だから、私は妊娠しました。

団 田 図

第1話 不妊治療の果てに

 鋭利な金属が、身体の深部を抉るような感覚。

 麻酔が効いているはずなのに、鈍い痛みが下腹部の奥底から這い上がってくる。


「……はい、終わりましたよ。お疲れ様でした」


 看護師の事務的な声が、遠くから聞こえた。

 無影灯の白い光が、視界を焼く。私は手術台の上で、じっとりと冷たい汗をかいていた。

 天井の無機質な模様を見つめながら、私は自分の呼吸だけを頼りに意識を繋ぎ止めていた。


 また、ようやく耐えた。

 また、私は傷ついた。


 これが何度目の採卵だろうか。

 回数を数えるのは、もう一年前にやめた。数えれば数えるほど、自分の身体が「欠陥品」であるという事実を突きつけられるような気がしたからだ。


 私の名前は、権蔵ごんぐら美咲みさき。三十二歳。

 資産家としてその名を轟かせる権蔵家の長女(養女)であり、表向きは幸福な結婚生活を送る人妻だ。

 けれど、その実態は、ただ一つの機能を果たすために生かされている「器」に過ぎない。


 ――子供を産むこと。

 それが、私がこの家に存在することを許される唯一の条件だった。


「気分は悪くないですか? 少し休んでから待合室へ移動しましょう」


 看護師の手を借りて、重い身体を起こす。

 下腹部に走る激痛に顔をしかめると、看護師は慣れた様子で私の背中をさすった。その優しさが、今の私には酷く痛々しい。彼女たち医療従事者にとって、私は「熱心に治療に通う患者」に見えているのだろうか。それとも、「いつまで経っても結果が出ない哀れな女」だろうか。


 リカバリールームのベッドに横たわりながら、私はスマートフォンを握りしめた。

 夫の貴之たかゆきからの連絡はない。

 今日は採卵日だと伝えてある。麻酔を使う手術だとも、前回ひどい副作用で倒れたことも、彼は知っているはずだ。

 それでも、画面は暗いままだった。


 ふと、昨夜の会話が蘇る。


『明日は採卵だから、できれば迎えに来てほしいな』

『ああ、分かってるよ。会議が長引かなければ行く』


 彼はテレビのニュースから目を離さずにそう言った。その横顔には、妻を労る夫の表情ではなく、義務を果たすだけのサラリーマンのような倦怠感が漂っていた。


 不妊治療を始めて三年。

 最初は二人で手を取り合っていたはずだった。「二人の赤ちゃんが欲しいね」と笑い合った日々もあったはずだ。

 けれど、生理が来るたびに私が泣き崩れ、病院通いが日常になり、高額な治療費が口座から消えていくにつれ、貴之の心は離れていった。いや、最初から彼の心はここにはなかったのかもしれない。


 三十分ほど休み、ふらつく足取りで待合室へと向かう。

 平日の昼間だというのに、クリニックは満員だった。私と同じように、希望と絶望の狭間で揺れる女性たちが、沈痛な面持ちで順番を待っている。


 その一角に、見慣れたスーツ姿の男がいた。

 夫の貴之だ。来てくれていたのだという安堵が胸に広がる。

 私は痛みを堪えて駆け寄ろうとした。


 だが、足が止まった。


 貴之は、私の方を見ていなかった。

 彼はスマートフォンに夢中だった。画面を指で滑らせながら、口元に微かな笑みを浮かべている。家では私に向けたことのない、だらしなく緩んだ笑顔。

 指先が高速でフリック入力している。誰かとメッセージのやり取りをしているのだ。


「……貴之さん」


 声をかけると、彼は反射的に顔を上げた。

 一瞬、その表情に「しまった」という焦燥が浮かび、次の瞬間には完璧な「心配する夫」の仮面が張り付いた。


「美咲! 終わったのか。大丈夫か? 顔色が悪いぞ」


 彼は大袈裟に私の方へ駆け寄り、肩を抱いた。

 その腕から漂う香水の匂いに、私は微かな違和感を覚える。彼が普段使っているものとは違う、甘ったるい香り。


「ええ、なんとか……。来てくれてありがとう」

「当たり前だろ。君一人が頑張ってるんじゃない。僕たち二人の問題なんだから」


 貴之は力強く言い切った。周囲の患者や看護師たちが、理想的な夫婦を見るような目で私たちを見ているのが分かる。

 貴之はその視線に満足しているようだった。彼はいつだってそうだ。外面だけは完璧なエリート、優しくて理解のある夫。

 けれど、私の肩を抱くその手は、どこか余所余しく、温度を感じなかった。


 会計を済ませ、私たちはクリニックを出た。

 夏の強い日差しが、消耗した身体にはきつい。貴之のエスコートで車に乗り込む。


「どうだった? 先生は何て?」

「卵は三つ採れたわ。でも、質が良いかどうかはまだ分からないって」

「そうか……三つか。確率はどれくらいなんだ?」

「確率なんて、やってみないと」

「そうだよな。でも、三つあれば一つくらいは当たるだろ」


 当たる。

 その言葉の響きに、私は胸がざらつくのを感じた。まるでくじ引きかギャンブルの話でもしているようだ。

 私の身体から、命の欠片を削り取ってきているのに。


「……ねえ、貴之さん。もし今回も駄目だったら、少し休みませんか? もう、身体も心も限界なの」


 私は勇気を振り絞って言った。

 貴之はハンドルを握ったまま、少しだけ眉を寄せた。


「休む? 何を言ってるんだ美咲。今が踏ん張り時じゃないか」

「でも、もう三年よ。毎日の注射も、採卵の痛みも、生理が来た時の絶望感も……もう耐えられない」

「君なら頑張れるよ。強い子だろ?」

「強くなんてないわ!」


 思わず声を荒げると、貴之は驚いたように私を見た。そして、諭すような、どこか見下すような口調で言った。


「美咲、君はお義父さんのことを忘れたのか? 源造げんぞうさんが孫の顔をどれだけ楽しみにしているか。彼の病状は良くないんだ。生きているうちに孫を見せることが、幼い君を引き取って育ててくれたお義父さんへの唯一の恩返しだろ?」


 その名前が出ると、私は口をつぐまざるを得なかった。

 権蔵源造。私の養父であり、絶対的な支配者。

 私の実父を破産させ、自殺に追い込んだ張本人でありながら、孤児となった私を引き取り「娘」として育てた男。

 彼は私を愛してなどいない。かつてのライバルの娘が、自分にかしずき、自分の思想を残すための道具となる。その歪んだ征服欲を満たすためだけに、私は生かされている。


「……分かってる。分かってるわ」


「そうだろう? 僕だって辛いんだ。でも、君がママになりたいっていう夢、叶えてあげたいんだよ」


 貴之は優しく私の手に触れた。

 嘘だ、と心が叫ぶ。

 彼は子供なんて欲しがっていない。彼が欲しいのは、子供が生まれた後に転がり込んでくる、源造からの莫大な遺産だけだ。婿養子である彼にとって、権蔵家の血を引く(実際には養子だが、源造は血縁上の孫と同等の扱いを約束している)子供を作ることが、会社での地位と財産を盤石にするための切符なのだと、私は最近になってようやく悟った。


 私は窓の外へ顔を背けた。

 流れる街並みが滲んで見える。

 神様、どうか。

 どうか私に子供を授けてください。そうすれば、この苦しみから解放される。源造の呪縛からも、貴之との冷めた関係からも、何かが変わるかもしれない。

 私はただ、家族が欲しいだけなのだ。温かくて、誰も傷つけ合わない、本当の家族が。


 自宅である屋敷に戻ったのは夕方だった。

 下腹部の痛みはまだ続いている。鎮痛剤を飲んでも、芯にある重苦しさは消えない。

 貴之は帰宅するなり、「シャワーを浴びてくる」と言ってバスルームへ消えた。

 私は一人、広すぎるリビングに取り残された。


 ふと、ソファの上に貴之の上着が脱ぎ捨てられているのが目に入った。

 几帳面な彼にしては珍しい。それほど疲れているのだろうか、あるいは私への配慮をする余裕すらないほど、何かに気を取られているのか。


 私はため息をつきながら、上着をハンガーに掛けようと持ち上げた。

 その時、内ポケットから長財布が滑り落ちた。


 ドサッ、と重い音が絨毯に吸い込まれる。

 拾い上げようとした拍子に、中から数枚のレシートと、折り畳まれた紙片がこぼれ落ちた。


「もう、だらしないんだから……」


 私は何気なくそれらを拾い集めた。

 コンビニのレシート、ガソリンスタンドの領収書。

 そして、四つ折りにされた少し厚手の上質紙。


 何だろう。

 胸騒ぎがした。

 見てはいけないもののような気がした。けれど、指先は勝手にその紙を開いていた。

 それは、病院の明細書と、同意書の控えだった。


 文字を目で追う。

 心臓が、早鐘を打ち始めた。


 『診療内容:精管結紮術せいかんけっさつじゅつ(パイプカット)』

 『患者氏名:権蔵 貴之』


 頭が真っ白になる。

 パイプカット? 避妊手術?

 どういうこと? だって、私たちは不妊治療をしているのよ? 貴之さんは「原因不明の男性不妊かもしれないが、数値は悪くない」と、いつも言っていたじゃない。


 震える指で、日付を確認する。

 そこに記されていた数字を見た瞬間、私の時が止まった。


 ――四年前。


 日付は、私たちが不妊治療を始める一年前のものだった。

 結婚して一年が過ぎ、「そろそろ子供が欲しいね」と話し合っていた、まさにその時期だ。


「……あ……」


 喉から、意味にならない音が漏れた。

 理解したくなかった。けれど、事実はあまりにも残酷に、論理的に、私の脳髄を突き刺した。


 貴之は、私たちが子供を作ろうと決める直前に、自ら種を絶っていたのだ。

 そして、それを隠したまま、「子供ができないね」「君の身体のせいかもしれない」「一緒に頑張ろう」と言い続け、私を不妊治療の地獄へと突き落とした。


 三年間。

 一〇〇〇日以上。

 あの痛い注射も。恥ずかしさに耐えた診察も。

 採卵の激痛も。

 リセットが来た時の、魂が削り取られるような喪失感も。

 「ごめんね、産めなくてごめんね」と彼に謝り続けた夜も。


 すべて、すべて、すべて。

 無意味だった。

 ゼロに何を掛けてもゼロであるように、種のない男と何度愛し合おうが、最新の医療を受けようが、妊娠などするはずがなかったのだ。


 彼は知っていたのだ。

 私が副作用で吐いている時、彼は背中をさすりながら、心の中で舌を出していたのか。

 私が泣きながら「次こそは」と祈っている時、彼はその滑稽な姿を見て嘲笑っていたのか。


 なぜ?

 どうしてそんな残酷なことができるの?


 バスルームから、シャワーの音が聞こえる。

 貴之の鼻歌が混じっている。機嫌が良さそうだ。


 怒りが湧くよりも先に、私の世界が音を立てて崩れ落ちていった。

 信頼、愛情、希望。それらがガラス細工のように砕け散り、鋭い破片となって心臓に突き刺さる。


 その時、貴之のスマートフォンがソファの上で震えた。

 通知画面が光る。


 『レナ:ねえ、今日いつ会えるの? 新しいバッグ欲しいな♡』


 アイコンは若い女性の自撮り写真。

 レナ。それが彼の愛人の名前か。

 バッグ。その金はどこから出ている?

 不妊治療にかかる高額な費用。彼はいつも「金がかかるな」と渋い顔をしていた。

 私の治療費は惜しむのに、愛人にはバッグを買うのか。


 さらに、通知が続く。

 『神田(恭介):おい、例の件どうなってる。源造の爺さん、まだくたばらないのか? お前の嫁が妊娠しない時間稼ぎも、そろそろ限界だぞ』


 神田。

 それは、私たちが通っている不妊治療専門クリニックの院長であり、貴之の大学時代の友人だ。

 あの優しそうな医師も、グルだったのか。


 『時間稼ぎ』。

 その単語が、すべての謎を解き明かした。


 貴之は、子供なんて欲しくなかった。

 源造が生きている間に子供ができれば、源造はその子を溺愛し、貴之の存在意義は薄れる。

 だが、子供ができないまま源造が死ねば、遺産は娘である私に、そして配偶者である彼に転がり込む。

 彼は、源造が死ぬのを待っているのだ。

 その間、私が妊娠しないように、かつ「努力している」というポーズを見せるために、私に不毛な治療を続けさせていたのだ。


 ――ああ、そうか。

 私は、財布だったんだ。

 いや、時間稼ぎのためのピエロだったんだ。


 膝から力が抜け、床に座り込む。

 涙は出なかった。

 あまりのショックに、感情の回路が焼き切れたようだった。


 私の三年を、

 私の痛みを、

 私の祈りを、


 返して。


 床に散らばった書類を見つめる。

 パイプカットの同意書。

 それは、私への死刑宣告であり、同時に貴之の罪の告白書でもあった。


 バスルームのドアが開く音がした。

 貴之が出てくる。

 私は慌てて書類を拾い集め、元の財布に戻し、上着のポケットに突っ込んだ。

 震える手を必死に抑え、ソファに座り直す。


「ふぅ、さっぱりした。美咲、まだそこにいたのか? 身体冷えるぞ」


 貴之がタオルで髪を拭きながらリビングに入ってくる。

 その顔を見た瞬間、私の中で何かが「覚醒」した。


 今まで、夫として愛していた男。

 私の苦しみを分かち合ってくれていると信じていたパートナー。

 それは幻だった。

 そこにいるのは、私の人生を食い物にする、醜悪な寄生虫だ。


 私の脳裏に、養父・源造の言葉が蘇る。


 『美咲、いいか。この世には二種類の人間しかいない。食うか、食われるかだ』

 『奪われたくなければ、奪え。踏みにじられたくなければ、相手の息の根が止まるまで踏みつけろ』

 『情けは敗者の戯言だ』


 源造の帝王学。

 かつて私はそれを嫌悪していた。実の父を殺した論理だと、耳を塞いでいた。

 けれど今、その言葉だけが、凍りついた私の心を熱くたぎらせていく。


 私は、食われていたのだ。

 貴之に。神田に。そして源造という運命に。

 「従順な被害者」でいる限り、私は一生、彼らの養分として搾取され続ける。


 ……いいえ。

 そんなのは御免だ。


 私の下腹部の痛みは、怒りの炎に変わった。

 採卵の傷跡が疼くたびに、殺意が研ぎ澄まされていく。


 貴之が私の横に座り、肩に手を回してくる。

「美咲、元気出せよ。次はきっとうまくいく」


 その白々しい慰めの言葉に、私はゆっくりと顔を上げた。

 鏡は見なくても分かる。

 今の私の瞳から、かつての「弱くて優しい美咲」の光は消え失せているはずだ。


 私は口角を僅かに上げ、貴之を見つめ返した。


「ええ、そうね。貴之さん」


 声は驚くほど冷静だった。

 私の心の中にあるのは、もはや悲しみではない。

 氷のように冷たく、刃物のように鋭い、復讐への渇望だけだ。


「次は、絶対にうまくいくわ」


 絶対に妊娠してやる。

 あんたの種じゃない子供を。

 そして、あんたが喉から手が出るほど欲しがっている遺産も、社会的地位も、プライドも、全て奪い取ってやる。

 地獄の底まで突き落とし、這い上がれないように踏みつけてやる。


 それが、私が三年間心身共に傷ついた事への「代償」だ。


 私は貴之の胸に顔を埋めるふりをして、暗い瞳で虚空を睨んだ。

 復讐の幕は上がった。

 演じてあげましょう、その時まで。

 貴方が望む「愚かで従順な妻」を、完璧に。


 そう。

 だから、私は妊娠します。

 ――あなたに、地獄の苦しみを与えるために。

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