第19話
イデア・ヴァイパーの漆黒の尾の先端には、ひとつの小さな荷物袋が括り付けられていた。
それは明らかに彼の体格には不釣り合いな、粗末で軽い代物だ。
獣の皮を縫い合わせ、森で見つけた蔓で口を縛っただけの簡素な袋。リティが、集落から逃げ出す際に必死で作ったものだった。
中には、折れた石斧の刃、噛みかけの乾燥肉、そして意味も用途もない、ただ光るだけの小石が詰め込まれている。
イデアは当初、この袋の存在に強烈な違和感を覚えた。
尾は彼にとって武器であり、移動器官であり、戦術そのものだ。その先端に何かを括り付ける行為は、本来あり得ない。
だが彼は、数度の移動で最適な位置を割り出した。
推進力を阻害せず、重心にも影響しない箇所。そこに袋を固定すれば、戦闘効率はほぼ変化しない。
(生存に直接関係のない、『不要な付加物』)
彼の思考は、即座に分類を行う。
(だが、治癒の駒を満足させるためのコストだ)
そう結論づけた瞬間、その存在は思考の外へと追いやられた。
イデアは、余計な感情も未定義の価値も、全て「後で処理すべきノイズ」として棚上げにする。
こうして彼は、非効率な装備を背負いながらも、中層の最深部へと踏み込んでいった。
空気が変わる。
湿度、温度、魔力の密度――そのすべてが、わずかだが確実に上昇していた。
やがて視界が開け、イデアの前に、それは姿を現した。
『太陽の巨木』。
周囲の木々とは、存在の格が違う。
太い幹は苔に覆われ、無数の根が地表を掴むように広がっている。枝は絡み合い、天空へ向かって複雑な幾何学を描いていた。
頂は常に光を浴び、陽光が葉の隙間を通して降り注いでいる。
魔力の流れは澄み、乱れがない。ここが長年、強大な存在によって支配されてきたことは明白だった。
「イデア……あれだよ」
リティが、小さく息を呑みながら囁く。
「あの、大きな木」
彼女は、巨木の威圧感に圧され、イデアの体の陰に半身を隠すように立っていた。それでも、視線だけは巨木から離せずにいる。
イデアは、返事をせず、静かに近づいた。
巨木の根元に到達した瞬間、彼は空を仰いだ。
そこにいた。
樹冠の最も高い枝。
空とほぼ同じ高さに、巨大なフクロウが静止していた。
フーボ・オウル。
かつて戦場を一撃で崩壊させた、森の災厄。
その瞳は閉じられ、羽毛は風に揺れながらも微動だにしない。
まるで、世界そのものと呼吸を合わせているかのようだった。
だが――
イデアが、巨木の領域へ完全に足を踏み入れた、その瞬間。
カッ、と。
黄色い瞳が、鋭く開かれた。
空気が震え、魔力の流れが一瞬だけ歪む。
フーボ・オウル――ソルタオは、即座に理解した。
地上の毒蛇から滲み出る、異質な魔力。
複数の魔物の生命力を混ぜ合わせた、不自然な濃度。
そして何より――
自らが放った風の魔術。その「模倣の残滓」。
警戒は、一気に最大へ引き上げられた。
---
「我が名はソルタオ」
声が、風に乗って降り注いだ。
「この森の調停者にして、賢者」
言葉そのものが、空気を震わせる。
それは単なる音声ではなく、魔力を帯びた“宣言”だった。
「秩序を乱す……低き地の毒蛇よ」
黄色い瞳が、イデアを射抜く。
「お前は、何を知り、何を求め、この賢者の住処に来た」
「ひっ……!」
リティが思わず声を上げる。
「しゃ、しゃべった……!しかも、調停者って!」
彼女は完全に混乱していた。
「イデア!逃げよう!賢者だよ!?賢者って、やばいやつだよ!」
イデアは、背後の騒音を切り捨てる。
思考を一点に集中させ、頭部をゆっくりと持ち上げた。
「俺は、イデア・ヴァイパー」
漆黒の体が、陽光を反射する。
「貴様の持つ『魔術』という知識を、経験として取り込みに来た」
ソルタオの羽毛が、わずかに逆立った。
「魔術、だと?」
嘲笑が、風に混じる。
「あの湿地の底辺にいた血吸い虫が、分不相応な言葉を口にする」
「お前は風の理を知らぬ。ただ模倣したに過ぎぬ」
「模倣。その通りだ」
イデアは、即座に認めた。
「しかし、模倣し、具現化できたことは、俺の知性(イデア)の証明だ」
沈黙。
賢者の瞳が、ほんの一瞬だけ細まる。
その張り詰めた空気を――
「え、えっと!」
完全に場違いな声が切り裂いた。
「あのね、ソルタオさん!」
リティだった。
「ワタシ、リティって言います!」
イデアの思考に、激しいノイズが走る。
「イデアはね、戦いに来たわけじゃないんです!」
彼女は必死だった。
「その……魔術を教えてくれたら、すぐ帰ります!」
沈黙が、重く落ちた。
イデアは、激しい苛立ちを覚えた。
この交渉は、知性と知性のぶつかり合いだ。感情的な介入は、全て無意味。
「黙れ、コボルト」
同時に、ソルタオの視線が冷たくなる。
「無知な小動物よ」
「この賢者の前で、その無意味な騒音を出すな」
二重の叱責。
リティの体が、ビクッと跳ねた。
「ひゃい……!」
彼女は涙目になり、口元を押さえ、イデアの背後に隠れた。
「ごめんなさい……出来損ないです……」
イデアは、ようやく集中を取り戻す。
「貴様の知恵は、騒音すら制せぬ」
ソルタオの声は、裁定だった。
「その空虚な妄想に、この賢者の知識を割く価値はない」
「代償は、貴様の命に匹敵する」
イデアは、静かに牙を鳴らした。
「ならば」
全身が、微かに黒く発光する。
「力なき俺の知恵が、貴様の魔術を喰らうか、喰われるか」
「試させてもらう」
漆黒の毒液が、牙から滴り落ちる。
背後では、リティが震えながらも、その体から微かな治癒の光を漏らしていた。
賢者と賢者。
力と知性。
そして、その狭間に立つ、小さなノイズ。
嵐は、まだ始まっていない。
だが、世界は確かに、息を詰めていた。
ソルタオは、イデアの挑戦を拒まなかった。
それは受容であり、同時に裁定だった。
巨大な翼が、ゆっくりと、しかし確固たる意思をもって左右に広げられる。
その瞬間、太陽の巨木を取り巻く空気がざわめき、森の葉擦れの音が、一斉に途切れた。
風が、止まったのではない。
制御されたのだ。
太陽の巨木の周囲に、目には見えぬが確かな圧を持つ風の壁が形成される。
渦を巻く気流は、外界と内部を隔てる檻となり、空気そのものが重く、粘つくように感じられた。
「貴様の傲慢さ――」
ソルタオの声が、風に乗って低く響く。
「風の檻の中で、味わうがいい!」
次の瞬間、空が裂けた。
ソルタオの魔力は、もはや単なる突風ではなかった。
圧縮され、研ぎ澄まされ、刃として成立した風が、無数の軌跡を描きながら降り注ぐ。
先日のゴブリン戦で見せた一撃とは、明確に次元が違う。
あれが「警告」だとすれば、これは紛れもなく抹殺のための魔術だった。
イデアは即座に判断する。
迎撃は不可能。防御も意味を成さない。
尾の先に、リティの作った粗末な荷物袋を付けたまま、
彼は全身の筋肉とバネ構造を極限まで駆動させ、地面を這う速度を一段階引き上げた。
湿った土が弾け、苔が吹き飛ぶ。
巨体が森の中を滑るように疾走し、風の刃の直撃を紙一重でかわしていく。
だが、その速度にも限界はある。
既に、リティの意識はない。
尾に伝わる微かな重みと、揺れる荷物袋だけが、彼女の存在を知らせていた。
ソルタオの風の刃は、逃走を許さない。
それは追尾するように軌道を変え、回避の先を読むように角度を調整してくる。
ザッ――
ギィンッ!
刃が鱗を掠めるたび、金属音にも似た火花が散り、
漆黒の鱗には、深く鋭い傷が刻まれていった。
血が流れ、地面に黒い滴が落ちる。
毒の魔力が滲み出るが、それすらも風に散らされ、意味を成さない。
イデアは回避に集中しながら、わずかな隙を突いて口を開いた。
喉奥で凝縮された漆黒の魔力が、弾丸のように放たれる。
――しかし。
ソルタオの周囲を覆う風の壁が、それを許さなかった。
魔弾は壁に触れた瞬間、引き裂かれ、拡散し、空気中に溶けて消えていく。
威力は、完全に殺された。
(速い……!)
イデアの思考が、冷静さを保ったまま警鐘を鳴らす。
(魔力密度が高すぎる!
俺の毒の魔弾では、この風の壁を突破できない!)
ソルタオは、イデアの動きを“見て”いなかった。
理解していたのだ。
彼の進路、回避の癖、加速と減速のタイミング――
すべてを予測し、風の圧で退路を塞ぎ、確実に追い詰めていく。
「小賢しい!」
その声と同時に、空気が軋んだ。
「その速さも、魔力の壁の前では無意味だ!」
ソルタオは、周囲の空気を一箇所に凝縮させる。
目に見えぬはずの空気が、歪み、重さを持ち、巨大な塊となっていくのが、感覚で分かった。
それは、質量を持った“圧力”だった。
次の瞬間。
頭上から、巨大な空気の塊が叩きつけられる。
ドォンッ!!
衝撃が、森を震わせた。
地面が陥没し、衝突点を中心に土と根が吹き飛ぶ。
イデアは直撃を受け、為す術もなく地面に叩きつけられた。
全身の鱗が砕け、内部まで衝撃が伝わり、血が噴き出す。
視界が揺れ、音が遠のく。
(……まずい)
思考だけは、辛うじて保たれていた。
(このままでは――)
(俺は、ただの獲物だ)
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