【短編】白髪のイブから、青海苔の初詣まで 〜45歳、底辺同士の生存確認〜

月下花音

第1話:白髪のイブ

 12月24日。

 午後8時。

 世間が聖夜だなんだと浮かれているこの時間、私は築20年のマンションのリビングで、一人静かにピンセットを握りしめていた。

 相手は、洗面所の鏡の中にいる自分だ。

 正確には、頭頂部の分け目から堂々と主張している、一本の太い白髪だ。

「……なんでここだけ光ってんのよ」

 独り言が漏れる。

 45歳。

 佐藤真紀、フリーライター。

 寄る年波には勝てないと言うけれど、クリスマスイブに白髪と格闘する羽目になるとは、20代の頃のキラキラしていた私には想像もできなかっただろう。


 狙いを定める。

 鏡との距離、約10センチ。

 老眼が入り始めているから、これ以上近づくとピントが合わない。

 悲しい現実だ。

 クッと力を入れる。

『プチッ』

 嫌な手応え。

 抜けたんじゃない。

 切れたんだ。

 根元から数ミリのところで切れて、短くなった白髪がピンと立って、余計に目立つようになってしまった。

「……はぁ」

 深いため息をつくと、鏡の中の疲れたおばさんが同じようにため息をついた。

 目の下のクマ、ほうれい線、乾燥して粉を吹いた頬。

 誰これ。

 私の知ってる私は、もうちょっと肌にハリがあったはずなんだけど。

 これが「経年劣化」ってやつか。

 マンションの修繕積立金みたいに、自分の顔面修繕費も積み立てておくべきだった。


 リビングに戻る。

 テーブルの上には、スーパーで買ってきたローストチキン(20%引き)と、500円のチリ産赤ワイン。

 夫は単身赴任先の大阪で仕事。

 17歳の娘は「彼氏とイルミネーション見てくる!」と言って朝から帰ってこない。

 つまり、クリボッチだ。

 既婚者のくせに、独身時代より孤独なイブを過ごしている。

 ワインをグラスに注ぐ。

 トクトクという音が、静かすぎる部屋に響く。

 一口飲む。

 渋い。

 安っぽいタンニンの味が舌に残る。

 でも、今の私にはこの渋さがちょうどいい。


 スマホを取り出す。

 インスタを開く。

 これは自傷行為だと分かっているのに、指が勝手に動く。

 大学時代の同級生、ミホの投稿。

『家族でクリスマスディナー♡ 軽井沢のホテルにて』

 暖炉の前で、上品な白髪の旦那様と、孫に囲まれて微笑むミホ。

 ……孫!?

 そうか、もうそんな歳か。

 こっちは娘の反抗期と更年期のホットフラッシュで死にそうなのに、向こうは「優雅なシニアライフ」に片足突っ込んでるのか。

 格差社会。

 幸せの暴力。

「いいね」を押さずにスクロールする。

 私の心は狭い。

 針の穴より狭い。


『ピロリロリン!』

 突然、LINEの通知音が鳴った。

 ビクッとしてワインをこぼしそうになる。

 夫か?

「今年も帰れません」的な業務連絡か?

 画面を見ると、予想外の名前が表示されていた。

『田中浩一』

 大学時代のサークル仲間だ。

 腐れ縁というか、かつてちょっといい雰囲気になりかけて、でも結局何もなかった男。

 今はバツイチ独身。

『生きてる?』

 短文。

『生きてるわよ。何よ急に』

 返信する。

 すぐに既読がつく。

『いや、世間がクリスマスとかうるせーから、生存確認』

『俺、今一人でコンビニのチキン食ってる』

 写真が送られてきた。

 散らかった部屋のテーブル(雑誌とリモコンが散乱してる)の上に、ファミチキとストロングゼロ。

 背景に映り込んでる洗濯物の山が生活感を醸し出しまくっている。


「……フッ」

 笑ってしまった。

 ミホの軽井沢ディナーを見た後だと、この底辺感が妙に心地いい。

『私なんか半額のローストチキンよ。勝ったわね』

 私も写真を送る。

『おー、豪華。セレブじゃん』

『500円のワインだけどね』

『俺のストロングゼロよりマシだろ』


『プルルルル……』

 LINE通話がかかってきた。

 出ようか迷う。

 すっぴんだし、パジャマだし。

 でも、声だけの通話だからいっか。

「もしもし」

『おう、真紀? 久しぶり』

 田中の声だ。

 少し嗄れてる。

 おっさんの声だ。

「なんか声老けた?」

『うるせーよ。お前こそ、おばさん声になってんぞ』

「事実だよ。更年期なめんな」

『マジか。俺も最近、夜中にトイレ近くてさ……』

 いきなり健康の話かよ。

 ロマンチックの欠片もない。

 でも、不思議と嫌じゃなかった。

「娘さんは?」

『彼氏とデート。旦那は単身赴任』

「うわ、完全放置プレイじゃん」

『そっちは? 彼女とかいないの?』

『いねーよ。離婚してからサッパリだわ。養育費払うので手一杯』

「……世知辛いねぇ」


 スピーカーにして、ワインを飲みながら話す。

 話題は、昔のサークルの話、誰が離婚した、誰が病気になった、親の介護がどうした。

 暗い。

 トピックだけ見ればお先真っ暗な話ばかりだ。

 でも、なぜか笑えた。

 お互いの「惨めさ」をさらけ出して、傷を舐め合ってるこの感じ。

 若い頃の「好きだ嫌いだ」のヒリヒリした感情とは違う、もっとぬるくて、ドロっとしてて、でも温かい何か。

 ぬる燗みたいな関係だ。


「……まあ、お互い強く生きようぜ」

 30分ほど話して、田中が言った。

「そうね。孤独死しない程度にね」

「縁起でもねーこと言うなよ」

「リアルな問題よ」

「違いない」

 電話を切る。

 部屋の静けさが戻ってきた。

 でも、さっきまでの「孤独な静けさ」とは少し色が違って見えた。

 ファミチキとストロングゼロで一人イブを過ごしている男が、この東京のどこかにいる。

 そう思うだけで、私のこの安ワインも、少しだけ味がまろやかになった気がした。


 洗面所に行く。

 さっき切り損ねた白髪が、まだピンと立っている。

「……来年こそ、染めるか」

 独り言をつぶやいて、私は白髪を抜くのを諦めた。

 ありのままの自分を受け入れるほどの器はないけれど、まあ今日くらいは見逃してやろう。

 そんな妥協も、45歳の夜には必要だ。

 娘が帰ってくる前に、チキンの骨だけ片付けておこう。


(つづく)

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