第25話
あの喧騒の建国記念パーティーから、三日が過ぎた。
宰相執務室には、久方ぶりの静寂が戻っていた。
「……平和だわ」
私は窓辺のソファに深く沈み込み、湯気の立つ紅茶を口に運んだ。
聞こえるのは、小鳥のさえずりと、アレクセイ様が書類にサインをするペンの音だけ。
どこからも「僕の愛を聞け!」という騒音は聞こえてこない。
「快適そうだね、シャロ」
アレクセイ様が顔を上げ、穏やかな笑みを向けてきた。
「ええ、最高です。空気が澄んでいる気がします。マイナスイオンでも発生しているのでしょうか」
「それは『害虫』が駆除されたからだろう。……さて、ちょうど報告書がまとまったところだ。聞くか? 彼(アレ)の末路を」
アレクセイ様は一枚の羊皮紙をヒラヒラとさせた。
私はカップをソーサーに戻し、身を乗り出した。
「ぜひお願いします。私の安眠のためにも、後顧の憂いは断っておきたいので」
「うむ。結論から言うと、ジェラルド殿下は本日付けで正式に『廃嫡』となった」
予想通りの結末だ。
あれだけの醜態をさらせば、王位継承権どころか、王族としての身分を維持することすら不可能だろう。
「名前も剥奪された。今日から彼は、ただの平民『ジェラ』だ」
「ジェラ……随分と安直な名前になりましたね」
「そして、その身柄だが……先ほど、馬車でドナドナされていったよ」
「どこへ?」
「北の最果てにある、『沈黙の断崖修道院』だ」
その名前を聞いた瞬間、私は思わず噴き出しそうになった。
「……沈黙の、ですか?」
「ああ。あそこは戒律が厳しいことで有名でね。一番の掟は『一切の私語厳禁』だ。破れば鞭打ち……ではなく、食事抜きだそうだ」
「あのおしゃべりな殿下に、私語厳禁……?」
「さらに、所持品の持ち込みは一切禁止。鏡も没収だ。彼が一日中眺められるのは、自分の顔ではなく、荒れ狂う北の海と岩肌だけだ」
地獄だ。
ナルシストでおしゃべりな殿下にとって、そこは灼熱地獄よりも過酷な環境に違いない。
「最高のキャスティングですね、閣下」
「だろう? 陛下も『あやつには、まず己の心の声と向き合う時間が必要だ』と仰っていた。まあ、彼に『心の声』があるかどうかは怪しいが」
アレクセイ様は楽しそうに笑った。
「ちなみに、連行される際の最後の言葉は、『鏡! せめて手鏡を一枚ぃぃぃ!』だったそうだ」
「……最後までブレませんね」
私は呆れつつも、肩の荷が完全に下りたのを感じた。
これで、もう二度とポエムを聞かされることも、壁ドン(物理)されることもない。
その時、コンコンと軽やかなノック音がした。
「失礼しますぅ! お茶のお代わりをお持ちしましたぁ!」
元気よく入ってきたのは、ミナ様だ。
彼女はまだ、宰相府に滞在していたのか?
「あら、ミナ。まだここにいたの?」
「はいっ! アレクセイ様から『ほとぼりが冷めるまで居ていい』って言われたのでぇ。ここのお菓子、美味しいですし!」
ミナ様はトレイに山盛りのクッキーを乗せてニコニコしている。
すっかり餌付けされているようだ。
「ミナ嬢には、陛下から多額の『慰謝料』が支払われた。それで実家の借金も返済し、お釣りが来るほどだそうだ」
「ええっ、そんなに?」
「はい! 『精神的苦痛への対価』だそうです。金貨の重みで腰が抜けそうでしたぁ」
ミナ様はケラケラと笑った。
この子、本当にたくましい。
「で、これからどうするの? 田舎に帰る?」
「うーん、それも考えたんですけどぉ……私、ここで商売を始めようかと思いまして」
「商売?」
「はい! 名付けて『ナルシスト被害者の会・相談所』です!」
ミナ様はビシッと指を立てた。
「世の中には、ジェラルド殿下みたいな勘違い男に困っている女性がたくさんいると思うんですぅ。そんな人たちに、私の実体験に基づいた『スルー・スキル』や『撃退法』を伝授するんです! シャロ師匠直伝の!」
「……需要がありそうね」
「でしょう? 陛下にも許可をもらいましたぁ! 『王都の平和のために役立ててくれ』って!」
陛下も適当だな。
でも、ミナ様の明るさと、あの殿下を振り回した天然スキルがあれば、きっと繁盛するだろう。
「頑張りなさい。私も顧問として名前だけ貸してあげるわ」
「わーい! ありがとうございますぅ、師匠!」
ミナ様は嬉しそうにクッキーを頬張った。
かつては恋敵(?)だった私たちが、こうして笑い合ってお茶をしている。
人生とは分からないものだ。
「……さて」
アレクセイ様が立ち上がり、私の隣に座った。
ミナ様が気を利かせて「あ、私、洗い物してきますぅ!」と退散していく。
「邪魔者はいなくなった。……シャロ、改めて君に言っておきたいことがある」
「なんでしょう、改まって」
アレクセイ様は私の手を取り、真剣な眼差しで見つめてきた。
「ジェラルドは片付いた。ミナ嬢も身の振り方が決まった。……残る問題は、私と君のことだ」
「問題? 何か懸念事項でも?」
「大ありだ。……君が、まだ『宰相補佐官』という肩書きにこだわっていることだ」
ドキリとした。
確かに、婚約は発表されたが、私はまだ「雇用契約」を結んだ補佐官としてここにいるつもりだった。
「シャロ。私は君を補佐官として雇ったつもりだったが、今は違う。君を『公爵夫人』として、そして『生涯の伴侶』として迎えたい」
「……待遇は変わりますか?」
「ああ。労働時間は減らす。君には、私が働く姿を隣で眺めていてくれればいい。お茶を飲んで、昼寝をして、たまに私に癒し(キス)をくれれば、それで十分だ」
「それは……究極の『窓際族』では?」
「違う。『宰相の充電器』だ」
アレクセイ様は私の手を引き寄せ、掌に頬をすり寄せた。
猫が甘えるような仕草だ。
氷の宰相の面影はどこにもない。
「君がいないと、私はバッテリー切れで動かなくなる。だから、ずっと傍にいてくれ。……これは業務命令ではなく、私の我儘だ」
そんな目で見つめられて、断れるはずがなかった。
それに、私もまんざらではないのだ。
この静かで、紅茶の香りがする執務室が、今では私の「居場所」になっているのだから。
「……仕方ありませんね」
私はため息をつくフリをして、彼の髪を撫でた。
「充電器のメンテナンス費用は高いですよ? 一生、最高級の茶葉と安眠を保証していただきます」
「望むところだ。私の全財産と権力をかけて、君を甘やかそう」
アレクセイ様が嬉しそうに笑い、私の唇に口づけを落とした。
静かな午後。
窓の外では、新しい季節の風が吹いている。
騒がしい王子はいなくなり、私の日常には「愛のある静寂」が訪れた。
(……悪くないわね、こういうのも)
私は目を閉じ、彼の体温を感じながら、これからの日々に思いを馳せた。
もちろん、これで全てが終わったわけではない。
結婚式の準備、公爵家への挨拶、そして何より……アレクセイ様の「溺愛」という、新たな騒動が待ち受けているのだから。
でも今は、この束の間の平穏を噛み締めよう。
「ふぁ……」
小さくあくびが出た。
それを見て、アレクセイ様が優しく膝を叩いた。
「眠いか? ここ(膝)を使っていいぞ」
「……では、お言葉に甘えて」
私は遠慮なく、国一番の権力者の膝を枕にして横になった。
最高だ。ジェラルド殿下には逆立ちしても真似できない、至高の福利厚生である。
私は意識を手放しながら、心の中で呟いた。
(さようなら、悪役令嬢ルート。こんにちは、溺愛スローライフ……)
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