触
兎猫翠
触
『触覚って、五感の中で一番嘘がつけない感覚なんですよ!』
朝のニュースから、そんな言葉が聞こえてきた。
評論家なのか、ちょっと物知りな俳優なのか、
まったくわからない人物の声だったが、その言葉だけがどろっと頭に残った。
なぜ残ったのかはわからない。
ただ、手に持ったコーヒーの温かさを感じて、
まぁ、確かにこれを冷たいと感じることはないか。
そんなふうに、納得した気になった。
朝はお弁当を作るところから始まる。
決して得意ではない。
それでも、とあることをきっかけに作り続けてきた。
習慣とは恐ろしいもので、
野菜の切り方も、火加減も、
考えなくても手が動くようになっていた。
そして重ねて言うが、習慣とは本当に恐ろしい。
今日もまた、作りすぎてしまったらしい。
朝食としてつまみ食いをしたお弁当はまだずしっと重く、今日も残して家で食べるんだろうな、とすでに夜のことをイメージさせた。
朝食を終え、化粧に入る。
頬にパフの感触がやけに残っていると思ったら、
いつもより時間が経っていた。
慌ててスーツを着てカバンを持つ。
少しずしっとしたのはお弁当のせいだろう。
別にただお弁当を作りすぎただけだというのに、その重さを不快に感じた。
家を出て駅に向かう。
お弁当は作ったのに、飲み物を忘れたことに気づき、途中のコンビニで買った。
駅のホームを降りて、いつもと同じ車両に乗る。
つり革を持つと生暖かく、思わず手を放してしまった。
何かを探すように彷徨った手は、
諦めて同じつり革を握った。
満員電車の車内は容赦なく人の塊がぶつかってくる。
私はカバンを肩に掛けなおし、つり革を強く握った。
電車を降りると力強い足取りで職場へ向かう。
乗った駅に比べると未来都市のような風景だが、何度も通った道だ。見なくてもどこに何があるかなんてわかる。
職場に着くと、まだそんなに人はいなかった。
私の職場は始業時間が少し遅く、通勤ラッシュの時間に来ても早いくらいなのだ。
まだ始業まで余裕があったがパソコンを開き、空いたスペースに資料を広げる。
始業のチャイムが鳴ったが、顔をあげることはしなかった。
隣に人の気配を感じたが特に気にせず仕事を続ける。
「すみません、こちら昨日言われた書類です」
私は少しビックリしてさっと顔を上げると、新人の男の子が自信なさそうに立っていた。
ビックリしたのもあって慌てて書類を受け取る時に、指が触れる。
その指は冷たかった。
緊張しているのだろうか、と思った。
新人の子は指が当たってビックリしたのか、頭を数回下げながら自分の席に戻った。
なんとなく、怖がられているな、と感じたけど、
そういうのは、気にすると自分がやりづらくなる。
私はもう一度、画面に視線を戻した。
ふと朝買った飲み物があることを思い出す。
カバンの中だっけ、と腕を動かすと、すでに机の上にビニール袋ごと置いてあったペットボトルが床に落ちた。
すぐに拾うと慌てたようで恥ずかしいので、少し間を置こうとしたところ、隣の席の男性がわざわざ席を立ちあがり拾ってくれた。
「どうぞ」
男性はビニール袋の持ち手を私に差し出す。
「…ありがと」
私は持ち手ではなく、ビニール袋ごとペットボトルをわしづかみにして受け取った。
買ってから冷やしていないペットボトルを、冷たく感じた。
指先に、じんわりと熱がこもっていた。
渇いた喉を潤すと、私はまた仕事に没頭した。
終業時間前に、明日の仕事を整理し、終業のチャイムが鳴り終わるのと同時に席を立つ。
別に急いでいるわけではないが、それが私の職場でのルーティーンだった。
エレベーターで携帯を取り出し、何かを押そうと指を添えたが、少し画面を見つめただけでポケットにしまった。
駅へ向かう途中、気づいたら焼き鳥屋の前を通っていた。
おもわず立ち止まり、屋台を見ていると店主と目が合ってしまった。
私はさっと目をそらし、足早に駅へ向かった。
駅では大学時代の友人が私を待っていた。
久しぶりに会う友人に胸が高鳴った。
居酒屋に入り、大学時代の黒歴史や、今の仕事の愚痴をつまみにお酒を飲む。
少し前まで、こういう席には積極的には来ていなかった。
久しぶりにグラスを手に取った。
緊張すると思っていたのに、
指先は先に慣れてしまっていることに気づく。
酔った勢いと昔ながらの友人というのもあって、軽いボディタッチもあるが、身体が強張ることはなかった。
一人、私が自分でもわかるくらいアプローチをかけてくる友人がいた。
肩に置かれた手は、少し汗ばんでいて、
それが嫌ではないことに、私は気づいていた。
肩に置かれた手の重さも、そのまま残っていた。
終電の時間が近づき、店を出た。
誰かと並んで歩くこともできたはずだったのに、
気づけば私は、一人で夜風を受けていた。
普段、私はやることはやり、何もなければ帰りゆっくりする。
しかし、なぜか今日の私は、帰る、という選択肢が選べず、なんとなくふらふらと、散歩をしてしまった。
気が付くと私は何度も感じた温かさを近くに感じた。
食欲を誘う香ばしい香り、油を弾く短い音、自分の身体を包む温かい空気。
そのどれもが今自分が求めているものに感じてしまった。
何気なしに立ち寄り、
カウンターに手を置いた瞬間、
何も言わないうちに、熱いおしぼりが差し出された。
「あれ?あー…」
店主が何か言いかけてやめた。
店主は何事もなかったかのように、まだ注文をしていない私に私の好きな焼き鳥を提供してきた。
出てきたレバーを噛んで、あの独特な触感を感じた時、
ふと、よぎる。
彼の苦虫を潰したような顔。
思い出して、無意識に微笑んでしまい、隣を見て、現実に戻される。
私は今日の出来事を思い返す。
電車でぶつかってきた人の塊、職場で指の触れた男の子、飲み会で私の肩に手を置いてきた昔の友人。
触れられなかった、
彼の手。
私はまた、
触感を確かめるように、
ゆっくりレバーを噛んだ。
触 兎猫翠 @niiya_
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます