受難は、コーヒーの香りとともに
路地猫みのる
受難は、コーヒーの香りとともに
これは、子どもの俺が「剣術指南役」という名の受難を背負い込んだ頃のお話。
まぁ、ワインでも飲みつつ、軽く同情しながら聞いてくれ。
俺はパルマン伯爵家の長男で、12歳の秋、主家であるウラヴォルペ公爵家の子どもたちの遊び相手に任命された。正確には、俺が引き受けたのは5歳の息子の剣術指南役なんだが、7歳の姉も一緒に遊ぶことが多くて、なぜ稽古にならないかは、この先を聞いてもらえれば分かると思う。
俺が応接間に入ると、絵本を読んでいた5歳の男の子が、ぱっと花が咲くように笑った。
「ミラーノお兄さん、いらっしゃい」
やわらかな金髪と、薔薇の花みたいなピンク色の瞳が、おとぎ話の妖精を思わせる、整った容姿をしている。
しかし、ただ可愛らしいだけのお子さまではないので、少し困っている。
挨拶を交わした後、剣術の稽古をしようという話になると、男の子――レオニアス様は、ふいっとそっぽを向いた。
「腕が痛いし、疲れるもん」
稽古の時間が、楽しくないらしい。
それなら本人の好きなことを習わせてやれと思われるかもしれないが、ここウラヴォルペ公爵家は剣術の名門。どのくらいの名門かというと、王国に一本しかない聖剣を代々継承しているという、それは大層な家門なのである。
この家に生まれて剣術が上達しないというので、将来この子が苦労するだろう。
それで、まずは遊びの延長で剣を振る楽しさを学ばせてほしいと、歳の近い俺に白羽の矢が立ったのである。
レオニアス様は、さっきとは打って変わってご機嫌な笑顔で、俺を見上げた。
「秋のバラが、きれいに咲いているんだ。だからね、お花を見ながら、おしゃべりしよう?」
可愛いなぁ。
俺は、素直にそう思った。そして、こうも思った。
姉と、足して二で割りたいなぁ、と。
――バァン!
応接間の扉が勢いよく開き、7歳の姉、アルナール様が意気揚々と飛び込んできた。
「来たわね、手下2号。いっしょに、公園に行くわよ!」
なぜか彼女は、俺を手下2号と呼ぶ。
我が身が
「えぇー。姉上、お庭で遊ぼうよー」
ソファで足をぷらぷらさせて抗議するレオニアス様。
しかし、続く姉のセリフで、態度がころっと変わった。
「にゃんこと追いかけっこするの。たくさんいるんだって!」
「わぁ、にゃんこ! ぼくも行く!」
それって、猫は追い回されるだけで、いい迷惑だよな。
とは思うが、稽古ができないなら、せめて体を動かす遊びをしたい俺としては歓迎だ。
……なんて考えた数分前の俺を、ぶん殴りたい。
公園まで、自分の足で走るのか。
あれ、貴族の子どもって、こういうとき馬車とか使うもんじゃねぇの?
午前中、従騎士としてすでにそれなりの訓練をしていた俺は、息を弾ませながら公園までたどり着いた。姉はすでに野ザルのように駆け回っており、レオニアス様は途中でへばったため、おんぶして連れてきた。
「にゃんこ、私が鬼よ! つかまえてやるんだから!」
「ぼく、白いねこちゃんと遊びたい!」
こうして、子どもたちが猫に夢中になって駆け回ってくれたら、俺はちょっと休憩できるかなと思ってたんだけど。
「噴水で濡れたところ走らない! 危ないでしょう」
「柵を登らない! そっちは立ち入り禁止区域です」
「おびえている子ねこに詰め寄らないで! 鬼ごっこでも、人道は守りましょう」
俺は、叫びまわる羽目になる。
ちなみに、すべて姉アルナールへの注意だ。
じゃあ弟のほうは手がかからないいい子かというと、そうでもない。
お付きの騎士から(さすがに、俺ひとりだけじゃ面倒見きれない)干し肉をもらったレオニアス様は、小さくちぎって地面に並べ、近づいてきた猫を捕まえる作戦に出たようだ。
猿みたいに走り回るよりは頭脳派だなと思って見ていたが、猫に飛びかかったため、猫が逃げ、レオニアス様はべしゃっと地面に転ぶ。
「うぇぇぇぇん」
泣きだしたレオニアス様のそばに、しゃがむ俺。
「なんで、泣いてるんですか?」
「だって、ねこちゃん逃げちゃって、ぼくは痛いから」
まぁそうかもしれないけど、騎士を目指す子どもが、こんなに簡単に泣いてしまうようでは、ちょっと困る。かと言って、5歳児にあんまり厳しくしてもしょうがないし……。
兄弟のいない俺は、しばらく悩んでからこう言った。
「あのね、大きな生き物が、いきなり飛びかかってきたら、怖いでしょ? レオニアス様だって、アルナール様が飛びかかってきたら、怖いでしょ? そりゃ、猫も逃げますって」
「うん、すごく、怖い!」
転んだまま顔だけ上げた彼は、バラ色の瞳をぱちくりさせて納得した。
「じゃ、もう一度、猫と仲良くなれるように頑張りましょう。立って」
俺の言葉に、彼はぷぅっと頬を膨らませた。
「お兄さんが、起こしてよ」
甘えているのは分かるが、無制限に甘やかすわけにはいかない。
俺は、ちょっと怖い顔を作って言った。
「姉上を、やっつける男になるんでしょ?」
初めて紹介されたとき、彼が話した言葉だ。「姉上をやっつける男になりたいから、よろしくお願いします」と。
その言葉の責任を、取ってもらわないとね。
俺は、そのおかげで苦労しているんだから。
レオニアス様は、泥のついた手で涙を拭い、地面に手をついて、自分で起き上がった。
俺は、笑顔を見せて、ハンカチを取り出す。顔についた泥を拭いて、手の平の傷を軽くおさえる。
「えらいですね。転ぶときに、ちゃんと手を出したんですね」
それができないと、顔面から地面に突っ込むことになるので、大けがにつながる。転ぶときに手を出すことは、大事なことだ。本当は、転び方によって手の出し方も変わるんだけど、今はこれでいい。
「ぼく、えらい?」
頷くと、レオニアス様は嬉しそうに笑った。
噴水で傷口を洗っていると、猫一匹捕まえたアルナールが駆け寄ってくる。
猫は、なにかを悟ったようにおとなしくしている。お疲れさま。
「次は、水遊びね!」
「いやいや、もう秋も終わりですから」
頭から噴水に突っ込みそうな姉の首根っこを捕まえて、引き戻す。
猫は、その隙に逃げて行った。
あれ、貴族令嬢って、こんなにパワフルな生き物だっけ?
じゃあもう一度猫を捕まえる、と駆け出そうとするアルナール様を、必死に止める俺。
レオニアス様は、干し肉を使って、上手に猫との距離を縮めているが……そろそろ、猫のみなさんから苦情が来そうだ。どうしたもんか。
話題転換の必要性を感じる。よし、姉には「食欲の秋」だ。
「ねぇ、そろそろ腹減りませんか?」
彼女は、キラリンと金色の瞳を輝かせて振り返った。
「そうね、肉が食べたいわ!」
レオニアス様も、寄ってきた。
「ぼくは、キャラメルドーナッツが食べたい!」
……俺は、どの店に行けばいいんだろう。
途方に暮れる俺の前に、救世主が現れる。
それは、公爵家の老執事。このタイミングのよさ、さすが老練の手管だ。
眼鏡の執事は、にこにこと穏やかに微笑んで、持っていたバスケットを開いた。
「さぁ、皆さん。唐揚げをたっぷり作ってきましたよ」
あれ、公爵家の執事って、バスケットいっぱいの唐揚げを持ち歩くもんなの?
「わぁっ、肉!」
アルナール様は、もちろん飛びついた。
執事は、レオニアス様にも声をかける。
「坊ちゃま、デザートもご用意していますから、まずはご飯を召し上がってくださいね」
執事が視線で示したバスケットはまだ閉じられているが、レオニアス様の食欲を呼び起こすには十分だったようだ。
俺たち三人は、並んでベンチに座り、唐揚げを食べる。
肉体労働の後の肉は、体にしみるなぁ。
だけど、それよりさらに俺を感動させたものがあった。
「うまい。これ、何だ?」
執事が飲んでいたものを、香りに惹かれて俺ももらったんだけど、すごくうまい。すごくいい香りで、見た目は黒くて、飲んでみたらほろ苦い。でも、なぜかほっとする。
「おや、コーヒーがお好きですか」
「へぇ、これがコーヒーか」
母はハーブティーを好む人で、父は仕事でほとんどいないので、個人的な趣味までは知らない。コーヒーという言葉は知っていたけど、飲むのは初めてだ。
野菜たっぷりのサンドイッチも食べた後、レオニアス様お待ちかねの、最後のバスケットを開ける。中には、色とりどりのドーナッツが入っていた。
俺は甘いものはあまり得意じゃないんだけど、コーヒーと一緒だと、自然に手が伸びるから不思議だ。
やがて、食欲が満たされた姉が、ひょいとベンチから飛び降りた。
「食後の運動よ。ミラーノ、先にあの木に登ったほうが勝ちね!」
と、俺の返事も聞かずに駆け出していく。
まぁまぁ背の高い木なんだけど、7歳児が、あれに登れるのか? あ、わりと危なげなく登ってるぞ。
やっぱ、野ザルで合ってるな。
レオニアス様もやってきて、登ろうとするけど、一番低い枝にも手が届かないし、それほどの跳躍力もない。
自分も登りたいと言うので、「危ないから、一番低い枝までですよ」と約束して、枝に座らせてやった。
すると、今度は姉が騒ぎ始める。
「あ、ハトだ!」
さらに木登りしようとするので、必死に叫ぶ。
「その上は、細いから登っちゃだめ! 鳥にも迷惑! 降りてきてください!」
なんだろう。
しょっぱい唐揚げと、甘いドーナッツが無限に食べられる気分だ。
そして、コーヒーが飲みたい。
俺たちの騒ぎを、下から悠々と見上げていた執事が、声をかける。
「ほほほ。お嬢様、真に強い者は、弱い者いじめなどいたしません。アピールしなくても、強いことを自分で知っているからです」
「……弱い者いじめじゃ、ないもん」
むすっとしつつも、素直に降りてきた。
ぱちんと、執事が俺に向かってウィンクを寄越す。
なるほど、
レオニアス様を下ろしてやっていると、姉が俺の服の裾を引っ張る。
「じゃあ、家まで競争しましょ! 負けたやつは、勝者の言うことを、一生聞くのよ」
「ひとつじゃなくて、一生なんですか……」
「えぇー。ぼくはもう、走るのイヤだ。お兄さん、おんぶしてください」
「控えめっぽく言ってますけど、貴方も相当わがままですよ?」
両手を子どもたちに引っ張られて、俺はたまらず笑った。
あぁ、弟や妹がいるって、こういう感じなのか。
頼られる気分っていうのも、悪くないなぁ。
――昔話を終えた俺は、コーヒーカップを、カウンターに戻した。
並んで飲んでいた友人が、「ふぅん、それで君は、今でも彼らのお兄さんなんだね」と感想を漏らす。
が、説教は終わらず、つまみのアーモンドを指で弾いて、俺の額に当てた。コントロールのいいやつだ。
「だからって、無茶ばかりする理由にはならないの。お兄さんならなおのこと、兄弟たちのお手本にならなきゃ。そうでしょ?」
銀色の三つ編みをゆらゆらさせながら、意外と鋭いところを突いてくる。
「まぁ、もう習性みたいなもんだから。せっかくの大人の時間だ、もっとゆったり楽しもうぜ」
「見ている方は、いつもハラハラさせられるんだよ」
そうぼやく彼の手元には、「白ワインのウーロン割」という、とんでもない代物がある。これを注文した時の、バーテンダーの怪訝そうな表情は、しばらく忘れられそうにない。
その奇妙な液体を飲み干しつつ、彼がぽつんと言った。
「明日には出発か。君は、どこまでもあの姉弟についていくつもりなんだね」
俺は、薄く笑っただけで答えない。言葉にする必要のない内容だった。
これからしばらく、苦楽を共にした仲間たちと別行動になるため、彼は感傷に浸っているらしい。
だけど、俺はいつも通り「お兄さん」をするだけだから、気負いはない。
俺は、軽く彼の背中を叩いた。
「残る仲間たちを頼む。だけど、お前もあまり無理をするなよ」
彼は、不満そうに、拳で俺の横腹をつつき返した。
「ふん。私の前で、年長者づらをするのはやめてほしいね。私のほうがお兄さんなんだから」
俺は、思わず吹き出してしまった。
実年齢はともかく、普段の言動を見ていると、とても「お兄さん」には見えない人物だから。
だけど、感謝するよ。俺の、昔話を聞いてくれてありがとう。
原点に立ち戻ることができたから。
コーヒーの香りを味わっていると、バーテンダーの視線がちくりと刺さる。
たぶん、「うちは酒屋なんですけど」とか思ってそうだけど、貴重な俺の息抜きタイムだ、勘弁してくれ。
この町に戻ってこられたら、今度は仲間と一緒に、酒を注文するからさ。
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