勇者学園の戦わない保健室 〜傷だらけの英雄たちに、とびきりのハーブティーを〜

伝福 翠人

ようこそ、メンタルケア室へ

王立アステリア魔法学園の北校舎、その最も奥まった場所にある古い教室。


そこに掲げられた看板は、まだペンキの匂いが残っているようだった。


『特別カウンセリング室』


その文字を見つめながら、私は小さく息を吐いた。


「また、誰も来なかったわね」


窓の外では、茜色の空がゆっくりと群青色に染まろうとしている。


遠くの演習場からは、生徒たちの鋭い気合と、魔法が炸裂する爆音が響いてくる。


この学園は常に戦場だ。次代の勇者を育てるという大義名分のもと、生徒たちは朝から晩まで競い合わされている。


私はエルナ・トワイライト。


この春、新設されたこの部屋の主であり、学園で唯一の「戦わない」職員だ。


私の格好は、この学園では異端だった。


教師たちが身につける威厳あるローブでも、研究職の白衣でもない。


生成り色のワンピースに、淡い空色のニットカーディガン。銀色の髪は動きやすいように緩く編んでいるだけ。


「魔王を倒すのに、お悩み相談なんて必要ない」


「弱音を吐く暇があったら魔法の一つでも覚えろ」


着任初日の職員会議で浴びせられた言葉が蘇る。


グロリア教頭の、氷のように冷たい視線も。


彼女にとって、心のケアなどというものは、軟弱者の甘え以外の何物でもないのだ。


私は机の上に置いた『心のカルテ』を手に取った。


分厚い革張りの手帳。そのページはまだ真っ白だ。


私が持つ固有魔法――人の心の色や形を視覚的に捉える力――を記録するためのものだが、患者が来なければただの紙束に過ぎない。


「でも、聞こえるのよね……」


耳を澄ませば、爆音の合間に、悲鳴にも似た心がきしむ音が聞こえる気がした。


焦り、恐怖、嫉妬、絶望。


華々しい魔法の光の影で、子供たちの心は確実にすり減っている。


とんとん、と机を指で叩く。


待っていよう。誰かが、限界を迎えて倒れ込むその前に、ここを見つけてくれることを祈って。


   *


日が完全に落ち、学園が静寂に包まれた頃だった。


私は帰宅前の見回りのため、中庭を歩いていた。夜風が冷たい。


ふと、噴水の縁に誰かが座り込んでいるのが見えた。


制服の肩に、学年主席を示す金の刺繍。月光を浴びて輝く金髪。


レオン・ブレイブだ。


入学以来、無敗を誇る「剣聖」の卵。女生徒たちの憧れの的であり、教師たちからの期待を一身に背負うエリート中のエリート。


しかし、今の彼は、昼間の凛々しい姿とは別人のようだった。


膝に置いた剣を、震える手で強く握りしめている。


焦点の合わない瞳で虚空を睨み、何事かぶつぶつと呟いている。


「……まだだ、もっと速く……もっと強くならないと……あいつらが来る……」


その背中にまとわりつくオーラは、どす黒く濁り、今にも彼自身を飲み込みそうに波打っていた。


あれは『影』になりかけている。極度の睡眠不足と精神的疲労。


「こんばんは、レオン君」


私は努めて穏やかに声をかけた。


瞬間、レオンが弾かれたように顔を上げ、剣の柄に手をかけた。


「誰だ! 敵か!?」


殺気。訓練された戦士のそれだ。しかし、その瞳の奥にあるのは恐怖だった。


「敵じゃありませんよ。通りすがりのカウンセラーです」


私は両手を広げ、武器を持っていないことを示すようにゆっくりと近づいた。


「北校舎に新しくできた部屋の、エルナです。夜風に当たるには、少し寒くないですか?」


レオンは荒い息を吐きながら、私を凝視した。敵意と混乱が入り混じっている。


「カウンセラー……? あの、役立たずの……」


「ええ、その役立たずです」


私はふふ、と笑った。否定しない私に、レオンは少しだけ毒気を抜かれたようだった。剣から手が離れる。


「……何の用だ。僕は忙しいんだ。イメージトレーニングをしないと……明日も模擬戦がある。負けるわけにはいかないんだ」


「そうね。でも、戦士には休息も必要よ。少しだけ、私の部屋でお茶でもどう?」


「茶? そんな暇は――」


「特製のアロマキャンドルがあるの。集中力を高める効果もあるわよ」


嘘ではない。ただ、その集中力が「リラックス」に向けられるだけだ。


レオンは迷っていた。疲労困憊の体は休息を求めているが、強迫観念がそれを許さない。その葛藤が見て取れた。


「……一杯だけだ。すぐに戻る」


彼は渋々、立ち上がった。その足取りは、痛々しいほど重かった。


   *


カウンセリング室に戻ると、私はすぐに準備に取り掛かった。


部屋の照明を落とし、間接照明だけの柔らかな明かりにする。


そして、机の上に小さなキャンドルを置いた。私が調合した『安息の灯』だ。


マッチを擦る。シュボッという音と共に、小さな炎が揺れ、ラベンダーとカモミールをベースにした甘く爽やかな香りが漂い始めた。


レオンは警戒した様子でソファの端に座っていたが、香りを吸い込んだ瞬間、強張っていた肩の力がふっと抜けたのが分かった。


「……いい匂いだ」


「でしょう? さあ、どうぞ」


差し出したのは、温かいハーブティー。蜂蜜を多めに入れてある。


レオンはカップを両手で包み込むように持ち、一口飲んだ。温かさが体に染み渡るのを感じているようだった。


「……温かい」


「最近、眠れていないんじゃない?」


私が問いかけると、レオンの手がぴくりと止まった。


「……勇者に睡眠など必要ない」


「それは教頭先生の言葉?」


「……そうだ。魔王軍は夜も攻めてくる。いつでも戦える状態でなければならないと」


「でも、あなたはまだ人間よ、レオン君。機械じゃない」


私は向かい側に座り、彼を真っ直ぐに見つめた。


心のカルテには、彼の心の色が『悲鳴を上げる灰色』から、少しずつ『薄い水色』へと変化していくのが見えた。


「怖いのね。負けるのが」


「ッ!」


レオンが顔を歪めた。


「違う! 僕は……僕はブレイブ家の嫡男だ。期待に応えなければならない。最強でなければ、生きている価値がないんだ!」


「誰がそんなことを決めたの?」


「……みんなが、そう言う。父も、先生も、クラスの皆も……」


「私は言わないわ」


私の言葉に、レオンが顔を上げた。


「生きていてくれるだけでいい。あなたが今日まで、どれだけ努力してきたか。その傷だらけの手を見れば分かるもの」


レオンが自分の手を見る。


剣だこで固くなり、あちこちに切り傷のある手。


それは名誉の勲章かもしれないが、少年の手としてはあまりに過酷な履歴書だった。


キャンドルの炎が優しく揺れる。


その揺らぎを見つめているうちに、レオンの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。


「……本当は……眠りたい……」


ポツリと、本音が漏れた。


「……怖いんだ。目を閉じると、負ける夢を見る。みんなに失望される夢を見る……だから、眠れないんだ」


「大丈夫。ここは安全よ。誰もあなたを責めないし、誰もあなたを傷つけない」


私は立ち上がり、そっと彼の方へ歩み寄ると、カーディガンのポケットから厚手のブランケットを取り出し、彼の肩にかけた。


「少しだけ、目を閉じてみて。私が起きているから。悪い夢が来たら、私が追い払ってあげる」


「……子供扱いするな……」


口ではそう言いながらも、レオンは抵抗しなかった。


ブランケットの温もりと、アロマの香り、そして温かいお茶。限界を超えていた心と体が、急速にシャットダウンしていく。


カップをテーブルに置くと、レオンはソファに深く体を沈めた。


数秒もしないうちに、規則正しい寝息が聞こえ始めた。


それは、学園最強の剣士ではなく、ただの疲れ切った少年の寝顔だった。


私は机に戻り、『心のカルテ』を開いた。


最初のページに、ペンを走らせる。


『患者番号1:レオン・ブレイブ。症状:慢性的な不眠とプレッシャーによる強迫観念。処置:安息の灯とハーブティー、そして受容。経過:入眠を確認』


私は眠る彼を見守りながら、小さく微笑んだ。


戦いはまだ始まっていない。けれど、ここから始まるのだ。剣や魔法ではなく、心を守るための戦いが。


「おやすみなさい、レオン君。良い夢を」


夜は静かに更けていく。特別カウンセリング室に、ようやく最初の明かりが灯ったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る