だから、私は妊娠しました。
団 田 図
第1話 不妊治療の果てに
鋭利な金属が、身体の深部を抉るような感覚。
麻酔が効いているはずなのに、鈍い痛みが下腹部の奥底から這い上がってくる。
「……はい、終わりましたよ。お疲れ様でした」
看護師の事務的な声が、遠くから聞こえた。
無影灯の白い光が、視界を焼く。私は手術台の上で、じっとりと冷たい汗をかいていた。
天井の無機質な模様を見つめながら、私は自分の呼吸だけを頼りに意識を繋ぎ止めていた。
また、ようやく耐えた。
また、私は傷ついた。
これが何度目の採卵だろうか。
回数を数えるのは、もう一年前にやめた。数えれば数えるほど、自分の身体が「欠陥品」であるという事実を突きつけられるような気がしたからだ。
私の名前は、
資産家としてその名を轟かせる権蔵家の長女(養女)であり、表向きは幸福な結婚生活を送る人妻だ。
けれど、その実態は、ただ一つの機能を果たすために生かされている「器」に過ぎない。
――子供を産むこと。
それが、私がこの家に存在することを許される唯一の条件だった。
「気分は悪くないですか? 少し休んでから待合室へ移動しましょう」
看護師の手を借りて、重い身体を起こす。
下腹部に走る激痛に顔をしかめると、看護師は慣れた様子で私の背中をさすった。その優しさが、今の私には酷く痛々しい。彼女たち医療従事者にとって、私は「熱心に治療に通う患者」に見えているのだろうか。それとも、「いつまで経っても結果が出ない哀れな女」だろうか。
リカバリールームのベッドに横たわりながら、私はスマートフォンを握りしめた。
夫の
今日は採卵日だと伝えてある。麻酔を使う手術だとも、前回ひどい副作用で倒れたことも、彼は知っているはずだ。
それでも、画面は暗いままだった。
ふと、昨夜の会話が蘇る。
『明日は採卵だから、できれば迎えに来てほしいな』
『ああ、分かってるよ。会議が長引かなければ行く』
彼はテレビのニュースから目を離さずにそう言った。その横顔には、妻を労る夫の表情ではなく、義務を果たすだけのサラリーマンのような倦怠感が漂っていた。
不妊治療を始めて三年。
最初は二人で手を取り合っていたはずだった。「二人の赤ちゃんが欲しいね」と笑い合った日々もあったはずだ。
けれど、生理が来るたびに私が泣き崩れ、病院通いが日常になり、高額な治療費が口座から消えていくにつれ、貴之の心は離れていった。いや、最初から彼の心はここにはなかったのかもしれない。
三十分ほど休み、ふらつく足取りで待合室へと向かう。
平日の昼間だというのに、クリニックは満員だった。私と同じように、希望と絶望の狭間で揺れる女性たちが、沈痛な面持ちで順番を待っている。
その一角に、見慣れたスーツ姿の男がいた。
夫の貴之だ。来てくれていたのだという安堵が胸に広がる。
私は痛みを堪えて駆け寄ろうとした。
だが、足が止まった。
貴之は、私の方を見ていなかった。
彼はスマートフォンに夢中だった。画面を指で滑らせながら、口元に微かな笑みを浮かべている。家では私に向けたことのない、だらしなく緩んだ笑顔。
指先が高速でフリック入力している。誰かとメッセージのやり取りをしているのだ。
「……貴之さん」
声をかけると、彼は反射的に顔を上げた。
一瞬、その表情に「しまった」という焦燥が浮かび、次の瞬間には完璧な「心配する夫」の仮面が張り付いた。
「美咲! 終わったのか。大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
彼は大袈裟に私の方へ駆け寄り、肩を抱いた。
その腕から漂う香水の匂いに、私は微かな違和感を覚える。彼が普段使っているものとは違う、甘ったるい香り。
「ええ、なんとか……。来てくれてありがとう」
「当たり前だろ。君一人が頑張ってるんじゃない。僕たち二人の問題なんだから」
貴之は力強く言い切った。周囲の患者や看護師たちが、理想的な夫婦を見るような目で私たちを見ているのが分かる。
貴之はその視線に満足しているようだった。彼はいつだってそうだ。外面だけは完璧なエリート、優しくて理解のある夫。
けれど、私の肩を抱くその手は、どこか余所余しく、温度を感じなかった。
会計を済ませ、私たちはクリニックを出た。
夏の強い日差しが、消耗した身体にはきつい。貴之のエスコートで車に乗り込む。
「どうだった? 先生は何て?」
「卵は三つ採れたわ。でも、質が良いかどうかはまだ分からないって」
「そうか……三つか。確率はどれくらいなんだ?」
「確率なんて、やってみないと」
「そうだよな。でも、三つあれば一つくらいは当たるだろ」
当たる。
その言葉の響きに、私は胸がざらつくのを感じた。まるでくじ引きかギャンブルの話でもしているようだ。
私の身体から、命の欠片を削り取ってきているのに。
「……ねえ、貴之さん。もし今回も駄目だったら、少し休みませんか? もう、身体も心も限界なの」
私は勇気を振り絞って言った。
貴之はハンドルを握ったまま、少しだけ眉を寄せた。
「休む? 何を言ってるんだ美咲。今が踏ん張り時じゃないか」
「でも、もう三年よ。毎日の注射も、採卵の痛みも、生理が来た時の絶望感も……もう耐えられない」
「君なら頑張れるよ。強い子だろ?」
「強くなんてないわ!」
思わず声を荒げると、貴之は驚いたように私を見た。そして、諭すような、どこか見下すような口調で言った。
「美咲、君はお義父さんのことを忘れたのか?
その名前が出ると、私は口をつぐまざるを得なかった。
権蔵源造。私の養父であり、絶対的な支配者。
私の実父を破産させ、自殺に追い込んだ張本人でありながら、孤児となった私を引き取り「娘」として育てた男。
彼は私を愛してなどいない。かつてのライバルの娘が、自分に
「……分かってる。分かってるわ」
「そうだろう? 僕だって辛いんだ。でも、君がママになりたいっていう夢、叶えてあげたいんだよ」
貴之は優しく私の手に触れた。
嘘だ、と心が叫ぶ。
彼は子供なんて欲しがっていない。彼が欲しいのは、子供が生まれた後に転がり込んでくる、源造からの莫大な遺産だけだ。婿養子である彼にとって、権蔵家の血を引く(実際には養子だが、源造は血縁上の孫と同等の扱いを約束している)子供を作ることが、会社での地位と財産を盤石にするための切符なのだと、私は最近になってようやく悟った。
私は窓の外へ顔を背けた。
流れる街並みが滲んで見える。
神様、どうか。
どうか私に子供を授けてください。そうすれば、この苦しみから解放される。源造の呪縛からも、貴之との冷めた関係からも、何かが変わるかもしれない。
私はただ、家族が欲しいだけなのだ。温かくて、誰も傷つけ合わない、本当の家族が。
自宅である屋敷に戻ったのは夕方だった。
下腹部の痛みはまだ続いている。鎮痛剤を飲んでも、芯にある重苦しさは消えない。
貴之は帰宅するなり、「シャワーを浴びてくる」と言ってバスルームへ消えた。
私は一人、広すぎるリビングに取り残された。
ふと、ソファの上に貴之の上着が脱ぎ捨てられているのが目に入った。
几帳面な彼にしては珍しい。それほど疲れているのだろうか、あるいは私への配慮をする余裕すらないほど、何かに気を取られているのか。
私はため息をつきながら、上着をハンガーに掛けようと持ち上げた。
その時、内ポケットから長財布が滑り落ちた。
ドサッ、と重い音が絨毯に吸い込まれる。
拾い上げようとした拍子に、中から数枚のレシートと、折り畳まれた紙片がこぼれ落ちた。
「もう、だらしないんだから……」
私は何気なくそれらを拾い集めた。
コンビニのレシート、ガソリンスタンドの領収書。
そして、四つ折りにされた少し厚手の上質紙。
何だろう。
胸騒ぎがした。
見てはいけないもののような気がした。けれど、指先は勝手にその紙を開いていた。
それは、病院の明細書と、同意書の控えだった。
文字を目で追う。
心臓が、早鐘を打ち始めた。
『診療内容:
『患者氏名:権蔵 貴之』
頭が真っ白になる。
パイプカット? 避妊手術?
どういうこと? だって、私たちは不妊治療をしているのよ? 貴之さんは「原因不明の男性不妊かもしれないが、数値は悪くない」と、いつも言っていたじゃない。
震える指で、日付を確認する。
そこに記されていた数字を見た瞬間、私の時が止まった。
――四年前。
日付は、私たちが不妊治療を始める一年前のものだった。
結婚して一年が過ぎ、「そろそろ子供が欲しいね」と話し合っていた、まさにその時期だ。
「……あ……」
喉から、意味にならない音が漏れた。
理解したくなかった。けれど、事実はあまりにも残酷に、論理的に、私の脳髄を突き刺した。
貴之は、私たちが子供を作ろうと決める直前に、自ら種を絶っていたのだ。
そして、それを隠したまま、「子供ができないね」「君の身体のせいかもしれない」「一緒に頑張ろう」と言い続け、私を不妊治療の地獄へと突き落とした。
三年間。
一〇〇〇日以上。
あの痛い注射も。恥ずかしさに耐えた診察も。
採卵の激痛も。
リセットが来た時の、魂が削り取られるような喪失感も。
「ごめんね、産めなくてごめんね」と彼に謝り続けた夜も。
すべて、すべて、すべて。
無意味だった。
ゼロに何を掛けてもゼロであるように、種のない男と何度愛し合おうが、最新の医療を受けようが、妊娠などするはずがなかったのだ。
彼は知っていたのだ。
私が副作用で吐いている時、彼は背中をさすりながら、心の中で舌を出していたのか。
私が泣きながら「次こそは」と祈っている時、彼はその滑稽な姿を見て嘲笑っていたのか。
なぜ?
どうしてそんな残酷なことができるの?
バスルームから、シャワーの音が聞こえる。
貴之の鼻歌が混じっている。機嫌が良さそうだ。
怒りが湧くよりも先に、私の世界が音を立てて崩れ落ちていった。
信頼、愛情、希望。それらがガラス細工のように砕け散り、鋭い破片となって心臓に突き刺さる。
その時、貴之のスマートフォンがソファの上で震えた。
通知画面が光る。
『レナ:ねえ、今日いつ会えるの? 新しいバッグ欲しいな♡』
アイコンは若い女性の自撮り写真。
レナ。それが彼の愛人の名前か。
バッグ。その金はどこから出ている?
不妊治療にかかる高額な費用。彼はいつも「金がかかるな」と渋い顔をしていた。
私の治療費は惜しむのに、愛人にはバッグを買うのか。
さらに、通知が続く。
『神田(恭介):おい、例の件どうなってる。源造の爺さん、まだくたばらないのか? お前の嫁が妊娠しない時間稼ぎも、そろそろ限界だぞ』
神田。
それは、私たちが通っている不妊治療専門クリニックの院長であり、貴之の大学時代の友人だ。
あの優しそうな医師も、グルだったのか。
『時間稼ぎ』。
その単語が、すべての謎を解き明かした。
貴之は、子供なんて欲しくなかった。
源造が生きている間に子供ができれば、源造はその子を溺愛し、貴之の存在意義は薄れる。
だが、子供ができないまま源造が死ねば、遺産は娘である私に、そして配偶者である彼に転がり込む。
彼は、源造が死ぬのを待っているのだ。
その間、私が妊娠しないように、かつ「努力している」というポーズを見せるために、私に不毛な治療を続けさせていたのだ。
――ああ、そうか。
私は、財布だったんだ。
いや、時間稼ぎのためのピエロだったんだ。
膝から力が抜け、床に座り込む。
涙は出なかった。
あまりのショックに、感情の回路が焼き切れたようだった。
私の三年を、
私の痛みを、
私の祈りを、
返して。
床に散らばった書類を見つめる。
パイプカットの同意書。
それは、私への死刑宣告であり、同時に貴之の罪の告白書でもあった。
バスルームのドアが開く音がした。
貴之が出てくる。
私は慌てて書類を拾い集め、元の財布に戻し、上着のポケットに突っ込んだ。
震える手を必死に抑え、ソファに座り直す。
「ふぅ、さっぱりした。美咲、まだそこにいたのか? 身体冷えるぞ」
貴之がタオルで髪を拭きながらリビングに入ってくる。
その顔を見た瞬間、私の中で何かが「覚醒」した。
今まで、夫として愛していた男。
私の苦しみを分かち合ってくれていると信じていたパートナー。
それは幻だった。
そこにいるのは、私の人生を食い物にする、醜悪な寄生虫だ。
私の脳裏に、養父・源造の言葉が蘇る。
『美咲、いいか。この世には二種類の人間しかいない。食うか、食われるかだ』
『奪われたくなければ、奪え。踏みにじられたくなければ、相手の息の根が止まるまで踏みつけろ』
『情けは敗者の戯言だ』
源造の帝王学。
かつて私はそれを嫌悪していた。実の父を殺した論理だと、耳を塞いでいた。
けれど今、その言葉だけが、凍りついた私の心を熱くたぎらせていく。
私は、食われていたのだ。
貴之に。神田に。そして源造という運命に。
「従順な被害者」でいる限り、私は一生、彼らの養分として搾取され続ける。
……いいえ。
そんなのは御免だ。
私の下腹部の痛みは、怒りの炎に変わった。
採卵の傷跡が疼くたびに、殺意が研ぎ澄まされていく。
貴之が私の横に座り、肩に手を回してくる。
「美咲、元気出せよ。次はきっとうまくいく」
その白々しい慰めの言葉に、私はゆっくりと顔を上げた。
鏡は見なくても分かる。
今の私の瞳から、かつての「弱くて優しい美咲」の光は消え失せているはずだ。
私は口角を僅かに上げ、貴之を見つめ返した。
「ええ、そうね。貴之さん」
声は驚くほど冷静だった。
私の心の中にあるのは、もはや悲しみではない。
氷のように冷たく、刃物のように鋭い、復讐への渇望だけだ。
「次は、絶対にうまくいくわ」
絶対に妊娠してやる。
あんたの種じゃない子供を。
そして、あんたが喉から手が出るほど欲しがっている遺産も、社会的地位も、プライドも、全て奪い取ってやる。
地獄の底まで突き落とし、這い上がれないように踏みつけてやる。
それが、私が三年間心身共に傷ついた事への「代償」だ。
私は貴之の胸に顔を埋めるふりをして、暗い瞳で虚空を睨んだ。
復讐の幕は上がった。
演じてあげましょう、その時まで。
貴方が望む「愚かで従順な妻」を、完璧に。
そう。
だから、私は妊娠します。
――あなたに、地獄の苦しみを与えるために。
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