追放された王太子と公爵令嬢が冒険者になる話

埴輪庭(はにわば)

第1話 シャールとセフィラ

 ◆



 どのような世界であれ、どのような時代であれ、文明を根底から支えるひとつの技術というものが必ず存在する。ある時代においては火の発見がそうであり、またある時代においては鉄の精錬がそれにあたった。


 しかしこの世界においてその役割を担っていたのは「魔法」と呼ばれる不可思議な力に他ならなかった。


 この世界に生まれ落ちた者は誰もが生来「魔力」というエネルギーを体内に宿していた。そしてその量と属性こそが個人の価値から社会の構造に至るまで、あらゆる事象を規定する絶対的な基準として機能していたのである。


 四大属性と呼ばれるものがあった。すなわち、万物を灰燼に帰す火、生命を育み潤す水、天空を自在に駆ける風、そして万象を支える堅牢な大地。これらの属性を高い純度で受け継ぐ者たちは自然と社会の支配階層を形成し、その血筋にこそより強大な魔力の発現が期待されるという、一種の血統主義が社会秩序を維持する根幹となっていた。


 言うまでもなく、この四大属性に分類されない魔力も存在した。しかしそれらは社会にとって実用性に乏しいもの、あるいは劣った証として扱われることがほとんどであった。とりわけ「無の魔力」と呼ばれる、いかなる属性も持たぬ者たちは魔法というこの世界の共通言語を解さぬ存在として、時にその存在そのものを否定されることさえあった。


 単一の価値基準が社会全体を覆い尽くすとき、そこから外れた個人がどれほど不寛容な現実に直面するものか。これはその典型的な事例と言えるだろう。


 さて、大陸の中央に広大な領土を持つウェザリオ王国も、この魔導の原理に基づいて統治される国家のひとつであった。


 歴代の王家が継承してきた圧倒的な火の魔力は王権の正統性と軍事力を内外に示す最大の象徴であり、現国王オルドヴァイン三世もまた、その血統にふさわしい強大な魔力の持ち主であった。


 その王家に大望の第一王子が誕生したのは王国暦五百十二年のことである。


 シャールと名付けられたその赤子に、国民は熱狂的な歓声を上げた。偉大なる父王の威光を受け継ぎ、王国に永遠の繁栄をもたらすであろう輝かしき未来の象徴。当時の民衆がこぞってそのような素朴な夢想を抱いたとしても、それを責めることはできまい。


 ほぼ時を同じくして、王国の権力構造において王家と並び立つ名門、エルデ公爵家にもひとりの女児が誕生した。セフィラ・イラ・エルデ。王家の火に対して、理知と冷静さを司る水の魔力を代々受け継ぎ、宰相職を世襲してきた公爵家の末裔である。この二人の誕生がやがて王国の命運を大きく左右する巨大な歯車の最初の噛み合わせとなることを、この時点で予見できた者は誰ひとりとしていなかった。


 ◆


 王太子シャールは周囲の期待に反して、きわめて寡黙な少年へと成長していった。


 彼が好んだのは同年代の貴族子弟との社交辞令に満ちた付き合いではなかった。王宮書庫の静寂であり、また、己の肉体を限界まで追い込む孤独な鍛錬であった。


「なぜそこまでなさるのですか、殿下。お身体に障ります」


 侍従の悲鳴じみた諫言を、シャールは意に介さなかった。掌の皮が破れて血が滲み出るまで剣を振り続け、息も絶え絶えになるまで走り込みを繰り返す。


 それは王太子という生まれながらの宿命に対する、若さゆえの反発だったのだろうか。それとも、いずれ訪れる動乱の時代を無意識のうちに察知しての焦りだったのだろうか。今となってはそれを断言することはできない。


 彼のただひとつの楽しみは書庫の奥深くに眠る古の騎士たちの武勇伝を読むことであった。色褪せた頁の向こうに広がる、悪を討ち、弱き者を助けるという明快な正義の世界。


 それは複雑な権謀術数が絶えず渦巻く王宮の現実とはあまりにもかけ離れた世界だった。彼が現実よりも物語の中にこそ真実の輝きを見出そうとしたのはある意味で当然の帰結だったのかもしれない。


 一方、その婚約者であるセフィラ・イラ・エルデは幼いころからその知性の輝きを隠しきれずにいた。


 公爵令嬢としての礼儀作法を完璧にこなしながらも、彼女の知的好奇心は歴史、魔導、天文学といった、より普遍的な真理の探求へと向けられていたのである。その早熟な知性は時に老練な学者たちをも驚嘆させたと記録に残されている。


「世界がどのように成り立っているのかを知りたいのです。星々がどのような法則で動いているのか、歴史を動かす力とは何なのか、そのすべてを」


 家庭教師にそう語ったという彼女の翠色の瞳は常に知的な探求心で輝いていた。


 この二人が王国の安定という政治的な思惑のもとで婚約者と定められたのは彼らがまだ自分の意思を明確に表明する術を持たない、幼い頃のことであった。国家の論理の前では個人の感情など取るに足らない些事に過ぎなかった。


 王国暦五百二十年。二人が八歳になった頃、王宮庭園で催された茶会が彼らの公式な初対面の場となった。


 ◆


「シャール殿下、こちらがエルデ公爵家のご令嬢、セフィラ様でございます」


「……ああ」


 豪華な衣装を身にまとった大人たちの品定めするような視線の中で、シャールは硬い表情で頷くのがやっとだった。


「ごきげんよう、シャール殿下。セフィラ・イラ・エルデと申します」


 セフィラは完璧な淑女の礼を披露したがその声にはどこか隠しきれない緊張がにじんでいた。


 歴史という壮大な舞台の幕開けというものは得てしてこのようにぎこちなく、平凡なものなのかもしれない。周囲の大人たちが思い描いていたであろう、未来の国王夫妻の微笑ましい出会いという情景は当の本人たちにとってはただひたすら息苦しい時間に過ぎなかった。


 しかしながら、それが運命の女神の気まぐれだったのか、あるいは必然だったのか。形式的な面会が幾度か重ねられるうちに、二つの孤独な魂は互いの中に何か共通するものを見出し始めていた。それは同年代の子供たちが持つ無邪気な騒がしさから一歩引いた、冷静な観察者としての視点であった。


 ある日の午後、王宮書庫の片隅で、歴史は静かに動き始める。


 騎士譚に没頭していたシャールの前に、ひとりの少女が音もなく現れたのである。彼が手にしていた物語よりも遥かに難解な魔導書を小脇に抱えたセフィラであった。


「……こんにちはシャール殿下」


 セフィラは小さな声で挨拶し、丁寧にカーテシーをしてみせる。


「ああ……セフィラ嬢か」


 ぎこちなく応じるシャールの視線がわずかに揺れた。しばしの沈黙が流れたあと、それを破ったのはセフィラのほうだった。


「殿下はいつも騎士のお話をお読みになっていらっしゃいますね。それはどのような物語なのですか?」


「……邪悪な竜を、倒す話だ」


 その問いかけをきっかけに、シャールは普段の寡黙さが嘘のように物語の筋立てを語り始めた。聖剣、竜、囚われの姫君。古典的とも言える英雄譚を、彼はまるで自分の目で見てきたかのように生き生きと描写していく。


 セフィラはその話に静かに耳を傾けていた。彼女の翠色の瞳はただ物語に酔いしれるのではなく、その構造を冷静に分析しているようであった。やがてシャールが語り終えると、彼女は静かに口を開いた。


「その竜が棲んでいたという山脈ですが地理的な特徴から考えますと、古代の地熱活動が活発だった地域ではないかと思われます。竜が炎を吐くという伝承も、もしかすると火山性ガスの噴出を神聖視したものかもしれませんね」


「……え?」


「また、騎士が用いたとされる戦術にも興味深い点がございます。それは少数で大軍を打ち破ったと伝えられる古の戦記、『ヘクセン戦役』における傭兵隊長ラグナの用兵術と、顕著な類似性が見受けられます。この物語の作者は軍事史にかなり精通した人物だったのでしょう」


 思いもよらない視点からの分析に、シャールは言葉を失った。


 彼が純粋な憧れの眼差しで見つめていた世界を、セフィラは歴史的、地理的な文脈の中で解きほぐし、組み立て直していく。


 それはシャールにとって、初めての知的な敗北だった。と同時に、新鮮な驚きでもあった。


「……君は物知りなんだな」


 ようやく絞り出したその言葉に、セフィラは少しだけ頬を染めた。


「いいえ、そんなことは……ただ、書物に記された出来事の背後にある法則を知ることが好きなだけでございます」


 この日を境に、書庫は二人だけの秘密の領地となった。シャールが物語の英雄の行動原理を語れば、セフィラがその行動の倫理的な妥当性や歴史的背景を問い返す。それは甘やかな恋物語の序章というにはあまりにも理知的で、哲学的な対話であった。けれども、二人の精神が互いを唯一無二の理解者として認め合うにはそれで十分だったのだ。


 そして王国暦五百二十四年。二人が十二歳を迎えた初夏のことである。


 王宮離宮の庭園。侍従たちの目も届かないその場所で、シャールは不意に心の奥底にしまい込んでいた思いを口にした。


「もしも、私が王太子でなかったとしたら……どうなっていたのだろうな」


「殿下……?」


 セフィラの問いかけるような視線を受けながら、シャールは遠くの空を見つめていた。


「ただひとりの人間として自由に世界を旅して、書物で読んだような、本当に助けを必要としている人々を、この手で救えたのだろうか……」


 それは王太子という立場に縛られた少年の、あまりにも純粋で、それゆえに危うい理想主義の表れであった。権力というものはそれを望まない者のもとにこそ集まりたがるという、歴史の皮肉を体現するかのような言葉であった。


 セフィラは彼の言葉を黙って受け止めていた。シャールが抱える葛藤、その孤独。彼女にはそれが痛いほどよく分かった。やがて、彼女は確かな声で答えた。


「いいえ、殿下。あなただからこそ、成し遂げられることがあるはずです」


「……私だから?」


「そのお心があればこそ、あなたはきっと、誰よりも偉大な王におなりになれます。多くの民を救い、導くことがおできになるはずです。私はそう信じております」


 それは公爵令嬢としての政治的な発言ではなかった。ましてや、婚約者への慰めの言葉でもない。セフィラ・イラ・エルデというひとりの人間がシャールというひとりの人間の資質に見出した、偽りのない信頼の表明であった。


「……ありがとう、セフィラ」


 シャールのその短い返答には万感の思いが込められていた。


 こうして二つの孤独な魂は互いを精神的な支えとして認め合うに至ったのである。友情という言葉では物足りなく、愛情という言葉にはまだ早い。けれども、そこにはいかなる政治的な盟約よりも強い絆が確かに結ばれ始めていた。

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