる。相当鍛えてあるな、あんた」
その言葉にセフィラは少しだけ頬を染めた。
密かに重ねてきた修練を見抜かれたような心地がしたのだろう。
一方、シャールもまた黙々と桶を運び続けている。
重い桶を担いで往復を繰り返しても、その足取りに乱れはなかった。
息が上がる気配すらない。
ガッツの目がその姿を捉え、わずかに眉を持ち上げる。
「あんたもあんたで、とんでもねえ体してやがるな」
「……鍛えてきた」
「見りゃ分かる」
ガッツは何か思うところがあるのか、しばらくシャールの動きを観察していた。
やがて小さく頷くと、工房の中へと戻っていく。
◆
十杯目の水を水槽に注ぎ終えた時、空はすでに正午に近づいていた。
「これで完了だ」
シャールは額の汗を拭いながら言った。
セフィラも浮遊させていた最後の桶を静かに地面に降ろす。
「思ったより早く終わりましたわね」
「ああ。君の力のおかげだ」
「いいえ、シャールが休まず運び続けてくださったからですわ」
二人は顔を見合わせ、互いに小さく笑った。
工房の入り口にガッツの姿が現れる。
「終わったか。見せてみろ」
水槽の水位を確認し、満足げに頷いた。
「上出来だ。新人にしちゃ手際がいい」
そう言いながらガッツはシャールの腰元に目を留めた。
「……ほう」
その視線が捉えたのはシャールが佩いている短剣である。
王宮から持ち出してきた唯一の武器。
質素な拵えではあるがその刃には確かな品質が宿っていた。
「ふん、新人にしちゃあ良いモン持ってるな。どれ、見せてみろ」
◆
シャールは言われるままに短剣を鞘から抜き、ガッツに差し出した。
親方はそれを受け取ると、目を細めて刃をじっと見つめ始める。
刃紋を確認し、峰を指で弾き、柄の重心を確かめる。
その所作は長年の経験に裏打ちされた職人のものだった。
「東方の短剣か。鍛え肌は小板目、地鉄の詰みも申し分ねえ。刃紋は直刃に近いが微かに乱れを入れてあるな……実戦向きの造りだ」
ガッツの口から専門用語が次々と飛び出してくる。
「焼き入れの具合も悪くねえ。硬すぎず柔すぎず、折れにくさと斬れ味を両立させてある。茎の銘は……読めねえが相当な腕の鍛冶が打ったもんだろうよ」
シャールは黙って聞いていた。
「いい剣だ」
ガッツは短剣をシャールに返しながら言った。
「だがよ」
「だが?」
「短剣は取り回しはいいがいざって時に命を預けるにはちと心もとないだろ?」
その言葉には職人としての矜持が滲んでいる。
「接近戦では確かに有利だがな、間合いが短い分だけ敵に近づかなきゃならねえ。冒険者稼業を続けるつもりなら、もう少し長い得物があった方がいい」
シャールは頷いた。
確かにその通りだと思う。
森で騎士団と対峙した時も、短剣だけでは到底対応できなかった。
あの時は念動の力があったからこそ切り抜けられたのだ。
「あんたらは手際よく仕事を済ませてくれたからな」
ガッツは工房の奥へと歩いていき、壁に立てかけてあった一振りの剣を手に取った。
「これをくれてやる」
◆
差し出されたのは無骨な長剣だった。
装飾は一切なく、柄も鍔も実用一点張りの造りである。
刃渡りは短剣の三倍はあるだろう。
「儂の弟子が打った剣だがよ」
ガッツは剣をシャールの手に押し付けるようにして渡した。
「まあ飾り気もなにもねえが最低限の働きはするだろうよ。刃筋さえ立てりゃ、小鬼の五、六匹は斬れる」
シャールは受け取った剣の重みを確かめた。
ずしりとした手応えが掌に伝わってくる。
バランスは悪くない。
振ってみれば、その重心が手首に負担をかけない位置に設定されていることが分かった。
「……いいのか」
「いいんだよ。弟子の修行作だ。出来は悪くねえが客に売るほどのもんでもねえ。だったら使ってくれる奴に渡した方がマシだろう」
ガッツの言葉には照れ隠しのような響きがあった。
「それによ、あんたらは見所がある。冒険者を続けるつもりなら、そのうちまた顔を見せろ。いい武器が欲しくなったらな」
「……感謝する」
シャールは深く頭を下げた。
セフィラもまた、丁寧に礼をする。
「礼はいらねえよ。水を運んでもらった分の駄賃だ」
ガッツはぶっきらぼうに言い放つと、シャールが持参した木板の裏に署名を走らせた。
「ほら、これでギルドに行きな。報酬がもらえる」
木板を受け取り、二人は鍛冶屋を後にする。
◆
工房を出ると、昼の陽光が眩しかった。
シャールは腰に佩いた新しい長剣の重みを感じながら歩き出す。
「思わぬ収穫でしたわね」
セフィラが隣に並んで言った。
「ああ」
「ガッツ様は良い方のようですわね」
「そうだな」
シャールは長剣の柄に手を添えた。
飾り気のない無骨な剣だがこうして佩くだけで安心感がある。
二人は並んでギルドへの道を歩いていく。
最初の依頼は無事に完了した。
報酬は銅貨二十枚と、一振りの長剣だ。
新人冒険者の第一歩にしては上出来だろう。
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