『石コロひとつの正義』
志乃原七海
第1話*【警察署 取調室】
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### エピソード「石ころ一つ分の正義」
**【警察署 取調室】**
安定器のうなりを上げる蛍光灯が、剥げかかったデコラの長机を白々と照らし出している。換気扇の回っていない室内には、冷めたコーヒーの残り香と、幾人もの容疑者が吐き捨ててきた脂汗の匂いが澱んでいた。
ベテラン刑事・富樫は、組んだ腕の隙間に指を潜り込ませ、目の前の少年の喉元をじっと見据えた。トカゲのように細い顎、荒れた指先。この界隈の「顔」としては馴染みだが、いつも群れている連中を連れず、単身でここに座っている事実に、富樫の刑事としての嗅覚が微かな違和感を捉えていた。
「……もう一度、最初からだ」
富樫の声は、砂利道を重機で踏み荒らしたような低音だった。
「お前が民家に石を投げた。それも、たった一つだ。……ガラじゃねえな。狙うならもっと派手な不法侵入か、集団でのカツアゲだろうが」
少年は視線を合わせようとしない。ただ、机に刻まれた古いタバコの焦げ跡を、震える指先で執拗になぞっている。沈黙が重く伸しかかるたび、少年の荒い呼気が取調室の冷気をわずかに揺らした。
やがて、少年は枯れた声を絞り出した。
「……あの時、五人でチャリを回してたんだ。夕方の、空が痣みたいな色してた時間」
少年の瞳が、取調室の灰色の壁を通り越し、あの夜の残像を捉える。
「一軒の家の前に、女が突っ立ってた。……手には、拳骨よりデカい石。そいつを握りしめたまま、窓を睨んで、肩をガタガタ震わせてやがった。投げたいのに、投げられねえ。……そんな顔で」
富樫は相槌を打たず、ただ少年の言葉の端々にある熱量を測った。
「気になっちまって、『何してんだよ』って声をかけた。そしたら、そいつ、急にうつむきやがって……。乾いたアスファルトに、ぽたぽたって黒いシミが広がった。……泣いてやがったんだ、その女」
少年は忌々しそうに舌打ちし、初めて富樫の眼光を真っ向から受け止めた。
「根性がねえな、と。見てらんねえっていうか……腹が立ったんだよ。だからそいつの手から石をひったくって、俺が思い切りブチ込んでやった。……狙い通り、ど真ん中の窓にな」
ガシャァッ、という鼓膜を裂くような破砕音が、少年の背中を今も追いかけているようだった。
「すぐに部屋の電気がついて、中から鬼みたいなツラの男が飛び出してきた。仲間には『逃げろ』って叫んだけど、その女、まだ腰抜かして突っ立ってやがる。……気づいたら、俺のチャリのケツに無理やり乗せてた。死ぬ気でペダルをこいで、そこから逃げたんだ」
一気に語り終えた少年は、肺にある空気をすべて吐き出すように深く吐息をつき、再び貝のように口を閉ざした。
富樫は椅子の背もたれに体重を預けた。軋む音が取調室に小さく響く。天井の隅にある雨漏りの跡を数秒見つめ、それからゆっくりと視線を少年に戻した。その眼差しからは、先ほどまでの刺すような鋭さが消えていた。
「……名前は、聞いたのか」
「知らねえよ。近くの公園で降ろしたら、『ありがとう』って蚊の鳴くような声で言って、闇の中に消えてった」
「……そうか」
富樫は呟き、広げていた書類の束を乱雑に脇へ寄せた。一つの「事件」が、別の形に変質した合図だった。
「あの家、三日前から娘が行方不明だって捜索願が出てた。父親からの日常的な暴力の疑いがあって、こっちも踏み込むタイミングを狙って張り込んでたところだ」
少年の指先が、ぴくりと跳ねた。
「お前がやったことは器物損壊。言い逃れのできない犯罪だ」富樫は新しい調書を引き出し、淡々とペンを走らせる。「だがな……お前が鳴らしたあの石の音が、結果的に、俺たちが踏み込むための『正当な口実』になった。あの女……娘さんは、今朝、無事に保護されたよ」
富樫の口角が、ほんのわずかに、本人も気づかない程度に上がった。
「お前が投げた石ころ一つが、奴の地獄を終わらせた。……褒められたやり方じゃねえがな」
ペンを止めた富樫が、まっすぐ少年の瞳を射抜いた。その目は、一人の犯罪者を見るものではなく、一人の「男」を認めるものだった。
「よし。話はわかった。……まずはお前の名前を聞こう。歳もだ」
少年は一瞬、呆然とした表情を見せた。だが、すぐに照れ臭さを隠すように、しかし今までになくはっきりとした口調で、己の名を名乗った。
取調室の淀んだ空気の中に、微かな、しかし確かな人の体温が宿った瞬間だった。
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