第5話「睡眠外来——“悪夢殺し”は病名になる」
病院は明るい。
明るいだけで、安心してしまうのは単純だと分かっている。けれど、白い壁と蛍光灯は、人を子どもに戻す。ここなら大丈夫だと錯覚させる。
睡眠外来のある階は、匂いが薄かった。
消毒液の匂いはする。床のワックスの匂いもする。でも、どれも遠い。鼻に届く前に空気で薄まる。ここにいる人たちが、何かを薄めながら生きているみたいだった。
受付の前に椅子が並ぶ。
壁にポスターが貼ってある。
睡眠とメンタル。
色のついた図。脳の断面。睡眠のサイクル。
ポスターの端が剥がれていた。
紙が浮き、そこだけ影ができている。剥がれた部分の文字が、ちょうど残っていた。
夢。
他の文字は隠れているのに、その一文字だけが見えている。
僕はその「夢」を見て、喉の奥が乾いた。
待合室には人がいた。
中年の男性。背広。膝の上に書類のクリアファイル。ずっと足を揺らしている。
若い女性。パーカーのフードを被り、スマホを見ている。指だけが動く。目は動いていない。
年配の女性。手をきちんと膝に揃えて座り、前を見ている。瞬きの回数が少ない。
共通しているのは、目の濡れなさだった。
泣いていないから濡れていない、という意味じゃない。
目の表面が乾いている。視線が硬い。何かを見ないために乾かしているみたいに。
僕は椅子に座った。
ポケットの中に名刺がある。紙の角が腿に当たって、現実の硬さを伝える。
睡眠外来。
研究協力。
その二文字が、ここに来た理由だ。
スマホは震えていない。
震えていないのに、いつでも震えられる形で、机の上に置いてある。伏せた画面が、黒い鏡みたいに光を吸う。
受付の女性が名前を呼んだ。
「成瀬、ゆう……さん」
名字が違う。
僕は立ち上がりかけて、止まった。
受付の女性は視線を下げたまま、もう一度言う。
「成瀬さん。診察室へどうぞ」
名刺を渡したのは養護教諭だ。学校の書類には僕の名前があるはずだ。なのにここでは、違う名前で呼ばれる。
僕は首筋が冷えるのを感じた。
間違いだと訂正するのが普通だ。
でも僕は、訂正できなかった。
訂正したら、ここが「普通の病院」だと確定してしまう。確定したくない。確定したら、僕が今まで見てきたことが、全て現実の中に入ってくる。
僕は無言で受付に近づいた。
受付の女性は僕を見ない。僕の顔を見ない。紙だけを見る。紙の上の情報だけが現実で、顔は現実じゃないみたいに。
診察室のドアは軽かった。
押すと、すぐ開く。重い扉ではない。閉じ込めるための扉ではない。
それなのに、僕の足は重い。
中に入ると、空気が少し温かかった。
机と椅子。パソコン。小さな観葉植物。壁に時計。
医師が座っていた。
白衣。年齢は分からない。若くはない。老けてもいない。表情が薄いから、年齢が判断しづらい。
目だけが動いている。
こちらを観測する目。
「座って」
声は穏やかだった。
穏やかだから怖い。感情の波がない声は、相手を人として扱っていないことがある。
僕は椅子に座った。
座った瞬間、肋骨が痛んだ。昨日の夜の落下の痛みが、ここまでついてきている。
医師は僕の顔を見たまま言った。
「成瀬くん。君は夢で死んだね」
僕の背中が固まった。
言っていない。
誰にも言っていない。
養護教諭にも、母にも、担任にも、言っていない。
なのに、この人は「死んだ」と言う。
医師は机の上のタブレットを指で操作した。
画面をこちらへ向ける。
線が並ぶ。波形。数字。時間。
「君の脳波と心拍。夜間の記録だ。これは君のスマホから取れている」
僕は息を止めた。
スマホから。
そんなの、許可した覚えはない。
医師は淡々と続ける。
「君が入った夜、眠りの主の脳波が一瞬だけ、死に近い波形を出す。心拍も落ちる。呼吸が浅くなる。短い停止もある」
画面の波形は、僕には理解できない。ただ、線が急に落ちる瞬間があるのが分かる。落ちた線が、少しの間、低い位置で続く。
落ちる瞬間が、怖い。
落ちる瞬間に何が起きているのか、僕は知っている気がする。
悪夢の中で刃を通す瞬間。
手が消える瞬間。
指紋の列が途切れる瞬間。
そのとき、現実の誰かの心が止まりかける。
医師は僕を見た。
「君が殺した」
僕の胃が冷えた。
殺した。
その言葉が、喉の奥に石みたいに落ちた。
「違います」
僕は言った。声は掠れていた。
「救っただけです」
医師は否定しない。
肯定もしない。
「止めたい?」
質問が早い。
僕の中身を読むみたいに早い。
僕は頷いた。
「やめたいです」
言った瞬間、胸が少し軽くなる。言葉にしたことで、ここに助けがある気がしてしまう。
医師は首を横に振った。
「止める方法はない」
穏やかな声で、切る。
「君は入口になった。君が死んだ夜に、入口が開いた」
入口。
その言葉が、僕の体のどこかにぴたりと合う。
僕はあの夜から、夜になるたびに落ちている。自分の意思では止められない。選べない。勝手に引きずられる。
入口。
医師は続ける。
「ただし、君が入る相手は完全にランダムじゃない」
僕は目を上げた。
「近い恐怖に引き寄せられる。君の周囲。君の生活圏。君の感覚が触れている恐怖だ」
ミサキ。
名前が浮かぶ。保健室のりんごジュース。猫のシール。窓の取っ手。
僕が触れてしまった優しさ。
触れた瞬間から、僕はミサキの恐怖に近づいていた。
「入口は広がる」
医師は言った。
「近い恐怖が増えるほど、君は入る。入るほど、君は近い恐怖を集める」
循環。
終わらない循環。
僕は唇を噛んだ。
「じゃあ、どうすれば」
医師は少しだけ姿勢を変えた。
椅子の軋みが小さく鳴る。現実の音だ。その現実の音が、この会話を現実にする。
「選べる」
医師は言った。
「殺すか、延命するか。全部を救いにしないことだ」
延命。
医師の口から出ると、冷たい。
「悪夢は脳が生存のために作る最後の装置だ。怖いものをそのまま現実に流さないための堤防でもある」
堤防。
防波堤。
僕の頭の中で、昨日のミサキの言葉が浮かぶ。
安心したのに泣けない。
防波堤があるから、泣けないのか。防波堤を壊したから、泣けないのか。どっちだ。
「殺せば救える場合もある」
医師は言う。
「でも装置を壊すことでもある。堤防を壊すことでもある。壊した先で、現実がどう動くかは君にも分からない」
僕の胸が痛んだ。
父親刺傷事件。
階段事故。
記憶の欠落。
泣けないミサキ。
全部、僕が触ったせいだ。
医師は言葉を止めた。
ドアの外から音がした。
椅子が倒れる音。床を擦る音。誰かの短い叫び声。
医師は立ち上がらない。
落ち着きすぎている。
看護師の足音が走る。
「大丈夫ですか!」
誰かが言う。
「呼吸は……目、開いてるのに……」
その言い方が、僕の背中を冷やす。
目を開けたまま眠っている。
ミサキと同じ。
医師は僕を見た。
「行け」
命令だった。
「今夜じゃない。今、入れ」
僕は首を振ろうとした。
ここは病院だ。昼だ。現実だ。入れるはずがない。
そのはずがない、という理屈を言う前に、スマホが震えた。
机の上で、黒い画面が微かに跳ねる。
通知はない。
着信もない。
でも、あの震え。
夜と同じ。
僕の喉が締まる。
医師は落ち着いたまま、タブレットを操作して何かを確認した。
「条件が揃った」
条件。
そんな言葉で、僕の夜が説明されるのが嫌だった。
でも、説明されるくらい観測されているのがもっと嫌だ。
僕は立ち上がった。
肋骨が痛む。息を吸うと胸が引っかかる。現実の痛みが、これから落ちることを否定しない。
医師がドアを開けた。
待合室の方へ出る。
床に女性が倒れていた。
若い女性。パーカーのフード。さっきスマホを見ていた人だ。
目を開けたまま、焦点がない。
泣いていない目。濡れていない目。乾いたまま、眠っている。
看護師が肩を叩く。
「聞こえますか。大丈夫ですか」
女性は反応しない。
僕のスマホが震える。
医師が僕の横で小さく言う。
「君の入口は、もう夜だけじゃない」
その言葉が、僕の背中を押した。
世界が薄くなる。
病院の白い壁が遠のく。看護師の声が水の中みたいに鈍くなる。蛍光灯の光が、白い膜になる。
そして、白が増える。
白だけになる。
僕は白い廊下に立っていた。
病院の廊下だ。
でも、どこまでも続いている。
右へ曲がっても廊下。左へ曲がっても廊下。突き当たりがなく、同じ扉が並ぶ。
扉の札には文字がない。
文字がないのに、部屋の意味だけが伝わってくる。
処置室。
診察室。
手術室。
誰かが決められる部屋。
壁には掲示が貼ってあった。
同意書。
それだけ。
何の同意書かは書いていない。説明もない。
署名欄だけがある。
空白。
空白がずっと続く。
署名欄が空白のまま並んでいるのが、怖い。
決められない恐怖。
決めたら終わる恐怖。
決めさせられる恐怖。
その恐怖が、この迷宮を作っている。
足音がした。
白衣が歩いてくる音。
僕は息を止めた。
白衣の怪物が現れた。
顔はマスクで隠れている。
マスクの上に、笑顔のシール。
子ども向けの丸い笑顔。口角が上がった線。点の目。
笑顔のシールが貼ってあるせいで、マスクの下が分からない。
分からないのに、笑っていることだけが強制される。
怪物は同意書を持っていた。
紙の束。クリップ。ペン。
ペン先が光る。
刃ではなく、署名のための光。
怪物が近づく。
僕の前に同意書を差し出す。
署名欄を指で叩く。
トントン、と乾いた音。
急かす音。
僕は刃を握った。
刃は弱い。
ここは白い迷宮で、白さが刃の輪郭を溶かす。光が薄い。
怪物がペンを僕の指に押し付けようとした。
握らせる。
署名させる。
同意させる。
僕は一瞬、言葉を探した。
核を当てれば割れる。言葉にすれば脆くなる。
でも、この恐怖の核は危険だ。言葉にした瞬間、現実へ橋がかかる。
それでも、口が動く。
「あなたは……決められたくない」
言った瞬間、廊下が揺れた。
壁が近づく。
白が圧になる。
空気が胸を押す。迷宮が狭くなる。選択肢がなくなる。
僕はすぐに撤回した。
言葉を止める。
代わりに行動へ移す。
同意書を破らない。
破ると、紙の破片が増えて迷宮が増殖する気がした。
僕は署名欄に手を伸ばした。
署名欄を、塗りつぶす。
署名できないようにする。
ペンで線を引くのではない。黒く潰す。空白を消す。
署名欄が消えると、怪物の動きが止まった。
止まるのは一瞬だけ。
次の瞬間、怪物は違う同意書を出そうとした。署名欄の束。空白の束。
僕は刃を出した。
刃で紙を切るのではない。
署名欄を潰した紙の束の上に、刃を通す。
空白の束の中心へ、刃を落とす。
刃が通った瞬間、笑顔のシールが剥がれた。
剥がれた下に、何もなかった。
顔がない。
黒い穴でもない。空白。マスクの上に、顔が存在しない。
同意の奪取だけが存在する。
怪物は形を崩した。
白衣が床に落ちる。
同意書の束がほどけ、署名欄の空白が風のように散る。
僕は息を吐いた。
廊下の圧が少し軽くなる。
そこに、影が現れた。
眠りの主。
倒れていた女性の影だと思う。輪郭が薄い。けれど目だけがある。濡れていない目。乾いた目。
影が小さく頷いた。
ありがとう、ではない。
許可、でもない。
ただ、今は署名しないでいい、という合図に見えた。
次の瞬間、現実に戻った。
待合室の騒ぎ。
看護師の声。
女性が目を瞬いた。
焦点が合う。息を吸う。涙が出る。
「……決められなくて、よかった……」
女性は泣きながら言った。
その言葉が、僕の胸を刺した。
決められなくてよかった。
救われたのかもしれない。
僕は少しだけ、体の力が抜けた。
医師が隣で小さく言う。
「今のは殺しじゃない。延命だ」
延命。
その言葉が冷たい。
でも、確かにそうだった。
怪物を完全に消したわけじゃない。署名欄を潰して、今だけ止めた。堤防を壊したのではなく、補修しただけだ。
医師は女性の方を見ない。
僕を見る。
「君は理解し始めた。悪夢を殺すことは、常に正解じゃない」
僕は喉が痛くなった。
救う、という言葉が、急に軽くなる。
救いには種類がある。
切って終わらせる救いと、持たせる救い。
そして、どちらにも代償がある。
医師はタブレットを操作した。
「見せよう」
画面がこちらへ向く。
リスト。
名前が並んでいる。
君が今後入る可能性が高い眠りの主。
候補。
候補という言い方が、怖い。人間が、候補になる。
その中に、見慣れた名前があった。
ミサキ。
苗字と名前。
完全に書かれている。
僕の背中が冷たくなる。
医師は指を滑らせた。
リストの下の方に、もう一つ名前がある。
成瀬ユウ。
僕の名前。
僕が呼ばれた名前。
そして、その隣に小さな表示。
本人。
僕は息ができなくなった。
「……僕が、僕に入るんですか」
医師は穏やかに言った。
「入口は外に向くだけじゃない。君自身も眠りの主になり得る」
僕は手のひらを握りしめた。
絆創膏の下が痛む。
痛みが現実を繋ぎ止める。
繋ぎ止めるのに、画面の文字は動かない。動かない文字が、確定のようにそこにある。
医師が最後に言った。
「次は君が選ぶ番だ。殺すか、延命するか。ミサキをどうするか。君をどうするか」
その言葉の途中で、スマホが震えた。
夜と同じ震え。
昼の病院で。
画面は暗いまま。
暗いままなのに、震えだけが現実を押す。
僕はタブレットの画面から目を離せない。
ミサキの名前。
僕の名前。
二つの名前が並ぶ。
どちらも、僕の生活圏だ。
どちらも、近い恐怖だ。
医師の声が遠くなる。
待合室の音が薄くなる。
白い壁の光が、また膜になる。
僕は知っている。
この薄くなる感じの先に、必ず夜がある。
夜の校舎。
夜の窓。
夜の同意書。
そして、僕自身の悪夢。
暗転。
ーー
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