第6話 最初の死

 朝の森は静かだった。


 静かだというのに、どこか落ち着かない。鳥の声が遠い。葉を揺らす風が薄い。火の匂いも弱い。空気の中にあるはずのものが足りないと、代わりに体の不調が目立つ。


 静は歩きながら、背中の蓮の体温を気にしていた。


 いつもなら、背に触れる頬は温かい。温かいというより、柔らかい熱がある。子どもが生きている熱だ。だが今日は、妙に熱い。火に近づいたときの熱と似ている。生きている熱ではなく、燃えている熱に近い。


 蓮は言葉を増やしていた。


 痛い。寒い。腹。水。寝る。


 けれど、今日の蓮は何も言わない。腕を回す力が弱い。静の首に触れる指先が湿っている。汗の湿り気だ。


 静は足を止めないまま、蓮の額に手を回した。触れた瞬間、手のひらが引く。熱い。


 森の中にいて、火から離れているのに熱い。


 静は喉の奥が乾いた。


 前にも似たことがあった。蛇に噛まれた夜。蓮の額が熱くなった。けれど、あのときは熱が上下した。冷たい布で拭くと少し落ち、眠るとまた上がった。それでも、朝には少し戻った。


 今日は違う。熱が一定のまま張りついている。


 静は集団の先頭へ追いつき、女に声をかけた。


「止まる」


 女が振り返る。


「何だ」


「子ども」


 静は蓮の体を軽く揺らし、女に見せた。蓮は目を開けるが、焦点が合わない。木々の影を見ているのか、静の肩を見ているのか分からない。唇が乾いている。舌が出ない。水を飲みたがる動きがないのが怖い。欲しがる余力がない。


 女は一瞬だけ眉を寄せ、すぐに目を細めた。


「歩けないなら捨てる」


 言葉は短い。だが、空気は重い。男たちの視線が集まる。腹の減った視線は冷たい。冷たい視線は、蓮の体温を余計に浮かび上がらせる。


 静は頷いた。


「捨てない」


 それだけ言った。言った瞬間、自分の声が硬いと気づく。硬い声は目立つ。目立つが、引けない。


 女は舌打ちをし、顎で森の奥を指した。


「水のあるとこへ行け。遅れたら置いていく」


 静は頷いた。


 置いていくと言われても、静は遅れるしかない。蓮を背負って走ることはできても、群れと同じ速度では長く動けない。静は背の蓮の熱を感じながら、歩き方を変えた。足場のいい場所を選び、息が上がらない速度を保つ。自分が疲れ切ると、蓮を落とす。


 森の中を少し進むと、小さな窪地に出た。湿った土と、弱い水の音。沢というほどではないが、地面の間から水が滲んでいる。女の言った場所だ。


 静は蓮を下ろし、草の上に寝かせた。


 蓮の顔は赤い。赤いのに、唇の色が薄い。目は開いているが、視線が泳ぐ。まぶたが重そうで、何度も閉じかける。


 静は器で水をすくい、蓮の口に当てた。


「飲め」


 蓮は口を開けない。顎が硬い。歯が噛み合っている。静は焦りを飲み込み、唇を濡らすように水を垂らした。


 水が唇を伝い、顎から落ちる。


 蓮はそれを舐めることすらしない。


 静は背中が冷えるのを感じた。


 静は蓮の頬を軽く叩いた。強く叩けない。強く叩けば、骨が折れるかもしれない。蓮の体は弱っている。


「蓮」


 静は名前を呼んだ。


 名前は普段、必要なときだけ使う。だが今は、必要だ。必要なときというのは、相手をこの場に留めたいときだ。


 蓮の目がわずかに動いた。


 静を見る。見るが、見ているというより、音の方を向いている。


 静は水をもう一度口に当て、今度は舌の先に触れさせるように慎重に傾けた。水が舌に触れた瞬間、蓮の喉が小さく動いた。


 飲んだ。ほんの少し。


 静はそれだけで胸の奥が痛くなるほど安堵した。安堵はすぐに恐れに変わる。少ししか飲めない。飲めないと、熱は下がらない。熱が下がらないと、体は壊れる。


 静は布を水に浸し、蓮の額を拭いた。


 布が触れた瞬間、蓮が小さく身をよじった。痛いのではない。冷たさに驚いた動きだ。冷たさに驚けるなら、まだ戻ってこられる。静はそう思い込もうとした。


 けれど、蓮の動きは続かなかった。


 すぐに体が力を失い、草の上に沈む。手がだらりと落ちる。指の傷に巻いた布が、汗で湿っている。


 静は蓮の手を取った。


 熱い。熱いのに、握り返す力がない。


 静は蓮の耳元で言った。


「寝るな」


 蓮は反応しない。反応が遅い。遅いというより、反応が薄い。薄い反応は、体の奥から遠ざかっている証拠だ。


 静は火を起こすことを考えた。火があれば湯が作れる。湯があれば体を拭ける。だが、火は煙を出す。煙は人を呼ぶ。今は群れから少し離れている。煙を上げれば、群れが戻ってくるかもしれない。戻ってくると、蓮は捨てられるかもしれない。


 静は火を起こさず、水でできることだけを続けた。


 額を拭く。首筋を拭く。脇を拭く。体の熱を逃がすために、肌に触れる場所を冷やす。蓮の皮膚は熱で乾き、汗が粘る。布が頬に触れるたび、布が熱を吸ってすぐ温くなる。


 日が傾き始めた。


 森の光が黄金色になり、影が伸びる。影が伸びると、夜が近い。夜が近いと、冷える。冷えれば蓮の体はどうなる。熱があるときに冷えれば、逆に体が震えるかもしれない。震える力が残っているか。


 静は自分の手のひらを見た。


 昨日、自分の傷が戻った。戻るという現象は静だけのものだ。静は戻る。戻るから、生き残る。戻るから、死の境を越えても帰ってくる。


 蓮は戻らない。


 蓮は、戻るという言葉を覚え始めている。覚え始めているのに、戻れない側だ。


 静は喉の奥がひりつくのを感じ、唇を舐めた。


 自分が戻ることが、今ほど憎いと思ったことはない。


 夜が来た。


 森の温度が落ちる。水の匂いが濃くなる。虫の声が増える。暗くなると、音が大きく感じる。枝の擦れる音が、誰かの足音に聞こえる。遠くの獣の鳴き声が、すぐ近くにいるように思える。


 静は蓮を抱え、木の根元の窪みに移した。背中を木に預け、蓮の体を膝に乗せる。蓮の熱が静の服を通して伝わる。静の体が、蓮の熱で温められる。逆だ。静が蓮を温めるべきなのに、蓮の熱が静を侵す。


 蓮が小さく咳をした。


 咳は乾いている。喉が乾いている証拠だ。静は水を口に含ませようとするが、蓮の唇は閉じたまま動かない。歯の間が固い。顎がこわばる。


 静は蓮の口元を濡らす。濡らすと、蓮の喉が小さく動く。だが、その動きの後、蓮の胸が妙に止まる。止まるというほどではないが、間が空く。次の息が来るのが遅い。


 静は蓮の胸に手を当てた。


 胸は上下している。だが、動きが浅い。浅い動きは体の奥の疲れだ。体の奥が熱に負けている。


 静はそのことを認めたくなくて、布をもう一度水に浸し、蓮の額を拭いた。首筋を拭いた。手のひらを拭いた。足首を拭いた。できることを手当たり次第に繰り返す。


 できることは、少ない。


 できることが少ないことが、静を焦らせる。


 焦りは手を早くする。早くすると、蓮の体が揺れる。揺れると、蓮の吐き気が出るかもしれない。静は自分の動きを止め、息を整えた。


 静は蓮の耳元で言った。


「蓮。俺を見る」


 蓮の目がわずかに開く。目は濡れている。涙ではない。熱のせいで滲んでいる。


 蓮の視線が静に向く。


 静はその視線が、どこか遠いことに気づく。静の顔の輪郭を見ているのではない。静の声を頼りに、音の方向を向いている。


 静は蓮の手を握った。


 蓮の手は熱い。だが、指先が少し冷たい。体の中心が熱くなりすぎると、末端の温度が落ちることがある。静はそれを知っている。知っているが、こういう形で思い出したくなかった。


 蓮が小さく言った。


「……しず」


 声は薄い。薄い声の中に、安心が混じっている。安心できるのは静がいるからだ。安心できるのは、この瞬間だけだ。


 静は頷いた。


「ここ」


 その言葉が、嘘にならないようにしたかった。


 蓮の体が熱に負けるたび、静の胸の奥に、昔の土の盛り上がりが浮かぶ。盛り上がりは丸い。丸いものは優しい形をしているのに、中にあるのは終わった体だ。


 終わり。


 終わりを、静はまだ蓮に教えていない。


 教えていないというより、言葉がない。死という言葉が、蓮の中にまだ固まっていない。固まっていないから、蓮は今日という日が終わっても、明日が来ると信じている。


 静はその信じ方が眩しくて、痛い。


 夜が深くなるにつれて、蓮の様子が変わっていった。


 熱が少し落ちたように見える瞬間がある。落ちたと思った瞬間、逆に怖くなる。熱が落ちたのではなく、体が熱を作れなくなっている可能性があるからだ。


 蓮の皮膚が汗で湿る。湿っているのに、指先が冷える。口の周りが乾く。唇がひび割れ、息が薄くなる。薄い息が、時々引っかかるように止まる。


 静はそのたびに蓮の名前を呼んだ。


「蓮」


 呼ぶと、蓮の目が開くことがある。開くが、すぐ閉じる。呼んだ声が届く距離が短くなっている。


 静は水を含ませた布を蓮の舌に触れさせた。蓮はそれを飲み込む力が弱い。飲み込めずに、口の端から垂れる。垂れた水が頬を伝い、首元に落ちる。体がそれを温める余力がない。


 静は自分の手のひらを見た。


 この手は、何度折れても戻った。何度裂けても戻った。死んでも戻った。


 戻るというのは、救いではない。


 戻るというのは、見送るということだ。自分だけが戻り続ける限り、他者の終わりを何度でも見ることになる。


 静はそれを理解したくなかった。


 理解したくないのに、目の前で理解させられている。


 蓮が息を吸う音が変わった。


 変わったというのは、音が増えるということではない。音が減る。体の中で動いていたものが、少なくなる。薄い紙を擦るような音に変わる。


 静は蓮の胸に耳を近づけた。鼓動はまだある。あるが、速い。速いのに弱い。弱い速さは、体が必死に持ちこたえている証拠だ。


 静は蓮の頬に触れた。


 熱はある。だが、熱が均一ではない。熱い場所と、冷たい場所が混じっている。体の内側が乱れている。静はそれを、手のひらで感じるしかない。


 蓮が突然、目を開けた。


 目が大きい。だが、焦点は合っていない。蓮は静の顔を見ているのではなく、静の後ろの闇を見ている。


 蓮の唇が動く。


 言葉にならない音が出る。息が薄いから、音が形にならない。


 静は蓮の口元に耳を寄せた。


「……ない」


 蓮が言った。言ったというより、漏れた。


 静は眉を寄せる。


「何が」


 蓮の目が静に戻る。戻るが、戻り方が弱い。目の中の光が薄い。


「……あした」


 蓮はそう言った。


 静は背中が冷えるのを感じた。


 蓮は明日という言葉を持っている。明日が来るという前提を持っている。その前提が、今揺らいでいる。蓮は体の中で何かを感じ取っている。明日が来ないかもしれないという感覚を、言葉より先に感じている。


 静は答えられなかった。


 明日は来る、と言えない。言った瞬間、それは嘘になるかもしれない。


 嘘は、蓮を裏切る。


 裏切りたくない。だが、真実はもっと残酷だ。


 静は唇を噛み、短く言った。


「ここにいる」


 蓮が静を見る。


 蓮はその言葉だけを頼りに、息を吸う。吸うが、続かない。胸が動くのが浅い。浅い動きが数回続き、次に長い間が来る。


 静はその間に耐えられず、蓮の肩を揺らした。


「蓮」


 蓮の目が少しだけ動く。


 静は蓮の手を握り、強く言った。


「ここだ」


 蓮の指が、わずかに動いた。握り返すというより、反射で動いた程度だ。それでも静はその動きを掴んで離さない。


 夜の音が遠くなる。


 森の虫の声が、急に薄く感じる。静の耳が蓮の音に集中しすぎて、他の音を切り捨てている。


 蓮の息が、また間を空けた。


 間が長い。


 静はその長さが怖くて、蓮の頬を叩いた。叩くと、蓮の目が半分だけ開く。開くが、すぐ閉じる。


 静は震える指で水を含ませ、唇に触れさせる。蓮は飲み込まない。口の端から水が落ちる。落ちた水が顎を伝う。顎を伝って、静の手首に落ちる。


 水が冷たい。


 冷たい水が、静の手首の皮膚に残る。


 静はその冷たさに、妙な確信を覚えた。


 これは、冷たさの始まりだ。


 蓮の体の中から、温度が抜け始めている。


 抜け始めているのに、熱はまだ残っている。残っている熱が、最後の炎のように燃えている。


 静は喉の奥が痛くなるほど息を吸い、蓮の耳元で言った。


「戻るな」


 言ってしまってから、静は自分の言葉の矛盾に気づく。


 戻るな、というのは静にしか通じない。蓮は戻らない側だ。蓮にとっては、戻るという言葉はまだ意味が定まっていない。


 蓮は静の声に反応して、目を開けた。


 その瞬間、蓮の目が静の目を正面から捉えた。


 初めて、焦点が合った。


 蓮の目の中に、理解があった。


 理解は恐れではない。恐れより静かなものだ。恐れは騒ぐ。理解は静かになる。理解したとき、人は余計な動きをやめる。動きをやめるのは、抵抗が終わるからだ。


 蓮は静を見て、ゆっくり唇を動かした。


「……もどらない」


 蓮が言った。


 静は動けなくなった。


 蓮は戻らないという言葉を、土の盛り上がりから覚えた。名前が消える話から覚えた。静の傷が戻る話から覚えた。そして今、自分の体の中でそれを確かめた。


 自分は戻らない。


 その理解が、蓮の目を静かにしている。


 静は蓮の手を握りしめた。握りしめても、どうにもならない。握りしめることで、蓮をこの場に留めたかった。留めたかったが、静の力はこの世界の仕組みには届かない。


 蓮の唇が少しだけ動く。


「……しず」


 静は頷いた。頷くことしかできない。


「……なまえ」


 蓮は言った。


 静は息を吸った。息を吸うと、胸の奥が痛む。蓮は名前のことを気にしている。名前が消える話をしたばかりだ。自分が消えるなら、名前も消える。蓮はそれが怖いのだ。


 静は蓮の額に手を置き、短く言った。


「蓮」


 蓮の名前を、もう一度呼んだ。


「おまえは蓮だ」


 蓮の目が少しだけ潤む。涙ではない。体の水分が足りないせいで目が滲む。それでも、その滲みの中に、微かな安堵がある。


 名前を呼ばれた。名前が残った。それだけで蓮は少しだけ落ち着いた。


 蓮の手が、静の指を探るように動いた。探り、触れた。触れた指先は冷たい。冷たいが、その冷たさが生きている証拠になってしまっている。冷たさがなくなったら、触れられない。


 静はその冷たさを握り返し、言った。


「ここにいる」


 蓮は静を見たまま、ゆっくりまぶたを閉じた。


 閉じる速度が遅い。


 眠るときの閉じ方ではない。眠るときは、もっと無造作に落ちる。これは、ゆっくりと線が引かれるような閉じ方だ。意識が、丁寧に離れていく。


 静は蓮のまぶたが閉じるのを、止められなかった。


 蓮の胸に手を当てる。胸は動いている。動いているが、動きがさらに浅い。浅い動きが数回続き、次に長い間が来る。


 静はその間に耐えられず、蓮の頬を撫でた。


「蓮」


 呼んでも反応がない。


 呼んでも、目が開かない。


 静はもう一度、蓮の胸に耳を寄せた。


 音が遠い。


 遠い音を追いかけるように耳を澄ませるが、追いかけても追いつけない。遠い音は、遠ざかっていくから遠い。


 静は唇を噛み、もう一度名前を呼んだ。


「蓮」


 蓮の口がわずかに動いた。


 何かを言おうとしたのかもしれない。だが、音にならない。息が薄いからだ。


 静は蓮の口元に耳を寄せた。


 聞こえたのは、かすかな空気の擦れる音だけだった。


 そして、それが途切れた。


 途切れた瞬間、森の音が戻ってきた。


 虫の声。葉の擦れる音。遠くの獣の鳴き声。水の滲む音。夜の世界が、何事もなかったように続いている。


 静は動けなかった。


 蓮の体はまだ熱い。熱いのに、胸が動かない。熱いのに、息がない。熱が残るということが、逆に残酷だった。まだここにいるように錯覚させる。だが、いない。


 静は蓮の頬に触れた。


 皮膚は柔らかい。柔らかいのに、反応がない。


 静は蓮の手を握った。


 握っても、握り返されない。


 静は蓮の胸にもう一度手を当てた。


 動かない。


 静の手のひらの下で、世界が止まったように感じた。


 静はその止まり方を、知っている。


 知っているから、喉の奥が焼けるように痛む。


 戻らない。


 蓮が言った言葉が、現象として確定する。


 静は蓮の額に手を置き、そこに留まっている熱を感じた。熱はまだ残っている。残っているのに、蓮はいない。


 静は小さく呟いた。


「……戻らない」


 自分の口で言うと、現実が重くなる。


 静は蓮を抱きしめた。抱きしめても、蓮は抱き返さない。抱きしめても、熱は少しずつ抜けていく。抜けていく熱を、静の腕では止められない。


 夜がさらに深くなった。


 時間がどれくらい過ぎたのか分からない。静は蓮を膝に乗せたまま、動かなかった。火を起こさない。声を出さない。泣かない。泣くと音になる。音になると獣が来る。獣が来れば、蓮の体が荒らされる。


 静は蓮を守る側だ。


 守るというのは、こういうことだ。終わった後も守る。


 静は周囲の土を触った。柔らかい。湿り気がある。ここは掘れる。掘れる場所を選ばなければならない。硬い土では時間がかかる。時間がかかれば朝になる。朝になれば群れが動き始める。群れが動けば、静と蓮が見つかる。見つかれば、蓮は捨てられる。捨てられるというのは、放置されるという意味だ。放置されれば、名前が消える。


 静はそれを許せなかった。


 静は手で土を掘った。


 道具を使わない。音を立てないためだ。爪に土が入り、指先が痛む。痛みはある。痛みがあることが、静の意識を保つ。意識が保てないと、蓮を落とす。落としたら、最後の守りが崩れる。


 静は黙って掘り続けた。


 土は湿って重い。手首が疲れる。腕が痛む。肩が固まる。静はそれでも掘る。掘って、穴を作る。穴は蓮の体が入る大きさにする。大きさが足りないと、蓮の体を曲げなければならない。曲げたくない。曲げると、蓮が苦しそうに見える。苦しそうに見えることが耐えられない。


 穴ができた。


 静は蓮を抱え直し、穴の縁に座った。


 蓮の髪は汗で額に張りついている。静は水で濡らした布でその髪を拭いた。拭いて、額を露出させた。蓮の眉の形が見える。眉は少し寄っている。最後まで何かを考えていたように見える。


 静は蓮の頬に触れ、指で軽く撫でた。


「蓮」


 名前を呼ぶ。


 返事はない。


 静は蓮の体を穴に下ろした。下ろすとき、蓮の体が重い。生きているときより重い。重いというより、持ち上げる側に返ってくるものがない。抱えたときの微かな調整がない。体がただの重さになる。


 静はそれが怖くて、息を止めた。


 蓮を穴に寝かせ、毛皮をかけた。毛皮は静がいつも蓮にかけていたものだ。蓮が寒がるとき、静がかけたものだ。今、蓮は寒がらない。だが、かける。かけないと守れない気がした。


 静は土を戻した。


 土を戻すと、蓮の輪郭が消える。輪郭が消えると、世界から蓮が消えるように感じる。


 静は土を戻しながら、手が震えるのを感じた。震えは寒さではない。怒りでもない。体の奥から出てくるものだ。言葉にできないものが、震えとして出ている。


 土が戻り、盛り上がりができる。


 丸い盛り上がり。


 静はその形を見て、目を閉じた。目を閉じても、形が残る。残る形が、静の中に刺さる。


 同じ形を、静は見たことがある。


 だから、蓮は戻らないと理解した。


 理解した瞬間に、蓮は静を見ていた。静に言葉を残した。名前を求めた。名前を呼ばれた。


 その一連が、静の中で何度も再生される。


 朝が来た。


 森が少し明るくなり、鳥の声が増える。空気が冷える。冷えるのに、静の体は熱い。自分が熱いのは、蓮の熱を抱えていたからではない。自分の内側が荒れているからだ。


 静は土の盛り上がりの前に座り、しばらく動かなかった。


 動けば、歩けば、群れに追いつけるかもしれない。追いつけば、生き残れる。生き残ることが目的なら、追いつくべきだ。


 だが、今は目的が分からない。


 静は不死だ。生き残ることが、当たり前になりすぎている。生き残ることの意味が薄い。薄い意味の中で、蓮だけが重かった。


 重いものが消えた。


 静は息を吐き、立ち上がった。


 土の盛り上がりに向かって、最後に短く言った。


「蓮」


 名前を呼ぶ。


 呼んだ名前は、森に吸われる。森に吸われても、静の中に残る。残すために呼ぶ。


 静は森を歩き出した。


 群れの方向へ戻る。戻って、何をするのか分からない。それでも、歩く。歩けるから歩く。不死だから歩ける。


 歩いている途中、静は自分の指を見た。傷はない。昨日も今日も、静の体は戻る。戻ることが、今はただの呪いに見えた。


 夕方、静は群れに追いついた。


 女が静を見る。


「子どもは」


 静は答えなかった。


 答えれば、土の盛り上がりがここに持ち込まれる。ここに持ち込まれれば、誰かが笑う。誰かが「口が減った」と言う。誰かが「よかった」と言う。静はそれを聞きたくない。


 静はただ頷いた。


 女はそれで理解したらしい。興味を失い、火の方へ戻る。


 男たちは静を見て、何も言わない。言わないのは、関心がないからだ。関心がないから、名前も出ない。


 名前が消える。


 蓮の名前も、ここでは消える。


 静だけが覚えている。


 夜、静は火のそばに座り、火を見た。火は昨日と同じように揺れている。森の匂いも同じだ。虫の声も同じだ。


 同じように見えるのに、同じではない。


 同じ日が二度来ない。


 静はそれを、今日ほど強く感じた日はなかった。


 そして、静は知っている。


 蓮は戻らない。


 けれど、蓮はまた来る。


 静はまだ知らないが、蓮の魂はどこかでまた目を覚ます。名前を失ったまま、違う体で、違う時代で。


 そのとき、静はどうする。


 静は火を見つめ、答えのない問いを抱えたまま、夜を越えた。


 最後に。


 ここまで読んでくださってありがとうございます。

 もし少しでも続きが気になったら、フォローや評価で応援してもらえると励みになります。次の話から、静は「蓮がいない世界」を歩き始めます。そして第9話で、必ず再会を描きます。

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