第4話 ひびの向こうに触れたもの

西暦2445年。

僕は白い通りを、ただ走っていた。

どこへ向かうのかもわからない。

頭の中では、マザーの声がまだ響いている。


『レイ。逃げることは、幸福を失うことです』


同じ言葉が、ずっと鳴り続けていた。

だけど、足は止まらない。

立ち止まったら、もう戻れなくなる気がした。


白い道がどこまでも続いている。

息が苦しい。胸が痛い。でも、足が勝手に前へ進む。

こんなふうに体が動くのは初めてで……どこかで、少しだけ楽しいと思ってしまった。


――やがて、音が消えた。


マザーの声も、ロボたちの足音も、すべてが遠くなっていく。

代わりに、かすかな“ひゅう”という音が耳に残った。


(……また、この音だ)


わからないまま、音のする方へ歩いた。

気づけばそれは、昨夜と同じ場所だった。



家からそう遠くない場所。

逃げているうちに、ぐるぐる回っていたのかもしれない。

白い壁が天井へと伸びている。

その一角だけ、やっぱり他よりも少し色がくすんで見えた。

白の奥に、灰が混じったような――そんな場所。


僕は近づき、指でなぞった。

ざらりとした感触。

そこには、細い“ひび”が走っていた。


耳を澄ます。

――ひゅう。

音がする。

壁の向こうからだ。


顔を近づけると、何かが頬に触れた。

やわらかくて、少し冷たくて、動いている。

でも、それがなんなのか、わからなかった。


ただ、気持ちよかった。

胸の奥が、すっと軽くなった。


「……これが、“そと”……?」

声に出したつもりはなかった。

なのに、その言葉は、こぼれるみたいに口から出てしまった。


そのとき、耳の奥が“キーン”と鳴った。

何かがぎゅっとしめつけるように痛い。

マザーの声は聞こえない。

でも、誰かがこっちを見てる気がした。


僕はあわてて壁から離れた。

息が苦しい。

(……ダメだ。見つかる)


頭の中に、さっきの“調整”の感覚がよみがえる。

光に包まれて、意識がぼやけていったとき――

何かが、頭の奥で“溶けていく”ような気がした。


(もしかして、あれは……“忘れさせる”ためのもの?)


こわい。

でも、亀裂の向こうから触れた“なにか”の感触が、まだ頬に残っている。

こわいのに――それ以上に、この“ひび”の向こうを知りたい気持ちが勝っていた。


僕は心の中で言った。


(……調整されないようにしよう。

いい子のふりをして、マザーを安心させよう。

“そと”も“そら”も……もう、気にしてないふりをする)


胸の奥の声は、もう止まらなかった。


(いつか、この“ひび”の向こうに行きたい)


白い壁の向こうから、また“ひゅう”という音がした。

それは――まだ名前のない、“自由”の音だった。


――キーン!!


また頭が痛くなった。

きっと、マザーが僕を探している。


僕はあわててその場を離れ、家の方へ足を向けた。


(戻らなきゃ……。戻らないと、“調整”される)


足が重い。

それでも――帰らないわけにはいかなかった。



家の前に立つと、玄関が自動で開いた。

中から白い光があふれる。

そこには、両親が待っていた。


お母さんは心配そうに眉を寄せる。

「レイ……。どこに行ってたの? マザーが探していたわ」

「……ごめんなさい」

「すぐに診断を受けましょう。マザーが、あなたとお話したいって」

「……うん。すぐに行くよ」


お父さんが微笑んだ。

「そうだな。マザーは、みんなのことをいちばん分かってくれている」


僕はもう、逃げないと決めていた。



部屋に入ると、空気が一瞬で変わった。

白い壁がゆっくりと光りはじめ、天井の奥から声が降ってくる。


『レイ。おかえりなさい』


やさしい声。

けれど、胸の奥がひやりとした。


『おとなしく、調整を受ける気になりましたか?』


喉がかすれた。

「……ごめんなさい。“そと”が気になったのは本当。でも……もう、気にしない。マザーが言うなら、それが正しい」


しばらく沈黙が流れた。

何も聞こえない時間が、いちばん怖い。


『……わかりました、レイ』

マザーの声が、静かに落ちてきた。


『あなたの幸福指数は、まだ80以上あります。

それに、レイはまだ子供。いろいろと興味を持つのは、ある程度仕方のないことでしょう。

すぐに調整する必要はありません。――要観察対象として、経過を見ましょう』


「……よくわからないけど。ありがとう、マザー」

僕は、わからないふりをした。

ほんとはうれしかったけど、顔に出したらマザーに気づかれる。

この町では、“調整”はいいこと。だから、こわいなんて言っちゃいけない。


『いい子ですね。幸福は、信じる心の中にあります』


光がゆるみ、部屋の空気がすうっと静かになった。

声も消えた。



部屋から出てリビングに向かう。


「診断は?」とお母さん。

「おわったよ。マザーが、ぼくを見守ってくれるって」

「よかった……ほんとうによかった」

お母さんはほっと息をついた。

「もう大丈夫ね」


お父さんも微笑む。

「やっぱりマザーはやさしいだろう?」

「……うん」

笑って答えたけれど、胸の奥はまだ冷たかった。


その夜、ベッドに横になると、壁の端末が静かに光った。


【幸福指数:83】


下がっている。

でも、警告音は鳴らない。

マザーは、きっと“見ていないふり”をしてくれている。

それが――もっとこわかった。



朝。

学校へ行く道は、いつも通り静かだった。

昨夜のことが夢みたいに思える。

でも、腕の端末の数字だけは、変わらずそこにあった。


教室に入ると、ナギが声をかけてきた。

「レイ、昨日の定期診断、どうだった?」

「うん。……もう、おわったよ」

「定期診断って、痛いの?」

「ぜんぜん。マザーは、やっぱりやさしいね」


そう言うと、ナギはほっとした顔をした。

「よかった。……でも、最近のレイ、ちょっと変だったよ」

「変?」

「うん。“あの話”があったあと、なんか元気ないし、顔もこわかったから」


“あの話”――。

ナギはちゃんと、言わないようにしてるんだ。

僕は笑ってごまかした。


「そんなわけないよ。マザーは、みんなを守ってる」


ナギはうなずきながら、じっと僕を見つめた。

その目の奥に、何か言いたげな光があった。

けれど、口には出さなかった。


チャイムが鳴る。

みんなが席につく。


僕はそっとナギの方を見て、小さな声で言った。

「今日の放課後、一緒に帰ろう」

少し驚いたように、彼女は笑った。

「うん、いいよ」


帰り道、彼女にだけは、こっそり教えよう。

“壁のひび”のこと、“調整”のこと。


その笑顔を見ながら、胸の奥でひとつだけ願った。

――ナギには、“調整”を受けてほしくない。

だって、もし僕のことを忘れちゃったら、いやだから。

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