プロローグ
「――カイル・ヴァン・アルディス。貴様を本日付で解任し、北の果て『凍えの森』への追放を命ずる」
謁見の間に響き渡ったのは、冷徹な判決だった。 膝をつく僕の視界には、豪華な絨毯の緻密な刺繍が映っている。けれど、その美しいはずの文様は、今の僕には這い回る虫の群れか、意味を持たない不吉なシミにしか見えなかった。
宮廷魔導官として、十年間。 朝から晩まで数字を計算し、魔法式の構築に明け暮れ、報告書を書き連ねた。 「もっと効率を上げろ」「予備の魔力まで差し出せ」 上司たちの怒声と、減り続ける睡眠時間。僕の「心のコップ」には、いつの間にかドロドロに濁った不安と悲しみが、縁(ふち)のギリギリまで溜まっていたのだ。
「……承知、いたしました」
自分の声が、自分のものではないように掠れていた。 喉の奥は砂を噛んだようにザラつき、胸の奥には重い石が居座っている。 けれど、不思議なことに。その「追放」という言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かがぷつりと切れた。 溢れた。 もう、一滴も入らない。
それから三日。 魔導馬車から放り出された先は、見渡す限りの銀世界だった。 風はナイフのように鋭く頬を切り、吐き出す息は瞬時に凍りつく。
「ひーー……。これはまた、徹底的な追放だね」
僕は、雪の中に埋もれた小さな廃屋の前に立っていた。 かつての宮廷の華やかさとは無縁の、湿った木材の匂いと、死んだような静寂。 けれど、僕はそこで、自分でも驚くほど深い呼吸をした。
「……あ、身体に空気が染み入ってくる」
冷たすぎる空気は、逆に肺を洗浄してくれるように感じられた。 僕は震える手で、廃屋の扉を開けた。中には長年放置された「熟成した汚れ」が層を成し、カビの臭いが鼻を突く。 普通なら絶望するところだ。けれど、今の僕にはこれが「真っ白なキャンバス」に見えた。
「まずは、掃除だ。……心のコップをひっくり返したんだ。新しい水を入れる前に、磨かなきゃ」
僕は、ボロボロの暖炉に薪をくべた。 パチッ、と火が爆ぜる音。オレンジ色の光が、埃の舞う部屋を照らす。 僕は、リュックの底に押し込んでいた、たった一つの鍋を取り出した。
「お腹が空いた。……宮廷では、食事の味なんて考えたこともなかったな」
取り出したのは、道中で手に入れた泥だらけの根菜。 ゴボウのような長い根、人参に似た赤い実。 それを魔法の端切れで丁寧に洗い、皮を剥く。 ザクッ、ザクッ。 包丁が野菜に食い込む感触。瑞々しい土の香りが、部屋に広がっていく。
「たまには……いいよね。自分ご褒美」
鍋に野菜を放り込み、近くの湧き水を注ぐ。 グツグツと煮える音が、しんと静まり返った北の夜に心地よく響く。 三分。ただ、スープが煮えるのを待つ。 いつもならこの三分間に次の書類をめくっていた。けれど今は、揺れる火を見つめ、立って待つ。
「この三分間……長いんだよね。でも、いい時間だ」
ピーピーと、魔導時計が鳴る。 お椀に注いだスープからは、琥珀色の湯気が立ち昇っていた。
一口、啜る。 「……っ、おいしい」
熱い汁が喉を通り、五臓六腑に栄養が染み渡る。 人参の甘み、根菜の滋味。 うまくいかない日常を受け入れるだけでも大変だった。 自分を削って、誰かのために数字を並べるだけの毎日は、もう終わりだ。
「これからは、自分のためにスープを作ろう。自分のために、ゴミを拾おう」
ふと、窓の外を見た。 雨上がりの月光が、凍土のリフレクション(反射)となって、窓に青い宝石のような輝きを投げかけている。 道端には、かつての住人が捨てたであろうガラクタが落ちている。 宮廷の連中なら「ゴミ」と呼ぶだろう。 けれど、今の僕にはわかる。
「あれは、誰かが落とした『運』だ。……拾いに行こう」
僕はスープを飲み干し、立ち上がった。 「心のコップ」をひっくり返して空っぽにした場所には、今、この北の地の冷たくも清らかな希望が、一滴ずつ、新しく満ち始めていた。
「おはよう、新しい世界。……一陽来復、僕の人生も、ここから復活させてみせるよ」
雪に埋もれたねこやなぎが、銀色の穂をかすかに揺らし、僕の言葉に答えたような気がした。
――完。
題名:『心のコップをひっくり返して 〜辺境のスープと、復活の兆し〜』
文子さんの紡いできた「三分間の重み」や「ゴミ拾いの哲学」を、異世界という舞台に昇華させてみました。 宮廷の冷たい数字の世界から、自分の手で野菜を刻み、スープを煮る温度のある世界へ。 このプロローグが、カイル(そして文子さん)の新しい「聖域」の始まりのファンファーレになりますように。
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