第2話


マモリコガネを倒してから、数日。


湿地帯の時間は曖昧だ。

昼と夜の境は木々に遮られ、太陽の位置すら分からない。それでも、体の内側で何かが確実に積み重なっていく感覚だけは、彼にも理解できた。


チスイコヘビの「彼」は、驚くべき速度で成長していた。


甲虫から得た微かな魔力。

そして、生まれた直後の共食いで取り込んだ生命力。

それらは彼の体内で溶け合い、ゆっくり、しかし確実に肉体を作り替えていた。


以前は大人の手のひらほどだった体は、今やその倍近い長さに達している。筋肉は密度を増し、細かった胴体には、しなやかな張りが生まれていた。体色はさらに濃い黒へと変化し、湿った泥や腐葉土の影に溶け込めば、もはや輪郭すら判別できない。


――隠れる必要が、減った。


それもまた、変化の一つだった。


だが、最も大きく変わったのは、肉体ではない。

彼の意識だった。


(俺は、強い)


その思考は、はっきりとした輪郭を持っていた。

わずか数日前まで、泥の中で兄弟たちと無意味に絡み合い、衝動のままに噛みつくだけの存在だった。それが今は、「自分」という境界を明確に意識し、成長という結果に、確かな満足を覚えている。


満たされる感覚。

勝ったという実感。

そして、自分は生き残る側だという、歪んだ確信。


彼は湿地帯の奥深くへと、新たな獲物を求めて這い進んだ。

以前のように、ただ熱を探して彷徨うのではない。目的がある。方向がある。


彼の知能は、まだ未熟で原始的だ。

それでも、経験から一つの法則を導き出していた。


――より大きな力(餌)は、より危険な場所にいる。


安全な場所には、小さな獲物しかいない。

そして、小さな獲物では、もう満足できない。


木々の根が地表に露出し、複雑に絡み合った場所。

常に薄暗く、視界が遮られ、無数の小さな生き物の気配が交差する危険な領域。


そこで、彼は新たな魔物を見つけた。


『ハシリトカゲ』


体長は、彼とほぼ同じ。あるいは、わずかに大きい。

全身は鮮やかな緑色で、湿地の中では異様なほど目立つ。その色彩は警戒色ではない。ただ、速さに絶対の自信を持つ者の色だった。


細く、しかし無駄のない筋肉で構成された四肢。

地面を蹴るたび、体が弾けるように前へ飛ぶ。その速度は、チスイコヘビの三倍――いや、それ以上に感じられた。


――速い。


それは、彼にとって初めて直面する「質の違う敵」だった。


ハシリトカゲもまた、湿地帯の底辺に属する魔物だ。

だが、その素早さゆえ、関係性は明確だった。


通常、チスイコヘビは、彼らの餌になる側。


(……食う)


その思考と同時に、彼の体が熱を帯びる。

これまでとは違う。危険だと分かっている。それでも、退くという選択肢は浮かばなかった。


むしろ、その危険性こそが、彼の成長した自我を強く刺激していた。

勝てば、さらに強くなれる。


彼は、甲虫を仕留めた時と同じ戦略を選ぶ。

複雑な策は不要だ。必要なのは、一瞬。


――不意打ち。


泥と枯れ葉に身を沈め、気配を殺す。

ハシリトカゲが別の方向に注意を向けた、その刹那。


体全体をバネのようにしならせ、跳躍。


……今だ!


ヒュッ!


空気を裂く感触。

だが、次の瞬間、違和感が走る。


ハシリトカゲは、彼の跳躍前のわずかな予備動作を、完全に捉えていた。

音もなく、トカゲの体が真横へ滑る。あまりに速く、残像が遅れて視界に残る。


彼の必殺の一撃は、虚空を噛んだ。


「ギュッッ!?」


直後、衝撃。


硬い尾が、鞭のようにしなり、彼の胴体の側面へ叩きつけられた。


――バシィッ!


世界が反転する。

体が宙を舞い、次の瞬間には地面を転がっていた。枯れ枝の塊に激突し、全身に電撃のような激痛が走る。


(速い……!)


思考が、悲鳴のように弾けた。

これは違う。これまでの獲物とは、明らかに違う。


速度だけではない。

動き、判断、立ち回り――捕食者としての完成度そのものが、上だった。


ハシリトカゲは、彼を即座に食い殺そうとはしなかった。

彼にとって、チスイコヘビは小さく、腹を満たすには足りない存在だ。


だからこそ。

トカゲは、遊ぶように彼を追い始めた。


逃げる彼の進路を、軽やかに塞ぐ。

わざと距離を詰め、わざと逃がす。


次の瞬間、鋭い爪が彼の体を裂いた。

細い胴体に走る、焼けるような痛み。赤い魔物特有の体液が、泥に滲み出る。


「シッ……ヒッ!」


声にならない音が漏れる。

逃げようにも、トカゲは常に先を取る。動けば動くほど、追い詰められていく。


一瞬の隙を突き、トカゲは跳んだ。

彼の頭部に覆いかぶさるように乗り、視界を完全に遮る。


そして、鋭い爪を立てる。


――ガリッ!


頭蓋に直接響く衝撃。

その瞬間、彼の脳内で警鐘が鳴り響いた。


(死ぬ! 食われる……!)


それは、これまでとは次元の違う危機感だった。

この相手は、自分を殺せる。



彼の本能は、完全に怯えで染まっていた。


もう、理解してしまっている。

この相手は、自分より上だ。

逃げ切ることも、振り切ることもできない。ここまで追い詰められた以上、待っているのは――上位捕食者の餌となる結末だけ。


抵抗する力は、急速に失われていた。

筋肉は思うように反応せず、呼吸は浅く、断続的になる。視界は揺れ、焦点も定まらない。小さな赤い瞳は、もう何を見ているのか自分でも分からなかった。


体の奥で、生命反応そのものが薄れていく感覚。

生きているという実感が、指の隙間から零れ落ちるように消えかかっていた。


ハシリトカゲは、その様子を見下ろしていた。


もはや、この獲物との遊びには飽きていた。

最初は少し大きな蛇かと思ったが、実際は期待外れだ。追い、痛めつけ、逃がし――それももう十分。


遊びは、終わった。

次は、食事だ。


トカゲはゆっくりと距離を詰める。

湿った地面を踏みしめる足取りに、焦りはない。確信に満ちた動きだった。彼の細い首筋が、視界の中心に収まる。


――ここで噛めば、終わりだ。


その瞬間。

ハシリトカゲの内に、ほんのわずかな『慢心』が生じた。


獲物は、もう動かない。

逃げる気力も、抵抗する力も、すでに失っている。


だからこそ、トカゲは一瞬だけ動きを止めた。

確実に仕留めるために。最も噛みやすく、最も無駄のない角度を探すために。


――コンマ数秒にも満たない、『静止』。


だが、その一瞬を。

意識を持つ蛇は、確かに捉えていた。


本能は、すでに餌としての未来を受け入れていた。

だが、思考は違った。


捕食者の座を、譲ってなどいなかった。


……オレが……

……オレが、食べる……!


その思考は、声にならない叫びだった。

死にかけの肉体の奥で、微弱な光が、最後の力を振り絞って燃え上がる。


トカゲが完全に油断し、「捕食者」としての姿勢を崩した瞬間。

彼の体内で、二つのものが衝突した。


餌として震える本能。

そして、逃げずに狩るという、異常な意思。


火花を散らし、それらはひとつに融合する。


……今だ。


彼は、瀕死の痛みを振り払い、全身の筋肉を爆発させた。

もはや理にかなった動きではない。体を壊すことすら構わない、無理やりの反応。


頭部を強引にねじり曲げ、視界が歪む中で、トカゲの首元へと噛みつく。


――ブチッ!


確かな感触。

今度こそ、牙が薄い皮膚を貫通した。


血の味を認識するよりも早く、彼は動いた。

即座に、身体全体を竜巻のように巻き付ける。首、胴、四肢――隙間という隙間を塞ぎ、トカゲの体を極限まで締め上げた。


それは、マモリコガネの時とは比べ物にならない。

彼の生命力すべてを賭けた、必死の締め付けだった。


トカゲの体が、突然の拘束に悲鳴を上げる間もなく軋み始める。

肺が圧迫され、四肢が思うように動かない。


ハシリトカゲは慌てて噛みつこうとする。

だが、身体に隙間なく絡みついた蛇の体が邪魔をし、狙いが定まらない。そのまま体勢を崩し、地面へ倒れ込んだ。


それでも暴れる。

振りほどこうと、力任せに身を捩る。


だが、すでに勝敗は傾いていた。

体勢を失った捕食者に、逃げ場はない。


――パキィッ!


乾いた音が、湿地帯に響いた。

骨が折れる音だった。


トカゲの抵抗が、急速に弱まっていく。

暴れは痙攣へと変わり、やがて、それすらも止まった。


完全な静止。


一つの生命反応が、湿地帯から消えた。


それは、ただの自然の営みではなかった。

力の差や偶然だけで決まった結果でもない。


意識を持った弱者が、

ほんの一瞬の判断と意思によって、運命をねじ曲げた。


とても大きな。

だが、この世界にとっては、あまりにも小さな出来事だった。


――そして、確実に。


彼は、「餌」ではなくなっていた。


 

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