第12話
リティは、イデアの言葉を「拒絶」ではなく「許可」として受け取った瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
彼女は恐る恐る、しかし迷いなく、彼の隣へとそっと座り直した。
巨大な黒蛇の胴体は、近くで見ると圧倒的な存在感を放っている。それでも、牙を剥かれることも、威嚇されることもない。
(イデア……)
心の中で、そっとその名を呼ぶ。
(イデアは、ワタシをいじめない。
ワタシを、食べない)
それだけで、十分だった。
これまで彼女が身を置いてきた世界では、「いじめない」「傷つけない」という行為そのものが、ほとんど奇跡に近かったのだ。
恐怖に怯え、殴られ、罵られ、役立たずだと吐き捨てられる日々。
そこから逃げ出した彼女にとって、イデアの傍は――
恐ろしいはずなのに、不思議と心が落ち着く場所だった。
彼女の中で、「離れる」という選択肢は、いつの間にか完全に消え去っていた。
一方、イデア・ヴァイパーは、彼女の心情の変化を分析することはなかった。
恐怖が薄れたか、依存が芽生えたか――
そういった感情は、彼にとって重要ではない。
彼は、ただ一つの事実だけを認識していた。
(……勝手に居る)
その状態を、排除する理由はない。
(ならば、利用する)
それは冷酷でも、残忍でもなく、彼にとっては自然な判断だった。
生き残るために価値のある存在を、使う。
それが魔物としての合理だった。
「リティ」
低く、落ち着いた声が彼女を呼ぶ。
「貴様は、俺の傷を治したな」
「え?」
唐突な言葉に、リティは目を瞬かせた。
「あ、あの……はい?
えっと……ワタシ、大きな草をかけてあげたの。
身体が冷えないように……」
それは、彼女が必死に考えた、唯一の“できること”だった。
知識も、道具も、力もない。
だからせめて、雨と冷気から守ろうとしただけ。
「違う」
イデアは、即座に否定した。
「傷だ。
腹と尾にあった、深い切り傷は、どこへ消えた?」
その言葉に、リティははっとして、慌てて彼の胴体へ視線を落とした。
――そこには。
数日前、確かに短剣で切り裂かれていたはずの深い傷は存在しなかった。
血に濡れ、肉が覗いていたはずの場所は、今やわずかに色の違う皮膚として残っているだけだ。
「えっ……?」
思わず、声が漏れる。
「……うそ……」
彼女は目を見開いたまま、何度もその場所を見つめた。
「ワタシ……何も、してないよ?
薬草なんて知らないし……
呪文も……魔法も……」
声は混乱で震えていた。
「知らずか」
イデアの声は、変わらず淡々としている。
「貴様の体からは、微弱だが持続的な治癒の魔力が漏れ出している」
「ち、治癒……魔力……?」
その言葉を繰り返した瞬間、リティの思考が一瞬止まった。
「ワタシが……?」
理解が追いつかない。
「……まさか……!」
彼女の胸に、これまで押し込められてきた記憶が一気に溢れ出す。
出来損ない。
役立たず。
魔力も弱く、戦えず、狩りもできない。
「ワタシ……ずっと、皆に……
出来損ないだって……役に立たないって……!」
声は震え、瞳は不安と混乱で揺れていた。
自分の中に“力”がある。
しかもそれが、誰かを助ける力だなんて――
彼女のこれまでの人生を、根底から否定する事実だった。
リティは、答えを求めるように、イデアを見上げた。
その小さな視線には、恐怖と期待、そして自分自身への戸惑いが入り混じっていた。
彼女はまだ知らない。
その“出来損ない”と呼ばれた力が、
この先、彼女自身の運命と、イデア・ヴァイパーの生存戦略を、大きく変えていくことを。
イデア・ヴァイパーは、感情の波一つ立てることなく、その様子を見下ろしていた。
怯え、戸惑い、期待に縋るような眼差し――
そうした弱者特有の反応は、彼にとって分析の対象ですらない。
彼の思考は、既に次の段階へ移っていた。
(治癒魔力を持つ個体。
単独行動では生存率が低いが、俺の傍に置けば、回復手段として機能する)
森は過酷だ。
毒、負傷、消耗――
それらは避けられない。
ならば、回復できる“駒”を持つことは、明確なアドバンテージとなる。
彼は、結論だけを口にした。
「貴様の治癒魔法は、俺にとって価値がある」
低く、淡々とした声。
「俺の近くに居ることを許す」
その言葉は、命令でも、優しさでもなかった。
ただの事実確認と、効率的判断の結果。
だが――
リティにとって、その意味は、全く異なっていた。
「……!」
一瞬、呼吸が止まる。
(……一緒に、いていい……?)
それは、彼女の人生で、誰からも与えられなかった言葉だった。
役に立たない。
邪魔だ。
消えろ。
そう言われ続けてきた彼女にとって、「近くに居ることを許す」という言葉は――
居場所そのものだった。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
目頭が、勝手に熱を帯びる。
(ワタシ……認められた……?)
理由が打算であろうと、価値の計算であろうと、関係なかった。
初めて、誰かが彼女を「不要ではない」と判断した。
それだけで、十分すぎた。
「い、イデア……!」
彼女は、弾けるように声を上げた。
「ありがとう!
ワタシ、ついていく!
ちゃんと役に立つ!頑張るね!」
声は震え、必死で、喜びを隠しきれていない。
それは忠誠の誓いでもなく、契約の理解でもない。
ただ、「捨てられなかった」ことへの、純粋な感謝だった。
しかし――
イデア・ヴァイパーは、振り返ることすらしなかった。
彼は、その言葉を受け取らなかった。
返事もしなかった。
肯定も、否定も、必要ない。
ただ、重い胴体をくねらせ、静かに背を向ける。
湿った腐葉土を押し分け、森の奥へと、ゆっくりと這い進み始めた。
(このコボルトの魔力)
(そして、集落の知識)
(全てが、俺の糧となる)
彼の思考にあるのは、生存と成長のみ。
感謝も、情も、保護もない。
それでも。
リティは、彼の背を必死に追いかけた。
小さな足で、ぬかるんだ地面を踏みしめながら。
彼女は知らない。
この同行が、どれほど過酷な未来へ繋がっているのかを。
イデアも、考えない。
この小さな存在が、自分にどれほど深く関わってくるのかを。
こうして――
利と孤独が結びついた、歪で不安定な同行関係が始まった。
それは、主従でもなく、仲間でもない。
ただ、同じ森を生き延びるための、暫定的な関係。
だが確かに、二匹はこの瞬間、
完全な孤独ではなくなった。
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